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参内用の正装から簡素な平服に着替え、ほう、と一息吐く。家人の淹れたお茶に見向きもせず、千由子はぼんやりと皇宮でのできごとについて思考を巡らせた。
桐国王雅栄が側妃、紗手と出会ったのは、今から五年ほど前、彼女が入内した直後のことだ。
千由子の夫である滋雅は、雅栄の双子の弟だった。桐において、双生児は皇帝の片われである裏切りの女神を連想させるため、忌避の対象とされている。それでなくとも、宗室では王位継承を巡る騒動の火種になるとして、下の子は『死産』とされる事例が多かった。
実際、滋雅も王太子と定められた兄との対立を避けみずから臣籍に下るのだが、なぜ無事に成人したかというと、先代皇帝による勅命のためである。いわく、肉体の老いが進み死に直面した皇帝が、生まれたばかりの命を憐れんだのだ。
兄を弟を敵だと後見は忠告したが、ふたりの間に軋轢はなく、現在でも親しいつきあいを続けている。敬愛する兄のため、命を拾ってくれた皇帝のために国に尽くすのが、滋雅の信条だった。
千由子が嫁いだのは十六のときであり、その直後に日瑞の姓を賜ったため、皇宮で過ごした経験はない。だが、雅栄の正妃である英子に才を買われ、後宮に出仕する機会がたびたびあった。そうして紗手と知り合ったのだ。
英子は年少の妃のために、千由子に話し相手を求めた。年が近かったのもあり、ふたりはすぐに打ち解けた。妹ができたようでとてもうれしかったのを覚えている。
そして今から約三年前、ふたりは同時期に身ごもり、千由子は出産のために出仕を控えた。翌春、彼女たちはそれぞれ娘を産み落とした。しかし、千由子の娘は産声だけを残して短い生を終えた。抱くこともままならず、産婆に止められて顔を見ることも叶わなかった。
娘の死は千由子の心を深く抉り、産後の肥立ちにも影響して、床から起き上がれない日々が続いた。自室に引きこもって悲嘆に暮れる妻を、滋雅は責めなかった。そのやさしさが彼女をさらに哀惜の淵へ導いていたことに、彼はいまだ気づいていないだろう。
だが、そこから引き戻してくれたのは、滋雅の面影を色濃く継いだ長男だった。
幼い成煕が毎日欠かさずに届けてくれる、庭の花や実や落ち葉。雨の日も風の日も絶えぬ贈り物は何よりも千由子を慰め、快復への道標となってくれた。
そして今日、およそ三年半ぶりに紗手のもとを訪れたのだが――。
再会した彼女は記憶のままだったが、生まれた王女については決して話題に上らせなかった。気を遣っているのかと初めは勘ぐったが、現れた銀朱への接し方を見れば自然とその可能性は潰される。
紗手はあきらかに銀朱を嫌っていた。おそらく昨日今日の話ではない――銀朱の怯え方が叱られた子どものそれではなかったからだ。
(なぜだろう……。殿下との仲は睦まじいはずなのに)
自分の子どもを妬むほど、彼女は幼くはないはずだ。なのに、銀朱は女官でさえ嫌うような北側の小部屋に追いやられ、寒く薄暗い場所でひとり震えている。まだ左右の別もつかないだろうに、捨てられないよう必死で千由子の手を探すのだ。
ふと、幼子のやわらかい肌を思い出す。大人よりあたたかい身体に、ほの甘い匂い。千由子の胸には甘酸っぱい喜びと、それ以上の疼痛が生まれた。
同じ時期に生まれた愛くるしい媛――自分の娘も健やかに育っていればあれぐらいのはずだ。なぜ、これほど愛おしい存在をかくも粗末に扱えるのかと、憤らずにはいられなかった。
それが顔に滲み出ていたのだろう。戻った千由子を見て、紗手は「差しあげましょうか?」と言った。羞恥と恥辱に閉口したが、冷静になればやはり彼女の態度はおかしい。きっと、千由子が塞いでいる間に何かあったのだ。
「――千由子」
間近で呼ばれ、千由子は思索を打ち切った。焦点を目の前に結べば、膝をついてこちらをうかがう滋雅の姿があった。皇宮から戻ったばかりなのか、衣装は正装のままだ。兄とうりふたつの面には憂いが浮かんでいる。
「滋雅様、いつからそこに」
あわてて脇息から身を起こせば、滋雅は苦く笑った。
「さきほどからずっと声をかけていたよ」
「……申し訳ございません……」
どうやらずいぶんと沈潜していたらしい。おのれの醜態を恥じながら、千由子は着替えをうながした。
姓とともに賜った官職は些細なもので、朝廷での権力を滋雅はわずかも持たなかった。それでも兄への叛意の否定になるならばと、現在の地位に甘んじている。
生来争い事を好まない性格のためか、または本の虫だったせいか、書庫での史書管理も性に合っているようだ。幸い雅栄からの温情もあって、生活には困らない。
(……そう、殿下は情け深い方だ)
温厚な滋雅に対し、雅栄は冷徹な人だ。常に身と心を研ぎ澄ませ、王として正しい選択をする。表情が硬いのもあり、どこか鋭利で近寄りがたい印象を抱くが、内面は弟と等しいことを千由子は知っていた。臣籍に下った弟の生活を心配して位階以上の禄を与えたり、慶事のたびに過分な祝儀を届けてくれたりするのだ。千由子を紗手の話し相手に求めたのも、雅栄の提案だろう。
「千由子。皇宮で何かあったね」
滋雅の襟を整えていた手が、いつのまにか止まっていた。二度の失態を、千由子は曖昧に笑んでごまかす。
「いいえ、何もございません」
「やはり行かせなければよかったか」
胸から喉へ、鋭い痛みが走る。わずかにひそめられた柳眉を滋雅が見逃すはずもなく、止まったままだった千由子の手を慰めるように熱がなぞった。
「……いいえ。そうではないのです」
同い年の王女を見て妻が傷つくのではないかと、滋雅は長く気にかけていた。たしかに傷は疼いたが、今頭を悩ませているのは別件である。
主君の私生活に口を挟んでいいものか――だが返答を待つ滋雅と銀朱への同情に負け、千由子は口を割った。事情を知った彼が選んだ答えは、彼女が予想したとおりだった。
「後宮に関して上奏するのはためらわれる。しばらく様子を見よう」
千由子は素直に従った。いくら同じ母から生まれた兄弟でも、今は国王と一臣下だ。雅栄の厚意を笠に着てはならない。
「……ですが、やはり媛のことは気にかけずにはいられません……」
涙に濡れたまどかな瞳は、大人の庇護を求めていた。失った娘に重なる――ただそれだけかもしれない。だとしても、千由子の心はすでに銀朱へ傾いてしまった。
「今後も後宮へ参る機会はあるだろう。……心苦しいかもしれないが、媛のご様子もうかがっておくれ」
ゆるく首を振れば、滋雅の手のひらが肩に添えられる。自分をいたわる熱に応えるために、強ばっていた頬を綻ばせた。
家同士の婚姻だったが、滋雅は良い夫だった。千由子は神事を司る神司の家の出で、父親は滋雅が王位に即き、娘が皇帝の生母になるのを望んでいたが、その企てが破綻してよかったと常々思う。結果、実家と疎遠になろうとも、今の平穏な生活には変えがたい。
滋雅の装いを整えおえると、それを待っていたかのように成煕と女房が室へ上がってきた。空色の童水干をまとう子どもの手には、淡い薄紅の蕾をつけた枝があった。
「おかえりなさいませ、父上、母上」
千由子は一転して母親の笑顔を咲かせ、成煕の前に膝を折った。成長するにつれますます父親に似てきたが、爪や耳の形はよく千由子に似ている。
「庭の桜がほころんでいたのです。母上にさしあげようと思ってたおってきました」
「まあ、ありがとう。うれしいわ」
舌足らずでおとなびた口調がとてもほほえましい。喜んで枝を受け取ると、家人に花瓶の用意を頼んだ。
固い樹皮に覆われた枝には、もろく繊細な花びらをのぞかせた蕾がいくつもついていた。あと二日も待てば笑みはじめるだろう。開く前に手折ったのは、少しでも長く楽しめるようにと幼いなりの配慮だ。
こみ上げる想いに千由子の胸が切なく鳴いた。ふっくらとした頬へ手を伸ばすと、成煕は照れくさそうに目を眇める。
「ありがとう、成煕。開いたら一緒に花見をしましょうね」
はい、と弾んだ答えが返る。千由子に穿たれた杭の痕はいまだ生々しかったが、夫と息子がいればいつかはそれも慈しめるようになるだろう。
幸せだと、千由子は痛みとともに何度目か知れない至福を噛みしめた。




