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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
40/52

3

 ぶるりと夜気に肩を震わせて、銀朱は目を覚ました。

 目の前には濃い闇が凝っている。灯りのひとつもない室内では、あるはずの調度の形もわからず、小さな銀朱からすればまるで墨に満たされた水槽の底に閉じこめられたようだった。当然、火の在処を知るはずもなく、湿気た匂いのする布団を引き寄せてささやかな暖を得るしかない。

 眠りに就く前に起こったできごとを思い出し、涙が滲む。千由子と名乗った女性から与えられた一瞬のぬくもりにくらべると、今はあまりにも孤独だ。彼女の存在が現実である証拠もどこにもない。もしかしたら、銀朱の見た夢なのかもしれない。

 ぐずぐずとべそをかくと、からっぽの胃がぐう、と空腹を訴えた。夕食を取り損ねてしまったのだ。女官は寝入った銀朱を起こしてくれるほど世話を焼いてはくれないので、うっかり寝過ごしてしまえば朝まで食事なしということもままあった。

「ぎんしゅ」

 惨めさに泣いていると、突然暗闇が名を呼んだ。硬直する銀朱の頭上からもう一度、ぎんしゅ、と子どもの声がする。

 聞き覚えのある響きにもぞもぞと身じろぐと、頭からかぶっていた上掛けを勝手に剥がれた。冷気が涙の跡をひやりとなぞる。

「……ぎんしゅ、ないてたの?」

 枕元で銀朱をのぞきこんでいたのは、同じ年頃の幼子だった。肩まで伸びた黒髪を左右に結い、ゆったりとした詰め襟の袍をまとっている。

「はなみず」

 子どもは乱暴に銀朱の鼻を袖で拭った。ふえ、と間抜けな声がもれる。程度を知らないのでだいぶ痛かったが、子どもは満足すると今度は銀朱の頭を撫でた。

「ないてたの?」

 二度の問いに、銀朱はこくりとあごを引く。袖や裾の長さに難儀しながら起き上がると、瑠璃のごとく透きとおった青眼と目線が合った。どこにも灯りはないはずなのに、子どもの双眸は暗闇でもはっきりとわかるほど青く、ほのかに光を放っている。よりつぐ、と呟けば、子どもは大きな頭を重たげに傾げた。

 以緒は不思議な子どもだった。常に銀朱の側にいるわけでもないのに、泣いていると昼夜の別なく必ず現れるのだ。そうして今のように手荒に鼻水を拭いて慰めてくれる。鼻の頭はひりひりするが、ほかの人間に慰めてもらった経験のない銀朱はそれ以外を知らない。

 安心したせいか、ぐう、とふたたび腹が大きく鳴いた。しかも一度では済まず、ぐるぐると唸るような声を長々と続ける。

「……カエル? いるの?」

「なぃ……」

 銀朱はかぶりを振って否定した。カエルなど気持ち悪くて懐で飼えるわけがない。だが横暴な胃は遠慮がなく、なにか食べ物をよこせとぐうぐう喚きつづける。

「……ぉかし……」

 呟くと、銀朱の腹を凝視していた以緒はようやく合点がいったようだった。

「おかしほしいの?」

「ん」

「じゃあ、いわくらいこ。おかしいっぱいあるよ」

 差し出された手を取り、銀朱は房を抜け出した。

 以緒に導かれるままに、殿舎の廊下をふたりだけで進む。女官の行き来する気配や格子からもれる灯りを見るに、それほどの深夜ではないらしい。紗手の与えられた留芳殿りゅうほうでんからほとんど出たことがない銀朱は、すでにどこを歩いているのかさっぱりだったが、以緒は大人と鉢合わせしない道を迷わずに選び取っていく。

 ここには宗室の妻子しか暮らせないはずだが、以緒は雅栄の子どもではなかった。ならば誰の子かと問うても、王でさえ首を傾げるだろう。

 以緒は〈みてくら〉と呼ばれる特殊な存在であり、後宮でも天関いわくらという最奥の場所で暮らしていた。〈幣〉が何なのか、幼い銀朱にはわからない。しかし、きらきらと輝く宝石の瞳を持つ以緒が大好きだった。以緒は銀朱の相手をしてくれるたったひとりの存在だったのだ。

 そうした世界で生きてきた銀朱にとって、千由子はあまりにも鮮烈だった。また来ると彼女は言った――夢でもいいから、もう一度あの熱に抱きしめてほしい。

「……ぎんしゅ、どうしたの?」

 ぼうっとしていたのだろう、いつのまにか足を止め、目の底をのぞくように以緒がこちらを見ている。どこまでも潜っていけそうな青眼を見つめ返して、銀朱は言った。

「ちゆこ」

「ちゆこ?」

「ん」

 銀朱は持てる範囲の語彙で千由子について語った。いくつかの単語を並べただけの説明は、それでも以緒には通じたようだった。蒼天に光が射し、波紋のように笑みが広がる。

「いいなぁ。よりつぐもちゆこにあいたい」

 ん、とあごを引いて同意を示す。そうすれば、ふたりそろって千由子に会える気がした。

 ふたたび以緒に手を引かれて行くと、やがて廊下の先に茅葺きの大門が現れた。両脇から伸びる塀は大人でも簡単には上れない高さがある。漆喰で塗り固められた白壁と黄金の装飾がなされた門は威圧的で、小さなふたりを問答無用で拒んでいた。

 銀朱は恐怖に足を止めようとした。しかし、以緒は慣れた様子で門へと進む。白石の上を橋のように渡された透け廊の先は異空間で、近づいてはいけない場所にちがいなかった。誰か大人に見つかれば叱責は免れないだろう。そうすればまた紗手の不興を買う――銀朱にとってなによりも恐ろしいことだ。

「よりつぐぅ……」

 羽虫にも負ける声量で、銀朱は訴えた。すでに門扉は目前にあり、以緒は怯むことなく強大な門をあおいでいる。

 そうして以緒の手が、そっと扉に触れたときだった。子どもの力ではとうてい動かないそれが、かすかに軋みを上げながら内側から開け放たれた。

「以緒、どこへ行っていた」

 一瞬、門がしゃべったのかと思った。次に浮かんだのは、険しい表情の大人だった。だが現れたのは、銀朱が想像したよりもずっと小柄な少年だ。

 背後には火の入った行灯を下げた女官を幾人も従えており、逆光のため顔はよくわからない。だというのに瞳だけは猫のように金色に輝いている。

 ひゅっ、と恐怖に銀朱の喉が凍るのと同時に、以緒の甲高い歓声が上がった。

「えいりゅうさま!」

 以緒は一目散に猫の瞳の少年へ飛びついた。勢いが良すぎたのか、少年が一歩うしろによろめく。

 えいりゅう。聞き覚えのある名だ。けれども、どこで聞いたのか銀朱には思い出せない。

 以緒があれほど懐いているなら悪い人物ではない――と思いたいが、あいにく他人は以緒にやさしくても銀朱にはやさしくない場合が多い。それだけ以緒は特別なのだ。せめて庇ってくれればいいのだが。

 立ち去ることも近づくこともできずにぐずぐずとしていると、えいりゅうと呼ばれた少年が銀朱の存在に気づいた。こちらへ向けられた黄金の視線に、ただでさえ冷えている身体がいっそうに凍える。

「銀朱か。以緒が連れてきたのか」

 はい、と以緒はうれしそうに肯定した。

「ぎんしゅ、おかしほしいの。だからいっしょにきたの!」

 少年は銀朱をじっくりと見分したあと、以緒へ目を移した。幼い外見に似合わぬ嘆息が漏れる。

「以緒。天関から許可もなく抜け出してはならぬ。おまえはわたしの幣だ。本来、ここから出ることは許されていない」

「でも、ぎんしゅないてたの」

「泣いていたとしてもならぬ。おまえの役目ではない。わきまえよ」

 元気に跳ねていた以緒の眉が、みるみるとしおれていく。小さな身体をさらに小さくして、以緒はごめんなさいと呟いた。

「銀朱、こちらへ参れ」

 びくりと全身をわななかせて身構える。自分も怒られる――きっと以緒よりもひどく。

 だが予想に反し、彼はかすかに瞳を眇めただけだった。

「兄の顔を忘れたか? 菓子をやろう。以緒とともに参れ」

 そう告げると、少年は踵を返す。ぱっ、と顔を明るくした以緒に手を握られて、銀朱は門をくぐった。

 四方を白壁に囲まれた空間は、後宮の一角であっても見渡せないほど広かった。建物の造りは外と同じで、複数の高床の殿舎を廊下で繋いでいる。一見、後宮と変わりなかったが、肌で感じる雰囲気がどこかちがう。清水の湧く泉のように清澄でありながら、後宮よりも華麗な気がするのだ。

 それは先を行く少年の服装が、とても豪奢なせいもあるだろう。『兄』と名乗った彼の衣は、銀朱の知るどの衣装とも様式がちがった。袖の形や、袴を履かずに長い裾をずるずると引きずっているのが最たる点だ。

 二棟ほど殿舎を通りすぎてから、銀朱はようやく少年が四歳上の異母兄だと思い出した。と言っても顔を数度見たことがあるだけで、会話をするのは初めてだ。雅栄と正妃英子の長子である永隆は以緒同様特別で、彼の前では両親さえ跪く。それは彼が桐の神だからだと、幼い銀朱はまだ知らない。

 たどり着いた室にはたくさんの灯りが用意されており、まるで真昼に戻ったようだった。几帳や棚などの基本的な調度品のほかに、人形や毬などの玩具もたくさん並べられている。室内にくゆらされた独特の薫物は、神事で使われるものによく似ていた。

 永隆が畳に座すと、以緒もためらいなく隣に続いた。どうすればよいのかわからず、銀朱はおどおどと周囲を見回す。

「かまわぬ。銀朱も参れ」

「ぎんしゅ、こっち」

 言われたとおりに以緒の隣に座る。すると、女官が淹れたばかりのお茶と菓子を載せた膳を人数分並べた。干し果物や木の実をはじめ、小麦粉を練った生地を菜種油で揚げて砂糖をまぶした油菓子や三盆糖の干菓子、餅菓子など、定番のものから珍しいものまで種類は豊富だ。

「ぎんしゅ、どれがすき? よりつぐはねぇ、これ」

 以緒は棒状の油菓子を銀朱の手に乗せた。表面のざらめが水晶のように煌めいて、口に入れるとあまりのおいしさに頬が落ちそうだった。餅菓子は作って間もないのかまだやわらかい。もちもちとしているのに噛んでいる内にとろけるのが面白くて、もうひとつと手を伸ばす。

「こっちもおいしいよ。あとねぇ、こっちもすき」

 次々と乗せられる菓子を、銀朱はもくもくと食べつづけた。どれも驚くほどおいしく、または発見の連続だった。目を輝かせて食べる銀朱をおもしろがって以緒も菓子を追加していくので、いつまで経っても手のひらは空にならない。

「ぎんしゅ、おいしい?」

「ん」

 夢中で食べていたため、口の周りは菓子くずでいっぱいだった。手も、砂糖や油で汚れている。

 見咎めた女官が手巾で拭おうと近づいてきたが、日頃彼女らに粗雑に扱われている銀朱からすれば、それだけで充分に恐怖の対象だ。ついさきほどまで浮かれていた気分が一瞬で暗転し、とっさに以緒の袖を掴む。

「寿春様、幣様の御衣が汚れます。手をお離しください」

「やっ」

「寿春様!」

 女官の焦燥に気づくことなく、銀朱は衣をますますきつく握りしめる。いやいやと首を振れば振るほど、女官の語気も荒くなっていく。

「銀朱、駄々をこねるな。女官の申すとおりにせよ」

 以緒の影に逃げようとしていた銀朱を、永隆の一声がぴしゃりと打った。まだ七歳の少年であっても、それはとても尊大であった。銀朱のみならず、肩を掴んだ女官までも怖じ気づいてしまう。

「ぎんしゅ、おくちふくよ?」

 しかし以緒はぱちりと瞬きをしただけで、いつものように銀朱の顔をごしごしと拭った。血の気を引かせる女官に頓着せず、ついでに涙を滲ませた目尻や鼻の頭も拭く。

「み、幣様……!」

 ひっ、と短い悲鳴が方々から上がった。女官にとって以緒の衣装を汚すことはそれほどの脅威らしいが、本人はさも満足そうにしている。周章に陥った女官たちの中心で、以緒が新しい菓子をはい、と差し出すと、突然響いた笑声がその場の混乱を打ち破った。

 くつくつと笑っていたのは、さきほどまでわずかも表情を動かさなかった永隆だった。なにがおかしいのかわからない銀朱は、ぽかんと異母兄を見上げるしかない。

 ひとときの間笑うと、彼は以緒をおのれの膝に座らせた。

「以緒、銀朱が好きか」

 以緒は弾けるように破顔した。

「よりつぐ、ぎんしゅのことすき!」

「そうか」

 いとけない手で、父親のように以緒の頭を撫でる。それから、すいと銀朱へ金の視線を滑らせた。

「銀朱、以緒ばかりを頼るな。常に以緒が傍らにおり、おまえを庇えるわけではない。おのれの面倒はおのれで見よ」

 わかるか、と念を押されても、銀朱には理解できなかった。わかるのは、永隆は以緒とともにいるのを快く思っていないという点だ。

「助けてくれと泣き喚こうが、他人は助けてはくれぬ。みずから歩む術を見出さねば、おまえは一生を孤独に泣いて過ごすのみだ」

 我慢できず、銀朱の双眸からぽたりと雫がこぼれた。一方的に押しつけられる言葉は難解すぎて、ひたすら悲しみばかりがこみあげてくる。

「えいりゅうさま、ぎんしゅいじめちゃだめ!」

 頬を真っ赤にふくらませて以緒が諫める。

「いじめているのではない。銀朱の将来のために忠告している」

 永隆は腕を伸ばし、銀朱の目尻に溜まった涙を掬った。

「母に似て器量は良いのだから、泣かずに笑えばよい。愛嬌を振りまけば皆がおまえを愛す」

 鼻水を啜り、銀朱はうつむく。笑えと言われて笑えるほど器用ではないし、まだ楽しいこともあまり知らない。うれしいことは以緒が運んでくるもので、以緒がいなければ同時に失われてしまうのだ。

「……よりつぐいない、いや」

 銀朱には以緒しかいない。両親は娘に興味がないし、千由子や永隆がふたたび関心を寄せてくれる保証などどこにもない。ともにいることを咎められようと、頼るなと説かれようと、以緒だけが心の支えなのだ。

「だいじょうぶよ。よりつぐ、ぎんしゅとずっといっしょよ。でもなくのだめ。よりつぐ、ぎんしゅといっぱいあそびたいから、わらったほうがずっとずっとたのしいの。ないたらあそべないから、ないちゃだめ。ね?」

「……ん」

 渋々うなずくと、以緒は安心したようだった。やわらかな手のひらが銀朱の前髪をくすぐる。

 以緒が言うならきっと間違いない。遊んでくれる、ずっと一緒にいてくれると言ってくれただけで何よりも励みになる。笑った方が楽しいと言うのなら、きっとそうなのだろう。泣いてばかりの銀朱には至難の業ではあるが、以緒が望むなら努力してみようと思える。

「もう遅い。今宵は以緒の室で休んでゆけ」

 永隆にうながされ、ふたりは以緒の寝室へ移った。四方を壁で囲まれた室は月光の射しこむ隙もなかったが、ふかふかの布団はふたり並んでも充分余裕があり、何より隣にある以緒の熱がとてもあたたかくて気持ちよかった。闇は濃くとも、ひとり恐怖に苛まれる日々に比べたら雲泥の差だ。

 慣れない人の気配にそわそわしながら、銀朱はまぶたを下ろした。以緒と繋いだ手に、灯りがひとつ灯ったようだった。

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