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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
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4

 焚きしめられた香の匂いを深く胸の奥で味わいながら、千由子は国王夫妻と皇太子の来臨を待っていた。紗手を訪ねた数日後、滋雅とともに快復の報告に参じたのだ。

 磨きあげられた床に視線を落とし、沈黙とともに訪いを待つ時間はどこか懐かしい。ここが世界で最もたっとい皇帝のおわす宮なのだと、自然と湧き出る畏怖に心身が緊張する。

 世界を統治する神――現在は皇太子として人の世で暮らす『甥』に、千由子は何度か会ったことがある。生まれて間もなくと、年始の挨拶にだ。それでも皇太子の玉顔を拝するなど、滋雅や千由子の地位では本来なら許されない。すべて親類として、私的な場を設けてのことだ。

 皇帝の証である太陽の双眼を持つ彼は、肉体は幼子でも精神は神だった。言葉遣いやたたずまいは外見にそぐわず、その奇怪さに人智を越えた力を感じて背筋を冷やすのは千由子だけではないだろうが、畏れおおくも神に対してそれを明らかにする人間は皇宮には存在しない。

 両親である雅栄と英子をふくめ、皆等しく、永隆にひれ伏す。それが桐の摂理だ。

 やがて国王夫妻と皇太子が広間に現れた。御簾越しに彼らの影を確認しながら、額を床へこすりつける。永隆が中央に、向かって右に夫妻が着席すると顔を上げるようにうながされ、女官によって御簾も巻きあげられる。

 齢七つの皇太子を認めたその瞬間、胸がすっと冷えるのはいつものことだった。

「久方ぶりだな、千由子。顔色も気も良い」

 永隆のいたわりに、千由子は微笑で緊張を押し隠した。

「ご無沙汰しており申し訳ございません。皇太子陛下と両殿下のご厚情により、すっかり快復いたしました」

 永隆との会話はいまだ慣れない。神との会話に慣れる必要などないだろうが、親しく声をかけられて物怖じていては失礼なので、なるべく自然を装うように心がけている。

 二言三言交わすと、あとは夫妻との会話が中心だった。主に日瑞ひみずの屋敷でのできごとが話題で、政治的要素をのぞいた他愛ない内容ばかりだ。

 成煕なりひろの名が上がった時に、千由子は銀朱について尋ねようかと思ったが、滋雅は望まないだろうと判断して口にはしなかった。

「――それゆえ、今後の出仕はやはり控えた方がよいと思うのだが、千由子殿はいかがだろうか」

 雅栄の提案に、ちらりと夫の様子をうかがう。義兄は千由子を慮り、後宮への出仕を懸念しているのだ。

 娘を亡くして約三年もの間、千由子は外との交流を絶っていた。まだ若く、子どもも成煕ひとりしか儲けていない。雅栄や英子が心配するのは道理であり、また妥当だろう。

 しかし滋雅は何も言わなかった。そういうときは千由子の意思を尊重するという、彼の意思表示だった。

「両殿下のお気遣いは大変ありがたいのですが、わたくしは今後も出仕させていただきたいと考えております」

「だが……」

「体調は戻っておりますし、やはりこうして外へ出た方が身体も喜ぶようなのです。わたくしにできることなどささやかでございますが、宗室のために貢献できれば本望でございます」

 すんなりと承諾すると予測していたのだが、ふたりは渋っていた。おそらく滋雅と同様、千由子を案じているのだろう。すなわち、亡くした娘と同い年の王女を見るのは苦痛ではないか、と。

「未熟ではありますが、同じ親として側妃様方のご相談に乗れることも多いかと思うのです。どうかお許しくださいませ」

 気にしないと言外に伝えても、彼らは諾とは言わなかった。だが、意外にも永隆が千由子の加勢に回った。

「本人が望むのならば問題あるまい。ちがいますか、父上」

 いくら永隆自身が産みの親に敬意を払おうと、皇帝の言葉は絶対だ。反論できる人間は存在しない。

「……では、けして無理のないように心がけてほしい。私と英子も配慮するが、滋雅もよくよく千由子殿の体調には気を配ってくれ」

「雅栄殿下、少々大げさでございます。おのれのことはおのれが一番理解しておりますわ」

 いささか過保護な気がして、千由子はつい忠言してしまう。雅栄は以前から弟とその家族に特に心を砕いてきたが、それでもこれほど慎重なのはめずらしい。

 同意はしたものの永隆の鶴の一声とはいかず、出仕は月に数度のみと約束させられた。ひと月に十日は参内し、紗手の話し相手だけではなく祭事等の支度も手伝っていた三年前にくらべれば、職務はほとんどない。

(少々、うぬぼれていたのかもしれない……)

 てっきり後宮に必要とされていると思っていたが、三年も経てば状況も変化する。もとより千由子の役目などいくらでも替わりが利くのだから、離れている間に居場所などなくなっていたのかもしれない。

 広間を辞し、滋雅とともに廊下を進みながら、口惜しさに胸を軋ませた。それでも永隆は千由子を拾ってくれたし、雅栄と英子も情けをかけてくれた。精一杯応えてこそ報恩となるだろう。

 ふいに思い立ち、千由子は先導役の女官に紗手へ取り次げないか尋ねた。後宮へのふたたびの出仕が決まったことを知らせたいと思ったのだ。そして可能ならば、銀朱の顔も見たかった。

 案外すんなりと話が通り、滋雅と別れて留芳殿へと進んだ。

 紗手は千由子の参内を歓迎してくれた。先日のことも気にしていないのか、いたって普通だ。

 わずかの談笑ののち、慌ただしくさせたことを詫びて千由子は退室した。女官の案内を何食わぬ顔で断り、忍びながら銀朱のもとへ向かう。

 殿舎の北側、壁と引戸で区切られた狭い房が、幼い王女に与えられた空間だった。

 外は麗らかな陽気だというのに、銀朱の居室は暗くじめじめとしている。案の定というべきか、世話をするべき乳母や女官の姿はどこにもなく、重たげに下ろされた御簾の端からそっと中をのぞけば小さな影がぽつんとあるだけだった。

「銀朱様」

 あまりの切なさに、千由子は名を呼ぶ。のろのろと、とても緩慢に銀朱が顔を上げた。

「千由子でございます。覚えておいでですか?」

 途端、魂が抜けたようだった顔にぱっと笑顔が咲いた。断って中へ入れば、銀朱はまろびながら駆けよってくる。

「ちゆこ、ちゆこ」

 千由子はしゃがんで銀朱を迎えた。しかし、銀朱は数歩の間を空けてぴたりと足を止めた。

 不自然な空間に疑問を覚えつつも全身を観察してみれば、肩まで伸びた髪はあいかわらず乱れている。反して衣装はこの年頃の子どもにしては整っていたが、それは遊び相手もおらずにじっとしていたからだ。

「御髪を結いなおしましょうか」

 開いた距離を詰めると、幼い肩がぴくりと跳ねた気がした。だが銀朱は嫌がらず、おとなしく千由子にされるがままだった。手櫛ではあるが丹念に梳き、簡単には崩れないよう朱の紐できっちりと結ってやる。

 あらためて見れば、やはり銀朱は紗手に似て愛らしい顔立ちをしていた。黒目がちの大きな瞳やくちびるの形が特に似ており、長じれば母と並ぶ佳人と謳われるのもたやすく想像できる。

 つぶらな双眸でじいっと見上げてくるのに微笑みかえせば、はにかむようにふにゃりと笑った。

「ちゆこ、ちゆこ」

 千由子の袖を握り、銀朱はしきりに名をくりかえした。興奮しているのか、ふっくらとした頬がわずかに紅潮している。歓迎されているのだと思うと、うれしさに千由子の面に笑みが満ちた。

「お人形で遊んでいらっしゃったのですか?」

「ん」

 板張りの床には、女の子らしく人形が一体だけ転がっていた。目につく玩具はそれだけで、錦の衣を着せた人形はこの陰湿な房には不釣り合いな印象を抱いたが、銀朱は国王の娘である。高価な玩具を持っていても何らおかしくはない。

「お母様からいただいたのですか?」

 銀朱は首を振った。下ろした前髪がくすぐったかったのか、両手でぱぱっと払う。

「では、お父様から?」

 撥ねた髪を直してやりながら、千由子は尋ねる。

「よりつぐ」

「……よりつぐ?」

 ん、と銀朱はうなずいたが、心当たりはなかった。男名のようだが、宗室に『よりつぐ』という人間はいないはずだ。貴族の誰か――とも考えたが、わざわざ銀朱の記憶に残る人物がいるとはとうてい思えない。

 よくよく悩み、記憶を浚う。一通り可能性を辿り、それからようやく数年前に授かった〈みてくら〉がそんな名前だったと思い出した。

 幣とは皇帝と桐の宝であり、人として生まれ落ちた未熟な皇太子が皇帝かみとして登極するのを輔ける存在だとされている。皇太子が誕生してから数年以内に、国内のどこかで生まれ、まもなく皇宮に保護される。幣がなければ皇太子は即位できないので、神と匹敵するほど尊い存在として丁重に扱われた。

 だが、それもあくまで残された史料から得た知識だ。

 なにせ皇帝の在位は三百年は優に越える。肉体の限界を迎えた皇帝は崩御ののち、ふたたび宗室の血から皇太子として生まれるのだが、それらはすべて数百年に一度の変事でもあるのだ。当然、先代の即位について知っている者は誰ひとり生存していないため、皇太子や幣に関わる者は記録や口伝を頼りに対応するしかない。

 神事の采配を担う神司かみづかさの一族の出である千由子は、父や祖父が降誕する皇太子のために骨を折っていたのを間近で見てきた。疎遠になった今も、彼らは東奔西走しているのだろう。それもすべて、桐という〈神の箱庭〉がとこしえに栄えるためだ。

 なるほど、銀朱はその幣と交流があるのだと、千由子は理解した。年の頃もほとんど変わらないはずだ。

 幣様からいただいたのですね――そう言おうと、くちびるを動かしたときだった。千由子の中の何かが唐突に目覚め、悲鳴を上げた。

 廊下を何かが駆けてくる。圧倒的な光を放つ、この世ならざるものが。

 それはこの世界には馴染まない、すべてから拒絶される異物だ。しかし、かつては千由子の一部でもあった。失ったはずの光だった。

 壁代をばさりと跳ねあげて入ってきたそれは、銀朱と同程度の背丈の子どもだった。地上と呼ばれる俗世の衣ではなく、神のおわす天上をなぞる衣装をまとっている。ゆったりとした詰め襟の長袍は、幼児が動きやすいように特別に誂えたものだろう。生地や装飾品の質も、銀朱のものよりよほど上質だ。

 そして、子どもは幣の証である青眼を持っていた。蒼天の一部を虹彩に嵌めこんだかのごとき色は、美しすぎて人の血ではとても作り出せない。

 以緒は千由子に気づき、ぎょっとしていた。銀朱しかいないと踏んでいたのだろう。驚愕に硬直する千由子を凝視したのち、こくりと首を傾げる。

「だれ?」

「あ……」

(こんな……声だった、なんて)

 全身を雷が駆けぬけ、千由子の理性を打ちのめす。ちゆこ、と銀朱が端的に説明したことにさえ、彼女は気づかなかった。以緒はふたたび千由子を観察し、にっこりと屈託なく笑った。

「よりつぐよ。えいりゅうさまの幣なの」

 返事もままならない千由子に対し、笑顔のまま続ける。

「よりつぐね、ちゆこにずっとあいたかった」

 ――いったい、誰に縋ればいいのだろう。

 荒れ狂う心の嵐に喘ぎながら、彼女は無言で絶叫した。生まれてこの方崇拝してきた唯一至高の神に訴えた。神様、陛下、皇帝陛下――すべて同一の存在を指す言葉を幾度もくりかえし、問いかける。

 獰猛な虎のごとく暴れる感情にくらくらとしつつも、瞳だけは以緒をしかと捕らえて放さなかった。猛獣は長年培ってきた信仰と忠誠に、鋭利な牙を立てる。

 堅牢なはずのそれに罅が入ったのを、千由子ははっきりと感じた。

「――わたくしも会いたかった」

 くだらない理性や体裁をかなぐり捨て、一心不乱に腕を伸ばす。だが、指先が以緒の肩に届く直前、衝動は何者かの声によって阻まれた。

「何をしているのですか!?」

 我に返って振り向けば、壁代から半分のみ身体をのぞかせた女官と視線がかち合った。千由子だと視認すると、かっと怒りに目を瞠らせる。

「千由子様、このようなところで何をなさっているのですか! 幣様からお下がりください!!」

 女官は素早く室内へ押し入ると、千由子と以緒の間に身を滑らせた。常時なら不躾極まりないが、相手は幣である。以緒を背中に隠し、眉をつり上げてまくし立てる彼女の行動は女官として正しい。

「幣様に触れようなどとおこがましい。不敬罪に当たります。宗室に縁があろうと減刑の理由にはなりません、見咎められれば厳罰はまぬがれませんよ」

 沸騰していた脳が急激に冷めていく。理性が戻れば無念さだけがこみあげてきて、千由子は拳をきつく握った。

 女官はおそらく以緒の世話役なのだろう。彼女の言は正論であり、千由子には返す言葉が見つからなかった。黙りこくる千由子を睨む面には、おとなしく引き下がれば見逃すと書いてある。

 何を訴えても伝わるわけがない。否、伝わってはならない。

「……大変ご無礼いたしました」

 手をついて退くと、女官はわずかに警戒心を解いた。しかし、ぴりぴりとしているのには変わりない。

 背中に視線を感じて首を巡らせれば、帯剣した青年が壁代の傍らに佇んでいた。瞳は獣を屠る狩人のように冷酷だ。

 宮中で真剣を佩いているということは、以緒の守人だろう。いつから立っていたのか――だがあからさまに姿を見せているからにはただの牽制であって、千由子を見逃す気でいるのだ。

「……お騒がせして申し訳ありませんでした。これにて失礼させていただきます」

 無言の圧力に従い、速やかに立ち上がる。銀朱は一連のできごとにびっくりしたのか、目を真っ赤にしていた。以緒も女官のうしろで残念そうに眉尻を下げている。

「ちゆこ、いっちゃうの? よりつぐ、ちゆことあそびたいのに」

「ちゆこ」

 ふたりの訴えに、千由子の胸がぶるりと震えた。できることならこの場に留まりたいが、この状況では不可能だろう。以緒が千由子への関心を失わずにいれば、ふたたび会えるにちがいない。今日は引き下がるべきだ。

「わたくしも、叶うことならおふたりのお相手を務めたく思います。ですが今日は下がらせていただきますね」

「またくる?」

「はい、きっと」

 千由子は和やかに笑んで別れを告げると、房を後にした。守人が感覚だけで行方を追ってくる。すでに囚人になった気分だ。

 角を曲がり、ようやく姿のない見張りから解放されたと思いきや、そこには案内役の女官がすでに待機していた。何も問われず、責められるわけでもなく、無言で後宮を追い出されて滋雅の待つ室まで戻る。

 陽の当たる場所でのどかに自分を待つ夫の姿をとらえるや否や、全身に絡みついていた鉛の鎖が粉々に砕けていった。直後襲った安堵との落差に崩れ落ちそうになるのを、腹に力をこめて堪える。

「千由子?」

 つ、と背中を伝う汗に悪寒を覚えながら、千由子は平静を装った。

「遅くなって申し訳ありませんでした。屋敷へ戻りましょう」

 どこか様子がおかしいのを察したのか、滋雅の顔がかすかに翳った。だが、ふたりはそれに触れることなく車へ乗りこみ、皇宮を退出する。

 とまらない冷たい汗に不快な寒気、眩暈、そしてあらためて抱いた確信――混乱を極める思考を滋雅の気配で宥めながら、千由子は普段よりはるかに長い道のりを黙ってやり過ごした。

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