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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第四章 神の箱庭
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1

 幼い銀朱にとって、世界とは孤独と暗闇に満ちた場所だった。

 彼女は一日、与えられた房でひとりきりで過ごすことがほとんどだった。世話をする女官はほんの数人であり、しかも遊び相手をしてくれるわけでもなく、着替えや食事の支度を終えればそそくさとどこかへ姿を消してしまう。

 寂しさにべそをかけば、「泣いたら母上様に叱られますよ」と咎められた。

 ――母上様に叱られますよ。

 それは女官の口癖であり、実際銀朱が泣いたり癇癪を起こしたりすれば、母の機嫌がすこぶる損なわれるのも事実だった。だが、まだ三つの幼子には難しい話だ。いくら叱っても泣き止まない銀朱に嫌気がさして、女官は小さな王女を捨て置き去っていく。

 独りで置いていかないでほしい。ただ、抱きしめてほしいだけなのに。

 おのれの望みを言葉で伝えられるほど、銀朱は成長していない。話し相手がほとんどいないので言葉がつたなく、泣いて訴えるしかないのだ。

 やがて疲労に涙も涸れはじめたころ、銀朱の耳は女の賑やかな会話を拾った。普段はしんと静まりかえっている後宮の一角だが、今日は長い冬から目覚めたかのようである。

 腫れた目をこすりながら廊下へ出れば、声は母のへやから聞こえた。そろりそろりと、なるべく静かに足を運ぶ。北側から南側へ回ると、庭に面した室は御簾が上げられており、女官の裳裾が吹き抜けの廊下にまで色を添えていた。銀朱は近くの妻戸から中へ入り、壁代の影からあらためて室内をうかがった。

 明るい春の光に満ちた室には、大勢の女官が集っていてとても華やかだった。紅、青、黄、紫、白と、各々のかさねの色が洪水のごとく床にあふれている。鼻水をすんと啜れば、母の好む薫物が鼻腔に満ちた。叱られる恐怖よりも憧憬が勝り、銀朱はその場に留まった。

 褥に座す母――紗手さては、まるで大輪の牡丹のようだった。銀朱の父である桐王の雅栄まさはるがその美貌を見初め入内を望んだ、当代一の美姫と謳われる女性だ。一心に寵愛を受けた彼女は一年ののちに身ごもったが、出産してなお、その美しさは衰えを知らない。

 ひさしぶりに笑う母を見て、銀朱の小さな胸はにわかにときめいた。今日は――今日こそは、あの膝に抱きあげてもらえるかもしれない。いつもは邪険にする母も、今日ならば。

 だがなかなか決心が着かず、ぐずぐずと布の端を弄んでいると、ひとりの女官が銀朱に気がついた。ぱちりと目が合い、あわてて身を隠す。

「……もしかして、寿春様でございますか?」

 びくり、と肩が跳ねた。紗手の女官ならば、銀朱の顔を知っているはずだ。いったい誰だろう。

「寿春様。どうかお顔をお見せくださいませ」

 それは、今まで耳にしたことがないほどにやわらかく、やさしい音だった。どこかくすぐったくなる声音だ。

 おそるおそると、物影から目の上だけをのぞかせれば、女性はほほえみを返してきた。反射的に銀朱は隠れるが、ふたたび顔を出せば視線が交わる。双眸にはあたたかな色が宿っていた。

「どうぞ、こちらへおいでくださいませ」

 銀朱は期待をこめて、女性と向かいあう紗手を見た。だが、いつのまにか彼女は扇を広げて顔を隠していた。見たくない――その固い拒絶が礫のごとく飛んできて、繊細な心を打ちすえる。

 いつもいつも、紗手は娘を見ようとしない。まだ三歳の幼子を日も満足に射さない北側の房へ追いやり、気配さえ嫌うように遠ざける。紗手の顔を見るのを許されるのは、雅栄が後宮を訪れたときぐらいだ。

 理不尽な仕打ちに、銀朱の瞳から大粒の涙がこぼれた。いくらも経たぬうちに嗚咽が喉を突く。震えだした足は身体を支えられず、やがてへたりと床へくずおれた。

「まぁ……驚かせてしまったかしら……」

 悲しみに暮れる意識の端で女性が呟く。その直後、嗅ぎ慣れない匂いが銀朱の鼻先をかすめた。涼やかな香りは紗手の酔うような甘さとはほど遠い。

 突然現れた大きな影は、驚きに硬直する銀朱にすっぽりと覆い被さった。

「驚かせるつもりはなかったのです。申し訳ございませんでした」

 気づけば銀朱はさきほどの女性の腕の中だった。至近距離にある他人の顔と、全身を覆う薫物と、寝具よりやわらかくあたたかな身体――初めてのできごとに、泣くのも忘れて彼女を凝視する。

「さあ、泣かないでくださいな。かわいらしいお顔が台無しでございますよ」

 女性は懐紙を取り出し、慣れた手つきで銀朱の鼻水を拭った。細い指先で髪を整え、落ちかけている飾り紐を結いなおす。ふれる手のひらには女官らのような薄情な義務感はなく、まなざしは慈愛だけを湛えていた。

「……だぁれ?」

 かすれた声で問えば、彼女は穏やかに目を細めた。

日瑞千由子ひみずのちゆこと申します。寿春様のお父上であられる雅栄殿下の弟、滋雅しげまさ殿の妻でございます」

 どうやら父の知り合いらしい。銀朱はなけなしの勇気で口を開く。

「……ぎんしゅ」

「はい?」

「ぎんしゅ」

 つたない名乗りに、しかし千由子は深くうなずいた。

「銀朱様、ですね」

 伝わったことがうれしくて、銀朱はこくりとあごを引く。

「わたくしのことは、千由子とお呼びください」

「ちぅ……? ちう……ち、ちゆ、こ?」

「はい」

 喜びに弾んだ返事に、銀朱の警戒心がほろりと解けた。ちゆこ、とたどたどしくくりかえしても、千由子は嫌がらずに応じてくれる。

 こんなことは初めてだ。銀朱の呼びかけに丁寧に対応してくれる大人など、今までひとりとしていなかった。

「あちらでお菓子をいただきましょうか。お母様もご一緒ですよ」

 千由子は銀朱を抱きあげ、設けられた席へ踵を返した。彼女の体温はひだまりのようで、豊かな胸は銀朱を無条件に受け入れてくれる。とくとくとかすかに聞こえる鼓動も、どこか甘美で懐かしい。

「……千由子殿、衣が汚れますよ」

 うっとりとしていた銀朱は、冷酷な戒告により、一瞬で現実へと連れ戻された。扇の影にあったはずの紗手の目が、ふたりを見据えている。だがそこには愛情と呼べるものが一切なく、深淵のごとく暗く冷たい。類い稀なる容姿も相まって、幼い目にはとても恐ろしく映った。

「わたくしはかまいません。銀朱様、お母様のお隣に参りましょうか?」

「やめてください」

 銀朱が答える前に、紗手がぴしゃりと諫める。

「それを近づけないでください」

 低く、嫌悪に染まる声は、銀朱の心を千々に引き裂いた。噴き出した真紅の血は、涙や嗚咽となって流れ出る。

 再度泣き出した銀朱に紗手が苛立っているのは感じていたが、止めようにも傷は手に余るほど深かった。できるかぎり、母の逆鱗を刺激しないのを願うしかない。

「……紗手様、いかがなさったのですか。わたくしが何か粗相をいたしましたか?」

 千由子が問うと、紗手はただ簡潔に述べた。

「わたくしは、それが不快なのです」

 彼女の言葉は、震え出した銀朱にとどめを刺した。

「見たくもないし声も聞きたくない。――誰か、早く元の場所に戻してきなさい」

「紗手様!」

 短い批難に、それでも紗手は発言を改めない。紅を差したくちびるを弧に描き、あどけない少女のような笑みを返す。

「千由子殿、席にお戻りください。久方ぶりに会えたのです、お話ししたいことがまだたくさんあるのですよ?」

 さあ、と紗手は空いた褥を示した。女官が主命を遂行するために近づいてくる。銀朱の震えは収まらず、こみあげる恐怖と悲嘆は細い喉をさらに痙攣させる。

 ふたりの会話のすべてが理解できるわけではない。しかし、母の憎悪さえ感じる拒絶は、銀朱にも充分伝わってくる。今日こそは、と抱いていたかすかな希望も、彼女によりいとも容易く握りつぶされてしまった。あとはひたすら泣いて、痛みが薄れるのを待つしかない。

「……わたくしが銀朱様をお部屋へお連れいたします。すぐに戻りますゆえ、少々お待ちいただけますか」

「千由子殿。あなたはわたくしの話し相手としていらしたのでしょう」

「はい。ですから、お相手を差し支えなく務めるために、銀朱様をお返ししてまいります。幼い媛にはこの場はいささか早すぎたようですから」

 すぐに戻ると言い置き、千由子は銀朱を抱いたまま廊下へ出た。追ってきた女官に案内を頼む。

 薄暗い銀朱の房には長櫃や几帳などの最低限の調度品しかなく、寝具は床に広げられたままだ。そのまま千由子も立ち去ると思ったが、彼女は膝を着くといまだしゃくりあげている銀朱をあやしはじめた。背中を規則的に叩く律動に、嵐のようだった心もようやく落ち着いてくる。

 そうすると眠気に襲われるのが常だった。千由子は真っ赤なまぶたを重くしはじめた銀朱を寝具へ下ろした。

「さぞお疲れでしょう。そばにおりますから、安心してお休みなさいませ」

「……ほんと……?」

「はい。大丈夫ですよ」

 不安になり、銀朱は千由子の袖を掴む。そしてぱっと手を離した。女官に泣きすがるととても嫌がるのを知っている――だから千由子も怒って出て行ってしまうと思った。

 しかし彼女が去る気配はいっこうにない。千由子はおどおどとする銀朱の額をなでて、眠るようにうながした。

 あたたかな手は稀有で、このまま眠ってしまうのはあまりにももったいなかった。きっと、二度とこの手は得られない。

 睡魔に必死に抗いながら手を伸ばす。探し当てた熱はいったん離れると、みずから銀朱の手を取った。

「……またうかがってもよろしいですか?」

 ん、とうなずくと、千由子が目を細めたのがわかった。

 ようやく訪れた安堵に、銀朱はついにまぶたを下ろす。心地よい微睡みの中、手から伝わるのは未知のものだったが、不思議と恐れはない。むしろとても気持ちがよく、ささくれた心の傷まで癒やしてしまう。

 ちゆこ、と記憶に刻むために反復する。初めて知った愛情とともに眠れば、夢の中までが穏やかだった。

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