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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
42/52

5

 千由子は屋敷に着くなり、滋雅を自分の室へと連れこんだ。世話の者を全員追い出し、壁で囲まれた寝室にふたりきりで籠もる。扉も閉めてしまえば昼夜問わずに漆黒の世界で、燭台に火を灯しても闇が濃くなるだけだった。

 滋雅は突然の奇行の理由を問い質そうとしたが、彼が言葉を発するよりも千由子が限界に達する方が早かった。

みてくらに会いました。あれはわたくしの娘です」

 急かされるように吐露した声は、ほとんど悲鳴だった。滋雅の袍を掴み、千由子は堪えてきた感情を爆発させる。

「ひと目で――いえ、顔を見る前にわかりました。あれは、あの子は三年前に亡くしたはずのわたくしたちの娘です。あの子は幣として皇宮に奪われていたのです」

「千由子、いったい何を……」

「あの子の気を見ればわかります。たとえ幣にされようと、おのれの腹を痛めて産んだ我が子ですもの。あの子には、わたくしと滋雅様の気がたしかに受け継がれていました」

 『気』とは、この世に存在するすべてのものが持っている生命の源であり、世界を形成する最も基本的な要素だ。生命の気にはそれぞれ個体差があり、通常人間の目には見えないが、皇帝の世話や神事を担う神司は気が感じられるように訓練を受けた。千由子もその家系の一員として、わずかながら才がある。

 幣は、世界の法則からかけ離れた異常な気をしていた。おそらく、人間を歪めて生み出しているからだろう。

 なぜ皇帝が人として生まれるのか、なぜ幣が必要となったのか。真実は周知されていないが、皇帝の片われであった月の女神が大罪を犯し、世界を統治する神が皇帝ただ一柱になってからのことだという。それ以前は、転生を必要としない不老不死の肉体を持っていたそうだ。

 幣はあくまで皇帝を輔ける仮宿であり、神の恩寵を得ていても神ではない――だが人でもない。地上にも、天上にも属さない異物だ。

 だがその異物の中に、わずかではあるが千由子と滋雅の断片を見つけた。千由子の本能が以緒に反応した。

「……千由子、君の気を読む才能について私は疑ってはいないけれど、それはおそらく気のせいだ」

「いいえ、ありえません。だって、あんなにもあなたと同じ目をして笑うのですよ? 顔の造作はまったく似ていないのに、笑い方も、まとう空気も、あなたと同じなのです。わたくしにはわかります。あの子は、この身体で十月十日大切に育んだわたくしたちの娘です」

 妖しげに双眸をぎらつかせる千由子を宥めるため、滋雅は両肩に手を添えた。

「千由子、落ち着くんだ。おそらく同年の子どもを見て混乱しているだけだろう。――残酷な言い方だが、私たちの娘は亡くなった」

「いいえ、いいえ。ちがうのです。生きていたのです。騙されていたのです」

「少し休んだ方がいい。しばらく参内は控えさせていただこう」

「滋雅様、どうか信じてください!」

 髪を振り乱し、何かに取り憑かれたかのように必死に取りすがる。何とかして滋雅に事実を伝え、理解してもらわなければならない。

「わたくしたち、あの子の顔を見ていません。産婆に取りあげられそのまま死んだと告げられただけで、身体に障るからと棺の中さえ確かめていません。幣を授かるとされているのは新月の日――わたくしがあの子を産んだ日も新月です。思い返せば、あの日は雅栄殿下からの使者が訪れていました。あの子の誕生を祝うためと聞かされましたけれど、成煕のときはそのような者は来ていません。たとえ弟と言えど、一介の臣下の出産に遣いをやる主君がいるでしょうか。雅栄様は――殿下はすべてご存じだったのです」

 滋雅にわずかな動揺が走る。彼でさえ、娘の顔を見ていないと聞いていた。

 分娩の介助に携わった産婆は雅栄が手配した優秀な女性で、たしかに手際はよかったがその後の処理も速かった。残酷な現実から立ち直ればすでに棺は用意されており、彼らはかろうじて産婆から性別を聞き出して、つけるはずだった名を墓碑に刻むしかなかったのだ。

 当時は千由子も動転しており、周囲の違和感に気づく余裕などなかった。しかし、今になって思い返せば、父親である滋雅さえ子どもの姿を見ていないなど、いくらなんでも不自然ではないだろうか――赤子の棺など、そうも素早く用意できるだろうか?

「滋雅様。わたくしたちの娘が幣として生まれることを、皇帝陛下も雅栄様もご存じだったのです。そうしてあの日、あの子を皇宮へ連れ去るために産婆と使者を屋敷に寄こしたのです。さきほど両殿下がわたくしの参内を渋られたのも、幣と顔を合わせるのを恐れたからでしょう」

「……千由子、気のせいだ。考えすぎだ」

「いいえ、ちがいます。すべて事実です」

「千由子」

 粛然かつ厳格な声音で諫められ、千由子は口を噤んだ。彼がこれほど怒りをあらわにするのは初めてだ。

 だが、滋雅は怒鳴るでも詰るでもなく、固くくちびるを結んで煩悶していた。乏しい灯りのため細かな表情は読めないが、肩にふれる手から緊張が伝わってくる。頭ごなしに否定しているわけではないのだ。

「……幣は陛下が登極なさるときに消える運命です。このままでは、あの子は十九になる日に今度こそ死ぬのです。実の家族も知らぬまま、娘としての幸せを味わうこともなく」

 幣は性別を持たず、天の色の双眸と、背に皇帝の紋を持つという。その人外を思わせる外見に、人は幣を崇めつつも忌避する。

 神の宝として天関で偽りの愛情の下に育てられ、たった十九で命を奪われる――そんな残酷な人生をわが子に歩ませたくないと願うのは、母親としてごく自然な感情だ。止められるはずがない。

「千由子……やはり考えすぎだ。あの子は死んだ。同じ日に幣を授かったのは単なる偶然だろう。たとえ皇宮からの使者と言えど、この屋敷から嬰児を連れ出すなどそうはたやすく行えないよ。もう忘れた方がいい」

「滋雅様、どうか聞いてください。あの子を見捨てないで――」

「千由子」

 遮られるとともに、おもむろに胸へと抱き寄せられる。腕にこめられた力は強く、千由子はぐっと言葉を呑みこんだ。

 きっと、滋雅は自分を信じていないわけではない。だが証拠もなく、根拠も不十分だ。くわえて滋雅は無闇に兄に疑いをかけたくないだろう。それは臣下として主君への忠誠であると同時に、兄弟の敬愛があるからだ。

(もどかしい……)

 この確信を、滾々と湧く以緒への愛おしさを、どうしたら夫に理解してもらえるのだろう。自分は狂ったのではないと、どうしたら証明できるだろう。

「少し横になった方がいい。緊張して疲れたはずだ、しばらく屋敷でゆるりとしよう。成煕が花見を楽しみにしていたから、それまでに治さなければ心配するよ」

「わたくし、気が触れたのではありません」

「わかっている。千由子がすべて事実だと信じているのも、わかっている。しかしこれ以上口にしてはいけない……わかるね?」

 ただの慰めなのか、それとも本心なのか。千由子には判別できなかった。唯一わかったのは、滋雅にはこの話題を続ける気はないということだ。

 おのれの無力さに目頭を熱くしながら広い胸に顔を押しつける。震えだした妻を滋雅はひたすらに労ってくれた。それでも彼は千由子に同調はしない。慰められればされるほど、千由子の訴えはこの閉鎖空間でのみの妄言になっていく。

 何としてでも、以緒が娘である証拠を得なければならない――それだけが千由子の頭を占めていた。

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