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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第一章 邂逅
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4

 六日後の午後に、銀朱ぎんしゅはビリジェに到着した。

 さいわい奪われた荷はほとんどなく、陶器がいくつか破損しただけで、人的な被害もほぼ皆無だった。馬車も致命的な破損はなく、銀朱がふたたび以緒よりつぐに同乗することもなかった。

 白い砂岩を積みあげたビリジェの街壁は大人五人ほどの高さがあり、周囲に何もない草原の中、ぽつりと現れたそれは岩山のようだった。風雨に晒されところどころ欠け落ちてはいるが、重厚な作りに威圧感を抱く。街に入る門も、窓からではとても全体を把握できそうになかった。

 聞いていたとおりビリジェの街は大きく、届く雑踏もにぎやかである。聞き覚えのない言葉が飛びかっているが、時々ヘリオス語も拾うことができた。わずかにのぞき見た印象では、明るい髪の者もいれば黒髪もいるようだ。男女ともヘリオスよりゆったりとした服を着ていて、特に女性の刺繍が美しかった。

 行列は街の中心部を目指した。中央は丘になっており、頂上には街壁と同じ白い壁がそびえている。その中に領主の屋敷があり、同時にビリジェの中枢としてさまざまな機関が集まっているのだ。内部は整然としていたが、大きな建物の片隅に市場や広場が点在しており、もうひとつの小さな街といった様子だった。

 馬車は屋敷の門扉と思われるものを通り抜け、木々の茂る前庭を縦断したあと、回廊に面した入り口で停止した。

 そのまま待機していると扉が開かれ、差し出された以緒の手を借りて降り立つ。すでにカリンやルッツも馬を降りており、彼らが示した先には領主と思われる男と従者がたたずんでいた。

「ようこそお越しいただきました。ビリジェの領主、ジラール・アステグと申します」

 左胸に手を当てて礼をするのは、ヘリオスと同じだ。彼に倣い、銀朱もヘリオス風に腰を落として一礼した。

「桐国、先の国王雅栄(まさはる)が娘、寿春じゅしゅん皇女銀朱と申します。領主様みずからお出迎えいただき、感謝いたします」

 領主は四十ほどの、一見険のある顔立ちの男だった。カリンやルッツより彫りが深く、髭を生やしているせいか、気難しい印象を持つ。だが、笑うと目尻にしわが刻まれ、途端に雰囲気が丸くなった。

「長旅でお疲れでしょう。ささやかながら、お部屋を用意いたしました。まずはそちらで旅の埃をお落としになってください」

 ジラールの側に控えていた女従者に連れられ、銀朱は建物内へ入った。

 明るい中庭の周囲を巡らせた回廊を通り、奥へと進んでいく。屋敷は石造りの平屋建てで、内部はひやりとして涼しい。何回も角を曲がり、銀朱がひとりでは門まで辿りつけなくなるほど歩いた頃、ようやくひとつの部屋へ案内された。

 廊下から入ってすぐの部屋は居間になっており、床一面に蔓草模様の絨毯が敷かれ、壁際にはくつろげるように座面高の低いソファがずらりと並んでいる。家具はすべて木製で、窓枠や壁の飾りにも木材が使われていた。それらはすべて精緻な紋様を描いていて、触れるのさえためらわれるほどだ。

 居間の奥の部屋は寝室で、わずかに高くなった台の上に寝具が用意されている。二部屋とも狭くもなく広くもなく、銀朱にとってちょうどいい広さだった。

 とりあえず居間に落ち着き、軽く息をつく。いつのまにか守人もりびとはおらず、知っている顔は洋だけだ。心細く思いながらも、銀朱は勧められた果実水を口に含んだ。喉が渇いていたので、果物の甘酸っぱさが身体にうれしい。

「お風呂の用意ができておりますが、いかがいたしますか?」

 一息ついた頃にたずねられ、彼女は躊躇なくうなずいた。

「お願いできるかしら」

「かしこまりました」

 ふたたび案内された先で入浴用の肌着に着替え、浴場へと入った。まるで広間のような、天井の高い空間が目の前に広がる。

「足下にお気をつけください」

 床も壁も、色違いの大理石を組み合わせて模様を編み出していた。滑らないように通り道には布が敷いてあり、その上を歩いて浴場内を移動する。高窓がいくつも設けられているので、陽射しが燦々と射しこみ、室内は明るい。奥の浴槽にはたっぷりと湯が張られていて、バラの花びらがふんだんに散らしてあった。それだけで銀朱の心は躍った。

 小さな噴水のようなものの近くに座るように言われ、置いてあった椅子に腰かける。どうやら噴水からは湯が湧き出ているらしく、ビリジェの使用人はそこから手桶に湯を汲むと、銀朱の洗体の用意を始めた。

「洋」

 ぎょっ、としてあたりを見回すと、銀朱とそろいの肌着に着替えた洋が、あわてて進み出てきた。

「銀朱様のご洗体はわたしがしますので」

 洋の申し出に、使用人はにこりと笑った。

「どうぞご遠慮なさらないでください。我々は手慣れていますし、こちらの者は領主様から按摩の腕を認められた者でございます」

 どうやら、ヘリオス語を操れるのは彼女だけらしい。うしろに控えた数人の使用人は、石けんや香油の瓶を持って指示を待っているだけだ。

「ですが……」

 洋が困惑しながら銀朱をうかがった。

 銀朱は、他人に身体を触られることに慣れていない。洗髪の時は洋や以緒の手を借りるが、入浴はたいていひとりで済ませることが多いのだ。しかし、触られたくないと正直に言うのは失礼な気がして、二人とも口籠もる。

 使用人たちは、銀朱が遠慮しているのだと思いこみ、大丈夫ですよと笑顔を浮かべながら支度を続けた。どうやら覚悟を決めるしかなさそうだった。



 結局、銀朱は彼女たちに隅から隅までていねいに洗われることになった。

 香りの良い石けんで全身を磨かれ、髪は艶が出るまで充分に梳り、紅の花弁が浮いた湯船で心ゆくまでくつろいだ。手足を揉んでくれた使用人の腕は素晴らしく、塗られた香油が長旅で溜まった疲れをほぐしてくれる。内装や給水の技術、使用人の対応の面でも、ビリジェの風呂は見事だった。

 浴場を出ると、脱衣所には新しい服が用意されていた。ゆったりとした丈の長いワンピースとくるぶし丈のズボンは、ビリジェのものだ。まっさらな絹が肌に心地いい。襟元や装飾など、細かな部分にちがいはあるが、銀朱が桐から着てきた長袍と形式はよく似ている。

 身繕いを済ませて部屋へ戻ると、居間には軽食が用意されていた。入り口近くで、ビリジェの服に着替えた以緒が銀朱を待っていた。

「……もしかして、以緒も洗ってもらったの?」

 ふとその可能性に気づき、銀朱が問う。とんでもない、と以緒は否定した。

「お湯はお借りしましたが、すべて自分で済ませました」

「そうよね……」

 気づかないうちに緊張した身体の力を抜く。もしやと思い危ぶんだが、さすがに以緒が頑なに拒むだろう。

 銀朱がソファに腰を下ろすと、控えていた使用人が温かいお茶を注いだ。ひとくち飲んだが、かなり甘い。かわりに盛られた果物の中からぶどうを選ぶと、こちらはよく熟していておいしかった。

「こちらの衣装ですね。よくお似合いです」

 以緒がどこか満足そうに笑う。ほのかに石けんの匂いがした。

「ジラール様が用意してくださったのね。あとでお礼を言わないと」

 布地は桐の方が優れているが、緻密に構成された花の図案は魅入るほど美しい。

 おそらく、晩餐は領主やカリンも同席した宴になるだろう。すると銀朱の予想どおり、ヘリオス語のわかる使用人が今夜の予定を告げた。

「今宵は大広間にて、お食事をご用意いたします。皆様ご同席なさる予定ですので、もう少々しましたらまたお召し替えいただくことになるかと思います」

「わかったわ」

 正直、大人数での食事は苦手だ。特に男性が加わると厄介である。桐では男女が宴席をともにする機会は皆無と言っていい。だが、ここまで持てなされて断るわけにもいかなかった。

 のんびりと風呂を使っていたので、晩餐までそれほど時間はないはずだ。しかし到着して気が抜けたのか、風呂に入って疲れたのか、急に泥のような眠気が襲ってきた。絨毯のやわらかい毛並みも、銀朱のまぶたを重くさせる一因になる。

「少しお休みください」

 すぐそばで、以緒の低い声がした。

「だめよ。晩餐に出ないと」

「時間になりましたらお声がけしますので、ご安心ください」

「でも……」

 眼を瞬いて追い払おうとするが、睡魔はしつこくまとわりついてくる。このままでは宴席で船を漕いでしまうだろう。

 潔く観念して、銀朱は寝室へと移った。大きな寝台は雲のように軽やかでやわらかく、横になると全身から緊張がほどけてゆく。香油の香りが鼻孔から脳に浸潤し、銀朱の意識をとろけさせた。

「お休みなさいませ」

 耳に心地よい声がささやく。夢に沈む途中、その声に答えられたのかどうか、銀朱にはわからなかった。



「……昨晩は大変な失礼をしまして、申し訳ありませんでした」

 銀朱が身体を小さくして謝罪すると、領主は朗らかに微笑んだ。そうすると、やはり人の良い男性に見えるのだった。

「どうかお気になさらないでください。ずいぶん疲れが溜まっていらっしゃったのでしょう。あのようなこともありましたし、私の方からお休みいただくよう申しつけたのです」

 翌朝、銀朱は中庭の四阿で領主と面会していた。今日もビリジェが用意した服を着ている。唐草模様のワンピースとズボンの上に、足首まである長い上着をはおり、髪はひとつに編んで背中に垂らしていた。

 あのあと、結局銀朱は朝まで一度も目覚めることはなかった。気づくと窓から射しこんだ朝日が頬を撫でていて、さぁっと全身から血の気が引いていったのを覚えている。朝食もそこそこに、あわてて身繕いを整えて謝罪に訪れたのだ。

「お恥ずかしいかぎりです……」

 可能なら、ここから姿を眩ましてしまいたかった。強面のジラールは、娘に対する父親の表情で銀朱を見つめる。

「よくお休みになられましたか?」

「はい。おかげさまで」

「勝手ながら、お着替えも用意いたしましたが、お気に召したでしょうか」

「とても美しくて、着心地も快適です。ありがとうございます」

 四阿を、清々しい朝の風が駆け抜けていく。中央の卓には甘い香りのお茶と、干した果物や木の実がこんもりと盛られていた。

 さすがに大都市と謳われるだけあって、ビリジェは食事も豊かである。口に合うか合わないかの問題があるが、旅に出て以来の豪勢な食卓だった。肉は独特の臭みがあって銀朱は苦手だったが、塩味の鶏肉と野菜のスープは空腹の胃にやさしく、パンも保存用ではなく焼きたてで美味だった。新鮮な果物も山ほど出てきて、もったいないと思ってしまうほどだ。時間が許せばもっと堪能できただろう。

「それはよかった。とてもよくお似合いです」

 ありがとうございます、と銀朱が答えると、生け垣の向こうにカリンの姿をとらえた。彼の服は自前で、身体の線に沿って作られたヘリオスのものだ。今日は剣は下げておらず、左胸に騎士の徽章をつけているのみである。

「失礼いたします。お呼びとうかがいましたが」

 カリンが声をかけると、ジラールは古い友人と再会したかのように、両腕を広げて立ちあがった。

「お待ちしておりましたよ、カリン殿。どうぞこちらへ」

 ジラールが自分の隣を指し示す。苦々しげにカリンは固辞した。

「いえ、まさかご同席するわけにはいきません。どうかご容赦ください」

「堅苦しいことをおっしゃらずに。レノックス家の方をそのような場所に座らせたら、ラスミアの天罰を食らってしまいます」

 渋々といった体で、カリンは四阿へ上がってきた。銀朱に断ってから、なるべく入り口に近い席に着く。奇妙な顔ぶれに、銀朱は内心首をひねった。

「今回は、貴国のお力になれて大変うれしく思っているのです。エセルバード殿下のお噂は、私の耳にも届いております。始祖イシュメル様の再来と謳われる、唯一無二のお方だとか」

 ジラールの賛辞に、当の騎士は曖昧に笑っただけだった。

「まさか、ビリジェまで殿下のお噂が届いているとは思いもよりませんでした」

「ご謙遜を。殿下はどのようなお方なのですか?」

 それは聞いてみたいと、銀朱は素直に思った。エセルバードの話は桐で散々聞かされたが、カリンは王子直属の臣下である。尾びれ背びれのついた噂とは比にならない。

「……殿下は少々矜持の高い性格ですが、王族としての責任を理解し、己の役目を最後まで全うされるお方です。堕落した者には厳しいですが、正善な者には貴賤関係なくやさしく接せられます」

「本当に、翠の双眸をお持ちなのですか?」

「はい。ヘリオスの血を引く者では、イシュメル様以来と聞いております」

 ほう、とジラールが感嘆をもらす。彼らが何故そこまで王子の瞳の色に執着するのか、銀朱にはいまいち理解できない。だが彼の表情は、完全に陶酔している者のそれである。

「寿春様は、ヘリオスの女神についてどれほどご存じですか?」

 ジラールから急に話を振られ、銀朱はゆるんでいた気を引きしめた。

「桐で一通りのことは教わりました。聖典も読んでおります」

「それは素晴らしい。では、礼拝堂をご覧になったことは?」

 銀朱は眼を瞬いた。

「礼拝堂、ですか?」

「はい。女神に祈りを捧げる場所です」

「いいえ……ございませんが……」

 道中、街に寄ることもあったが、銀朱が目にするのは限られた街並みだけで、旅程が長いため長期に滞在することもなかった。当然、ビリジェのような大都市は桐を出立して以来である。

 もしや、と銀朱がある考えに至った時、ジラールは導いたとおりの答えを返してくれた。

「ヘリオスには敵いませんが、ビリジェにも女神のための礼拝堂がございます。よろしければ、これからご覧になられませんか?」

 銀朱はわずかもためらうことなく賛同した。

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