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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
44/52

7

 丹念に磨られた墨の香りがする。

 円い石板の窪地を満たす黒々とした海へ、ふっくらとした筆先をためらいなく浸す。じゅ、と墨色に染まる穂は長く愛用しているのか、少しまとまりが悪かった。竹の軸もわずかに汚れているが、大切に手入れしているようで、持ち主の手によく馴染んでいる。まだ幼い手は慎重に毛先をまとめると、脳裏で描いた軌跡に従い、真白な紙面に筆を滑らせた。

 やがて数行を書き終えると少女は手を止め、おのれの筆跡と手本をしげしげと見比べて、ほぅと息を吐いた。写していたのは年少者の習字の手本によく使われる、昔の歌人の作品である。完璧とまではいかないが、師範から及第点はもらえるだろう。

 銀朱は七歳になっていた。今は母の住む留芳殿りゅうほうでんではなく、隣接する秋水舎しゅうすいしゃで生活している。以前の房では手配した教師を招き入れるのにいろいろと都合が悪いため、英子の采配で移動したのだ。

 英子の提案に紗手は異論を唱えず、かといって賛同するわけでもなく、銀朱は見送りもなくひとりで新しい殿舎へと引っ越した。

 銀朱につけられた女官は少なく、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるわけでもなかったが、生活環境は格段に向上した。へやには必要な家具が一式そろっていたし、寝室には衣裳の詰まった長櫃が並べられ、守り鏡も置かれていた。それが父親が用意した物だと銀朱は永久に知らなかったが、王女として最低限のものはすべてそろえられ、遅ればせながら適切な教育を受けられるようになったのだった。

 覚束なかった言葉も今では人並みに操れる。食事の作法や行儀も習い、字も特段にうまくはないが年相応との評価を師範からもらった。じきに裁縫や歌や楽器の勉強も始まるだろう。

 手習いの続きにとりかかろうと、ふたたび筆に手を伸ばしたときだった。きし、と床が鳴き、居室に上がってくる気配を感じた。振りかえらなくても銀朱には正体がわかっていたが、確認のためにくるりと身体をひねる。

 視線の先では、予想どおりの人物が満面の笑みで立っていた。

「銀朱」

 以緒はかすかに首を傾げながら名を呼ぶと、銀朱の横に腰を下ろした。手入れをしながら伸ばしている髪はうしろでひとつに結い、最近では貴族の子弟が着る水干をよく身につけている。背丈や体格は、銀朱とほとんど同じだ。顔つきも服装も立場も異なるのに、銀朱にはときおり以緒が対のように感じることがあった。

「習字の練習をしているの?」

 のぞきこまれ、書き散らした半紙をささっと袖の下へ隠す。以緒の方が上手な気がしたのだ。

「なんで隠すの?」

「なんでもない」

「見せて」

「いや」

 以緒は真青な目をまん丸にすると、くちびるをつんと尖らせた。

「銀朱のけち。見せてよ」

「けちじゃないもん。以緒がわがままなの」

「わがままじゃないもん」

 不満を訴えてくる双眸に、銀朱も負けじと睨みかえす。

「以緒、またひとりで天関いわくらから抜け出してきてる。未良に怒られるよ」

 未良とは、以緒の守人の名だ。後宮といえど、以緒がひとりでうろついてはいけない身分であるのは、銀朱も学んでいた。

 本来ならば天関から出ることも許されないはずだが、以緒は昔からかまわず銀朱の房へやってきては周囲を困惑させていたので、守人か女官を必ず同行させるという条件で出入りを認められていた。しかし、それも守らないことがままある。

 自分を気にかけてくれるのはうれしいが、規則を破るのは銀朱も見過ごせなかった。以緒が怒られるのが嫌なのもあるが、大人に煙たがられるのは一概にして銀朱なのだ。

 幣を外界へ誘惑しているとの噂は耳にしている。だが、正直に事情を伝えるのは胸が痛んだ。何より、遠慮した以緒の足が途絶えることが、もっとも耐えられない。

 ささやかな反撃に、以緒は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

「だって、未良うるさいんだもの。それに今日は絶対にひとりで来ないといけなかったから……」

 即座には理解できなかったが、その意味はすぐに判明した。風に揺らぐ壁代にうっすらと人影が浮かび、穏やかな女性の声が鼓膜をくすぐった。

「――銀朱様、いらっしゃいますか。千由子でございます」

「千由子!」

 銀朱は歓声をあげながら廊下へ駆け寄った。出迎えてくれた袖にまとわりつき、手を握って室内へ誘いこむ。千由子は以緒の姿を認めてはっと息を呑んだが、ほかの大人のように畏縮はしなかった。

「ごぶさたしておりました。銀朱様、以緒様」

「うん。千由子は元気だった?」

「はい。おかげさまで、皆息災に過ごしております」

 ぴったりとくっついて座っても、彼女は嫌な顔ひとつしない。衣に焚きしめた香は千由子のたおやかな手のひらのようにやさしく、銀朱の心を落ち着かせる。

 千由子が後宮を訪れたの実に三か月前――雨期の寸前だった。どんよりと重い曇天の日中に、人目を気にする様子でやってきたのを覚えている。そのときは以緒はいなかったので、銀朱はたっぷりと千由子を独占できた。

 その前はそろそろ桜が咲く頃で、天関の女官に咎められてすぐに帰ってしまった――彼女らは幣の扱いに特に神経質なのだ。だから今日はとても運がいい。以緒がひとりで抜け出してきたのも、千由子と長く過ごすためだろう。

「以緒様はお元気でしたか?」

 千由子に問われて、以緒の顔に満面の笑みが開く。

「うん。今年はね、氷室の氷をたくさん食べたの。銀朱も一緒に」

「まぁ、お腹は大事ございませんでした?」

 千由子を挟んで反対側へ、以緒は腰を下ろした。

「ちょっとだけね、壊しちゃったけどすぐに治ったから大丈夫。ねぇ、千由子は氷を食べた?」

「はい。雅栄殿下から賜りました」

「わたしはねぇ、糖蜜をかけるのが好き。銀朱は小豆を炊いたのが好きなんだけど、わたしはあんまり食べられないの。千由子は何が好き?」

「わたくしは――」

「千由子」

 ぐい、と強く手を引っぱり、千由子の関心を無理やりおのれへ向ける。

「お習字だいぶできるようになったの。見てくれる?」

 彼女はわずかに驚いていたが、すぐに微笑を浮かべてうなずいた。目の端で以緒が拗ねているのはあえて無視する。

 大人は以緒を畏れているのに、常に銀朱より以緒を優先した。それが〈幣〉と王女の差だとわかっていても、今だけはどうしても譲れない。千由子がどこかうれしそうに以緒を見つめていたのも、銀朱には不愉快だ。自分勝手だと頭では理解していても、彼女には自分だけを見てほしい。

 ついさきほど、自分で入れたしわを伸ばしながら半紙を広げる。みずから言い出したわりに、胸を張れるほどの自信はなかった。それでも千由子は目を細め、一流の書を見たかのように感嘆の息をもらした。

「お上手になりましたね。整っていてとても美しい字です」

 銀朱の頬がじわじわと赤く熟れていく。これほど明瞭に褒められた経験はほとんどない。うれしいような気恥ずかしいような――落ち着かなくて背中がもぞもぞとこそばゆい。

「……でも、先生はこの字がよくないって言うの」

「この字は崩れやすいですからね。ですがよく書けていると思います。練習すればきっとよくなりますよ」

「ほんとう?」

「はい。銀朱様は何事も習得がお早いですから、すぐに上達なさいます」

 無意識に口角がつり上がるのを感じて、銀朱はきゅっとくちびるを噛んだ。なぜだかとても目が熱かった。それが慣れぬ賛辞に喜んでいるからだとは気づけず、むずむずする身体を落ち着かせるのに苦心する。

「わたしも書けるよ。千由子、見て!」

 張りあった以緒が、銀朱の筆を取ろうと身を乗り出す。それをやんわりとたしなめようとした千由子の袖にいつの間にか手が伸びていた。驚いたふたりの視線に銀朱は我に返ったが、こぶしを握る指は固い。

「銀朱様?」

 謝らなければ、と紡ごうとした音は喉で痞え、胃の底に冷たく落ちていった。

 理由は銀朱にもわからない。何とかして言い訳をと、ふたたび開いた口からこぼれたのは、本人でさえ思いも寄らない言葉だった。

「千由子がお母様だったらよかったのに」

 直後抱いたのは後悔で、舌の上が途端に苦くなる。

 気まずい沈黙に銀朱はうつむいた。さすがに千由子も自分のような出来損ないを娘にしたいとは思わないだろう。

「銀朱様、そのようなことを仰っては……」

「千由子の子になりたい」

 緊張と恐怖のせいで声は震えていた。しかし意思に反して口は訴えつづける。そしてようやくそれが自分の本心なのだと、抑えつけてきた願いなのだと、銀朱は気づく。

 千由子なら、千由子と一緒なら――何度孤独に泣きながら考えただろう。彼女と毎日過ごすことを幾度夢想しただろう。

「千由子と一緒に暮らしたい。千由子に会えないとすごく悲しいしさみしい」

「……お母様が知られたら悲しまれますよ。紗手様は、銀朱様のことを大事に思っていらっしゃいます」

「うそ。お母様はわたしのこと嫌いだもの……」

 紗手の嫌悪に歪んだ顔を思い出し、銀朱は歯を食いしばった。

 先日、雅栄が後宮を訪ったときに、彼女はひさしぶりに母とまみえた。父王は後宮の正殿で形式的に妃や娘と対面しただけで、私的な会話は一切なく、のちほど更衣用の反物が届けられただけだった。

 雅栄は銀朱が物心ついたころからそうで、后妃と共寝するために後宮へ足を踏み入れはしない。ゆえに、血の繋がった父子といえども、言葉を交わした記憶もほとんどない。

 父が去ったのち、紗手は銀朱を見下ろし、不快げに目を眇めた。かたわらでは異母妹が生母と親しくしているのをとらえながら、もう期待してはならないと、少女は胸に深く刻んだ。

 紗手は泣いているから、うるさいから嫌っているのではない。銀朱の存在そのものが厭わしいのだ。

「お父様も、お母様も、わたしのことが嫌いなの。女官だってそう。遊んでくれるのは以緒ぐらいだけど、以緒は天関にいるし……」

 幣だから自分とはちがう――とまでは、本人を前にとても言えない。

 以緒のことは好きだ。だがどうしても羨望が胸を巣くう。以緒の好意は本物で、決して千由子に会うためだけに天関を抜け出してくるのではないと信じていても。

「銀朱、ごめんね」

 にじり寄ってきた以緒にのぞきこまれると、おのれの醜さがさらに際立つようだった。鮮やかに澄んだ瞳は銀朱にはただ眩しい。

「ごめんね。もっと銀朱と遊べるように永隆様にお願いしてみる。だから泣かないで」

 そういうことじゃないとかぶりを振るが、以緒にはまるで通じない。結局嫌味となってしまい、情けなさに涙が滲んできた。困らせたいわけではないのに、謝らせたいわけでもないのに、なぜ自分はこれほどみっともないのだろう。

「……銀朱様、どうかご立派な王女になってください。そうすれば、きっとお父様もお母様も褒めてくださいます」

 千由子の発した内容に銀朱は愕然とした。まさか彼女がそんなことを言うとは――しがみついていた手を引き剥がされたようで、痛みにぐしゃりと顔が歪む。

「千由子も、わたしのことが嫌いなの?」

「いいえ……、そうではないのです」

 彼女の瞳に苦悶がよぎる。同情や憐憫、愛情の狭間で煩悶しているのだと悟るほどに、銀朱は長じていなかった。

 千由子は迷いを面に浮かべながらも、いまだ固く閉じられている小さなこぶしにおのれの手を重ねた。その熱がいつも以上にやさしく思えて、まだ突き放されてはいないと、まだ大丈夫だと、それだけは知った。

「わたくしはいつも銀朱様のことを思っております。ですから、お父様とお母様のことを信じてください。おふたりも、わたくしのように銀朱様のことを気にかけておられるはずです」

(そんなはずない……。だって、千由子はなにも知らない)

 紗手の嫌悪も、雅栄の無関心も、千由子は目撃していない。だからそんなことが言えるのだ。

 しかし反論したら今度こそ見離される気がして、とうてい口にはできなかった。不満を呑みこんであごを引く銀朱の肩を、千由子の手がやさしく宥める。

「今日はこれでお暇いたしますね。お習字を見せてくださってありがとうございました」

「……今度はいつ来る?」

 縋るような問いに、憂いを消して千由子は微笑む。

「また近いうちに」

「必ず来て。菊が咲く前に来て」

 菊の時期まであとひと月だ。普段の感覚を鑑みれば無理な要求である。

「わかりました。では、菊が開く前には参ります」

 だが千由子は快く承諾した。何度も何度も念を押して、立ち上がった背中にもう一度確認してからようやっと別れを告げる。

 衣ずれが遠ざかり気配も消えたころ、どこからともなく女官が姿を現した。おそらくずっと物陰から様子をうかがっていたにちがいないが、会話の邪魔をしてこないところは天関の女官にくらべると好ましい。

「……銀朱、わたしも天関に戻るね。永隆様にもちゃんとお願いするから、ね?」

 うん、とうなずくと、以緒は銀朱の頭を撫でてから室を出ていった。

 ふたりが去り、話し相手もいなくなった空間は、途端に殺風景に映る。散らかした半紙を片づけながら、自分で入れたしわがとてつもなく恨めしくなってきて、銀朱は鼻水を啜った。

 下手な見栄など張らずに見せればよかったのだ。以緒だって今度はいつ来てくれるのか――千由子よりよほど頻繁に来るので、天関の女官や守人は頭を痛めているらしいが――さだかではないのだ。一緒に食べようと取っておいた菓子も食べ損ねてしまった。

「……以緒、ごめんね」

 ぽつりとこぼれおちた謝罪が届くはずはない。嫉妬ばかりしてしまう自分への失望と、以緒への申し訳なさに、ただただ涙に視界が歪む。

 銀朱は袖で目をこすってから、手習いの道具を片づけた。今度はきっと以緒に謝ろうと、花の形をした干菓子に誓った。

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