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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
43/52

6

 暑気の籠もる房で、銀朱は額に前髪を張りつかせながら人形で遊んでいた。千由子も相手をしながら、せめてもと扇で風を送ってやる。

 日当たりも風通しも悪い房は、初めて訪れた春は肌寒かったというのに夏ともなればじめじめと蒸し暑い。雨期が過ぎ、蝉時雨がかしましいこの時分にはまさに地獄だ。

 銀朱のこめかみを伝う汗を認め、千由子は手巾でぬぐってやった。幼いせいかよく汗をかくので、こまめに水を飲ませるよう気を配っている。

 幾度にも渡る主張の甲斐あってか、滋雅しげまさは月に一度の参内を許してくれた。紗手は彼女が銀朱に入れこんでいるのを知っていたが、素知らぬ態度を貫いている。主が無関心なので女官も千由子の行動には口を挟まず、ほんのわずかの時間だが千由子は銀朱の相手をするようにしていた。

 銀朱に接するようになって驚いたのは、幼い王女は三歳という歳に見合う知識をまったく身につけていないことだった。初見の時にも感じたが、とにかく言葉が拙い。三歳にもなればたいていの子どもは大人の真似をしてませた口を利くものだが、銀朱は単語を繋ぎあわせるのさえ苦手だ。飲み物や菓子を口に入れるときにこぼしても気にかけず、注意する者もいないので、衣は常にしみで汚れていた。

 このままでは、銀朱は身分にふさわしい立ち居振る舞いや言葉遣いさえ覚えずに育ってしまうだろう。一国の王女に生まれ、器量にも恵まれながら、しかるべき教育を与えてもらえない。それではあまりにも不憫だ。

 といえども、千由子が雅栄まさはるに進言するわけにはいかない。後宮の管理は主である英子の仕事であるし、他人であり臣下である女が国王の私生活に口を挟むなどおこがましすぎる。

 本来ならば、生母である紗手が何かと手を尽くすべきことだ。事実、銀朱よりひとつ年下の王女は、生母や周囲の女官によく世話されており、殿舎の側を通るたびに子どもらしい笑声が漏れ聞こえてくる。あちらの中心は常に幼い媛であり、常春のような穏やかな明るさに満ちていた。

「ちゆこ」

 黙考していたせいか、いつの間にか扇ぐ手が止まっていた。現に意識を戻せば、銀朱が白磁の水差しを指差している。

「ん」

 水がほしいのだろう。千由子は扇を閉じ、額にべったりと張りつく銀朱の前髪をよけて汗を拭いてやった。

「水です。みず、と言うのですよ」

「みず」

「水がほしい、と言うのです」

「みず、しぃ」

「ほしい」

「おし」

 胸中で苦笑を漏らしつつ、水を満たした茶碗を銀朱に差し出す。両手で茶碗を持ち、一生懸命に飲む姿はほほえましくもどこか物悲しく映った。

 衿にこぼれた水をぬぐっていると、ぱたぱた、と軽やかな足音が房を目指して近づいてきた。足取りからして女官ではなく子どもだ。心臓がひときわ強く脈打つと同じくして、心待ちにしていた声が千由子の鼓膜を震わせる。

「ぎんしゅ!」

 壁代をぱっ、と跳ねさせたのは、やはり以緒だった。銀朱が喜ぶとともに、千由子の頬も無意識にほころぶ。

「ちゆこ、やっぱりいた!」

 以緒は背中を振り返って自慢げに言った。その視線の先、柱の影からふいと大きな人影が現れる。冷ややかな双眸が千由子に焦点を定めると、浮ついていた気持ちはあっというまに暑気に攫われていった。

英子あやこ様」

 英子は以緒の手を取り、ともに房へ上がってきた。一瞬、眉をひそめたのはよほど空気が澱んでいたからだろう。以緒が銀朱と遊びはじめたのを確認すると、彼女は伴った女官に命じて壁代を移動させた。房を区切る引戸を開いてしまえば、一応の風の通り道は確保できる。

「外から見えてしまいますが、少しばかりご辛抱くださいね」

「あけたほうがきもちいよ。ねぇ、ちゆこもいっしょにあそぼ!」

「以緒様。千由子殿はわたくしと用事がございますので、銀朱殿と遊んでいらしてください」

 以緒はくちびるを尖らせたが、人形を取るとすぐに銀朱との遊びに没頭した。同い年の遊び相手ができてよほどうれしいのか、それとも以緒を慕っているのか、銀朱も機嫌がいい。思えばふたりは従姉妹であり、気が合うのも道理かもしれない。

 ふたりの様子を盗み見しながら心を和ませていた千由子は、英子に呼ばれて意識を引き締めた。

「聞いてはいます。ずいぶんと銀朱殿にご執心とか」

「滅相もございません。紗手様のお相手を勤めたのち、ついでに立ち寄っているだけでございます」

「ついで、ですか」

 英子の視線が子どもたちへ滑らされる。調度品のそろわないこの小部屋では、高位の者を迎える用意も調っていない。千由子は一応下座を選んだが、英子は褥もなく床に座しており、とても上座とは言えない待遇だ。

 それでも三、四人の女官が増えただけで、環境はがらりと改善された。ひとりが扇で風を送り、ひとりはお茶や菓子の準備をし、あとは円座や以緒の玩具をそろえる。人が増えればそれだけ場が明るくなった気がした。

 しかし、はしゃぐ子どもたちの一方で大人の表情は冴えない。

「……千由子殿のお気持ちも察しますが、あまり傾倒するのは好ましくありません。あなたのお役目はあくまで紗手殿の話し相手であり、媛の世話役ではないのですから」

「申し訳ございません。……ですが、銀朱様には世話をする女官のひとりもついていないのです。今日もわたくしが訪れなければ、媛は水も飲めずに喉を涸らしていたはずです」

 子どものいる場でする話ではない――だが千由子は問わずにはいられなかった。

「なぜ、紗手様は銀朱様をお厭いになられるのですか? 女官でさえ嫌うような殿舎の北の端に室を与えられて、誰にも相手をされずにおひとりで過ごされるのは、あまりにも哀れではございませんか」

 声量は抑えたが、やはり語気は荒くなってしまった。ひそかに様子をうかがえば、ふたりは笑声をあげながら人形に夢中になっていた。

 以緒は女官が持ってきた人形の中から、白馬を選んで遊んでいる。純白のたてがみにひとつひとつの馬具まで丁寧に再現された立派なものだ。馬が好きなのだろうか、とつい以緒を追ってしまう。

「紗手殿は銀朱殿を厭うているのではありません。おそらく、幼い子どもへの接し方がわからないのです」

「……お生まれになってからすでに三年が経ちます。紗手様がわからないと仰るならば、せめて乳母だけでもお側に置くべきではないですか?」

「私への報告では、乳母は銀朱殿の身辺の世話を任されているとか」

 そこで英子は、めずらしく吐息をもらした。

留芳殿りゅうほうでんのことは紗手殿の采配ですから、私もここを訪れるまで報告を鵜呑みにしていました。後宮の主として目が行き届いていなかったのは認めます。私の女官をつけましょう」

 英子は聡い女性だ。彼女の女官ならば、王女である銀朱を粗末に扱うなど愚かな真似はしないだろう。

「差し出がましいのは重々承知の上ですが、銀朱様にはいささかご教育も足りていないようです。どうか、教師も手配していただけないでしょうか。このままでは、一国の王女としてふさわしい教養も身につけられません」

「わかっています。そちらも早々に」

 ようやく千由子は肩の力を抜いた。謝意とともに頭を垂れるが、英子の表情はあまり芳しくない。

「今回は私にも落ち度がありましたから、千由子殿の発言も看過します。ですが、今後はこのような真似はいっさいお控えくださるように。紗手殿が知ればよい顔はしないでしょう」

「……承知いたしました。ご温情感謝いたします」

 多分、紗手は英子が銀朱の世話を焼くのも不快に思うだろう。それとも無関心を貫くのかはさだかではないが、彼女は正妃ゆえに矢面に立ち、千由子のかわりに批難を浴びるのだ。それほど歳は変わらないのに、英子の聡明かつ気丈さには遠くおよばない。

 するとそのとき、にわかに銀朱が走り寄ってきたかと思うと、千由子の隣に遠慮がちに座った。袖を握りながらおそるおそるといった様子でこちらの顔色をうかがっている。

 それでようやく、この子は大人との接し方がわからないのだと知った。甘えたくとも叱られないかと怯えているのだ。

「どうかなさいましたか?」

 満面の笑みで迎えると、銀朱は安心したように頬を緩めた。すっかり懐いてくれているのがうれしい。

「ぎんしゅ、ずるい!」

 ぷっくりとリスのように頬をふくらませて、以緒も駆け寄ってくる。

 突然の好機に、千由子の心臓がどくりと脈打った。英子に悟られるわけにはいかない――乗り出しそうになる身体を理性で抑えつけ、なるべく自然に手を差し伸べる。歓迎されていると知ると、一転して以緒の顔にぱっと笑みが咲いた。

(あと――少し)

「以緒様。千由子殿はご病気が治られたばかりで、まだ体調が芳しくないのです。走り寄って負担をかけてはなりません」

 あと一歩というところで、英子の注意が以緒の足を止める。

「……そうなの?」

「っ、いえ、気になさるほどでは」

「千由子殿、無理はなりません。身体のためにもそろそろ戻られた方がよいのではありませんか? あなたに何かありましたら、滋雅殿に申し訳が立ちません」

 明るく弾けそうだった以緒の表情は、目の前でみるみるとしぼんでいった。その様に千由子まで胸が痛くなる。

 大丈夫、心配しないで――そう言って抱きしめてやりたい。以緒の熱を、匂いを感触をたしかめたい。

「ちゆこ、ごめんなさい」

 千由子はくちびるを噛んだ。これほど悲しい表情をさせた英子が急に憎くなった。

「いいえ、大丈夫ですよ。身体はそれほど悪くないのです。けれど、皆お優しい方ばかりですから、心配なさって少し大げさに仰るのです。以緒様のせいではありませんよ」

「ちゆこ、いっしょにあそんでくれる?」

「もちろんです。ですが……」

 一度言葉を切り、横目で英子をうかがう。おそらく彼女は引かないだろう。

「殿下の仰るとおり、今日はお暇させていただきます。また後日、ぜひお相手させてくださいませ」

「やくそくよ?」

「はい」

 英子に再度うながされ、うしろ髪を引かれつつ辞去を告げる。幼いふたりの寂しげな様子に二度三度と振り向くが、英子本人に送っていくと言われれば拒めるはずもない。女官を残して廊下へ出ると、紗手の居室の方へは向かわず、今は住人のいない殿舎へと渡った。

 英子は千由子と以緒が接触するのを避けようとしていた。たとえみてくらが皇帝の宝で、千由子が臣籍に下った王弟の妻であっても、以緒自身の意思ならば止める必要はあるまい。くわえて、以緒がやたらと千由子に近づかないように釘まで刺した。

「……幣様は、銀朱様と仲がよろしいのですか?」

 前を行く背に、千由子は問いかけた。耳朶をくすぐっていた衣ずれが止み、英子が振りかえる。

「そのようですね。理由は存じませんが、幣様はなにかと銀朱殿がお気に入りのようです。以前は乳母や守人にも告げずに天関いわくらを抜け出していたので大変でした」

「天関からおひとりで?」

「はい。しかも深夜に」

「そんな刻限に……? なにゆえですか」

「銀朱殿が泣いていたからとか」

 そのときのことを思い出したのか、英子は袖を口元に添えつつため息をつく。

「銀朱様が、幣様からお人形をいただいたと仰っていました」

「あぁ……。そういえば、あれは幣様に差しあげたものです」

「馬のぬいぐるみをお持ちでしたね。馬がお好きなのですか?」

「たしかに、馬はお好きなようです。木馬でもよく遊んでいると女官から聞きます」

「ほかにお好きなものはあるのですか?」

 すぅ、と英子の瞳が眇められる。興奮して口が過ぎたのを千由子は知った。

「そのようなことを知ってどうするのです?」

「いえ、けして邪な理由では……」

「幣に愛着を持ってはなりません」

 まるで背中を鞭で打たれたようだった。衝撃と動揺に息を呑みながら、英子の端正な立ち姿を凝視する。

「幣は皇帝の宝、皇帝の所有物――人の姿形はしていますが、あれは人ではありません。皇帝の即位のためだけに存在する物で、それ以上の役割は与えられていないのです。情を抱いて傷つくのは千由子殿ですよ」

「っ、それでは、あまりにも非道ではありませんか!?」

 千由子は耐えきれずに声を荒らげた。周囲に人気がないのも重なり、立場を忘れて食ってかかる。

「たとえ幣であろうと、言葉を交わせば情を抱くのは人としての情けです。それを物のようにあつかうなど、あまりにも非情ではありませんか。慕われれば愛おしいと思うのは当然でしょう」

「たしかに以緒様は人懐こい性格でいらっしゃいます。ですが、それはただのまやかし。所詮は神への捧げ物です」

「――捧げ物」

 〈幣〉とは、もとは神への捧物を指す言葉だ。布帛、紙、神饌などを言う。

 神の宝と言えば聞こえはよいが、英子の言うとおり、幣は皇帝の登極のための生け贄だ。神を得るために、桐は人をひとり、神へ差し出すのだ。

「……存じております。ですが、わたくしはとても英子様のようには割りきれません。目の前で無邪気に笑いかけられて心を動かさずには……」

 きつく噛みしめれば、不快な音とともに奥歯が軋んだ。理解していようと、他人から生け贄と断言されるのはひどく残酷だ。死ぬために生きている――それが以緒の価値だと、信じたくはない。

「では、犬か猫と思えばよろしいのでは」

「っ、英子様!!」

 あまりの言い様に、カッと頭に血が上る。

「幣であろうと、あの子はまぎれもなく人の子です。同い年の子どもを慕い、馬を好み、他人の体調を慮ることのできる心優しい娘です。たとえあなたが幣を獣と同様にあつかおうが、わたくしには人としての情があります。英子様が実の御子である皇太子陛下を慈しむように、わたくしにも子を愛する心があるのです!」

「私は陛下をおのれの息子だとは思っていません」

 ひやりとした声音が千由子を射竦める。予想外の告白は、沸騰する感情を一瞬で冷ました。

「私は皇帝に胎を貸しただけにすぎません。陛下が私を母と呼ぼうが、私は陛下を我が子だと思ったことは一度もありません。皇帝は神であり私は人――それは覆らぬ事実です。雅栄殿下も、私と同意見でしょう。私たちは陛下の忠実な臣下として、神や国のために身を捧げるまでです」

 返す言葉も見つからずにたたずむ千由子へ、彼女は淡々と説きつづける。

「千由子殿も桐の民として、皇帝の臣下として、心を捧げなさいませ。それが己が身を守る唯一の手段でもあります。これ以上、心を惑わすのは誰のためにもなりません。幣が幣であるのは、どう足掻いても変えられないのです」

 ――ああ、やはり。

 くちびるからこぼれた確信が、はたして英子に届いたのかどうか。だが、続いた言葉は肯定にしか聞こえなかった。

「臣下として身をわきまえると誓えるのなら、幣と会うのも許しましょう。我々は滋雅殿と千由子殿を信じています」

 英子は王后として命じると、応えを待たずに歩き出した。千由子に拒否権などないと背中で語っているようだ。

「……英子様、あの子はわたくしの――」

「ここは皇宮ですよ、千由子殿」

 足を止め、わずかに千由子を振りかえる。その姿は凜と誇り高い。

「皇帝のおわす皇宮です」

 千由子はくちびるを噛み、痛みの壁を以て漏れかけた質問を抑えこんだ。

 これは英子の警告だ。どこに誰の耳があるかさだかではない。特に皇太子は人よりも感覚が優れているから、宮中の会話を拾うなどたやすいだろう。

 つま先から悪寒がじわじわと這いあがってくる。全身に伝播し侵蝕していく震えは眩暈を誘い、一歩を踏み出してもまるで床を踏んでいる感覚がない。それは不安定な小舟の上のようで――実際、千由子は急流に落ちた木の葉のごとく弄ばれているのだ。皇帝と、国王夫妻と、そしてこの国と神の有り様に。

 しかし英子が与えてくれた確証が、わずかな希望として千由子の胸に根を下ろした。

 失ったはずの娘が生きている。それはこの三年間溺れもがいてきた闇を薙ぎ払う、たったひとつの光だ。

 たとえすぐに失われる光であろうと、今以上に深い暗闇への入り口であろうとも。以緒が生きている喜びに勝るものはなかった。

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