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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第三章 秘め事
37/52

14

 外ではしとしとと雨が降っていた。

 早朝からの地雨は太陽の光をさえぎり、夜気によって冷えた空気は暖められることなく室内に滞っている。くわえて湿気を帯びたせいか、鉛のように重い。息を吸えば肺は凍え、呼気はそのまま身体の中に居座った。

 寝具から指先を出しただけで、銀朱はぶるりと寒気に震えた。まだ秋が暮れるまで長いはずなのに、すっかり冬の匂いがする。

 昨日は以緒に宥められて食卓に着いたが、食欲がなかったので銀朱はほとんど食べなかった。ただでさえ気力を失い、食事をしていないため、全身が泥に嵌まったように重苦しい。それでも無理やり身体を起こしてパンを一切れだけ胃に押しこみ、身支度を調えればすでに午が近かった。

 以緒は未良と、監視であるアーロンを伴って部屋を訪れた。アーロンに対して不信感しか抱いていない銀朱にしてみれば、彼が以緒とともに行動しているのは耐えがたいが、いまだ疑いが晴れていない身としては当然の処遇なのだろう。

 以緒は銀朱に朝の挨拶をすると、居間の四隅をぐるりと一周した。騎士の訝しげな視線を無視して回り終えると、未良に控えの間に下がるよう告げる。

「私はこの場に残らせていただきます。守人として離れるわけにはまいりません」

「言いたいことはわかる。だが、下がってくれ。もし誰かが室内に入ろうとしたら止めてほしいんだ」

 未良はわずかに黙考したが、今日は以緒の言葉に従うことにしたらしい。ちょうど入れ違いになったエセルバードをじろりと一瞥すると、洋とともに隣室へと立ち去った。

「おはよう、銀朱。気分はどうだい?」

「……最悪だわ……」

 昨夜から割れるような頭痛が続いており、ただでさえ萎えている銀朱の気力を根こそぎ奪っていく。できることならこの場から逃げ出したかったが、それでも結果は変わらないのだろう。以緒が口を開くなら、せめて銀朱はその場に立ち会わなければならない。

 エセルバードは当然のように銀朱の正面に用意された席に着いた。主を確実に守れる位置に、ふたりの騎士が控える。彼らの姿をちらりと見やり、以緒の眉根がかすかに寄った。

 可能ならば、騎士は同席させたくない。それは銀朱も以緒も同じはずだ。だが信用のない現状で王子がひとりになるのを見過ごすはずもなく、エセルバードは以緒の視線に軽く肩を竦めただけだった。

「……長い話になりますので、おかけになってください。外は未良が守っていますので心配にはおよびません」

 以緒が勧めると、騎士は主の許しを得てから近くの椅子に腰かけた。守人も銀朱の隣に用意した席に腰を落ち着ける。

 直後、銀朱の頬を鋭い痛みが走った。爪で引っ掻かれたようなぴりっとした刺激だ。気づけば室内の印象ががらりと変わり、さめざめとした涙雨の音も聞こえない。まるでこの部屋だけ世界から切り離されたようだ。

「外に話が漏れないように、結界を張らせていただきました。これからお話しすることは他言無用でお願いいたします」

 以緒の言葉にエセルバードが問い返す。彼も異変を感じていたのか、どこか緊張している。

「結界?」

「桐の術……まじないのようなものです。身に危険がおよぶものではございません。ただ、あまり大勢には知られたくない内容ですので……どうかご容赦ください」

「……なるほど。それで」

 長く伸びた足と腕を悠然と組むと、エセルバードは以緒に笑みを向けた。不満や怒りはなかったが、有無を言わせない圧力のある類だ。

「何を話してくれるのかな?」

 ちら、と以緒がこちらを見たのがわかったが、銀朱はおのれの膝を見つめたまま頑なに反応しなかった。精一杯の批難と拒絶だったが、以緒は何も言わずに正面へ向き直った。

「――まずは、誤解を解かせていただきたいと思います。あなた方が疑われるのはしかたありませんが、私は男ではありません。正確には、男でも女でもありません。私は性を持たない生き物です」

 数瞬の沈黙ののち、エセルバードの鼻梁に深いしわが寄った。

「冗談を言えと言った覚えはない。真面目に話したまえ」

「冗談ではございません。私は男でも女でもありません。私が一度でも自分が男だと言ったことはありますか? 銀朱様や、未良や洋殿が男だと言いましたか? 武人である、男名である、女より男の体型に近い――そういう先入観を利用して、私はあえて言及しなかっただけです。意図して誤解を招いた自覚はございますので、その点については謝罪いたします。申し訳ございませんでした」

 以緒は座したまま深々と頭を垂れた。ひとつにまとめた黒髪が、はらりと肩から滑りおちる。

 エセルバードは頬杖をついて以緒の後頭部を見据えていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「……最後まで聞いてから判断しよう。続けるといい」

 ありがとうございます、と守人はようやく顔を上げた。しかし向けられる視線は厳しい。それでもエセルバードが腹を立てて離席しないだけましだろう。

 ゆるりと、厳かに以緒の口唇が動く。

「シェリカ神の兄である、桐の神についてはご存じでしょうか。現在、桐には皇太子陛下がおわしますが、その陛下こそが桐の神――こちらで言う太陽神ご本人でございます。神話や聖典の中でしか神の御姿を見たことがないヘリオスの方には理解しがたいでしょうが、桐では神は人の姿形を取り、皇帝として君臨しておられるのです。けしてただびとを奉りあげているのではありません。皇帝陛下はこの世界を治める神であり、女神の対である男神です。現在の御名を永隆えいりゅうとおっしゃり、銀朱様の異母兄としてお生まれになりました」

 その名は、本能にまで染みこんだ不快感を銀朱に味わわせる。引きちぎるほどにドレスを握った手のひらには、じっとりと汗が滲んでいた。

「はるか遠い昔、こちらの聖典にもあるように、太陽神と月神は相争い、月神は太陽神に力を奪われて地上に堕とされてしまわれました。その時、夜空からは月が失われたと伝えられています」

 それはヘリオスでも桐でも等しく、太古に起こった史実として信じられている。そして失われた女神を捜し出し、彼女の力を取り戻したのが王族の祖イシュメルだ。故にイシュメルは英雄として、女神とともに現在まで崇められている。

「ですが、桐ではこう伝えられています。月神が力を取り戻したのではない、太陽神がその玉体にふたつの力を納めることに成功したのだと――世界を治める唯一の神になられたのだと。そして、それは事実であり真実です」

 滔々と、まるで御伽噺のような内容を以緒は語る。単調な語り口はどこか現実味を欠いているというのに、一笑に付すのを許さない響きがある。

「ですが、いくら神と言えど、ひとつの器に二柱もの力を封じるのは難しいのです。そこで、神は古くなった器を定期的に新しくすることにしました。人に新しい器を産ませ、世界を治める神の器に育ったのちに皇帝としてふたたび即位なさるのです。桐の宗室は陛下の器を産む血筋として、代々皇帝の血を混ぜながら役目を担ってきました。同様に……」

「いお」

 思わず口を突いた制止は、あまりにもか細く震えていた。普段なら以緒はそれだけで口を閉ざすだろう――しかしわずかの間を置いて、以緒はさえぎられた言葉の先を続ける。

「同様に、陛下の器が熟すまでの間、月の力を納めておく仮の器として〈みてくら〉が設けられました。それが私です。生まれて十九年でその役目を終えるため性別は必要ありませんし、ただの人間に神の力を納めるので性別を持つほどの余力もありません。陛下がご成長なさるまで月の力を預かり、登極時にお返しする――それが私の存在意義です」

 エセルバードが片手で自分の額を覆った。うつむき、眉間を指で押さえながら、ため息とともに首を振る。

「……話が荒唐無稽すぎて、何を言っているのかわからない。銀朱の兄である皇太子が太陽神で、女神は復活したわけではなく君がその力を持っていると? そんな非現実的な話を信じるとでも思っているのかい?」

「にわかには信じがたいでしょうが、すべて事実です」

「では、君が真実月の力を手にしているとして、我々が崇めてきた女神サユルはいったい何なんだ?」

「女神はたしかに月神であられたのですから女神にちがいありませんし、あなた方が今まで神と崇めてこられたのならそれが事実ではありませんか? ただ、実際には力を持たなかった、それだけのことです」

 反論しようと開いた口を、結局エセルバードは使わずに終わった。自分が今まで『神』として崇拝してきた存在が神ではなかったと告げられて、冷静でいられる人間がいるだろうか――しかも以緒の話はエセルバードら一族の血統さえ否定するのだ。動揺するには充分だろう。

 彼は険しい表情で懊悩していたが、やがて諦めたように嘆息して背もたれに身体を預けた。

「女神についてはいい。続きを聞こう」

 ほんのりと口の端に笑みを浮かべて、以緒がうなずいた。

「陛下に月をお返しするのは、来春の三月つごもり――新月の日です。それまでに私は桐へ帰国し無事に儀式を終えなければ、陛下は登極できず世界は滅ぶと言われております」

「それはまた大仰だな。その根拠は?」

「皇帝のご神威により豊かな自然に恵まれている桐にとって、陛下の崩御は死活問題です。陛下がお隠れになられている間は、気候が不安定になり収穫も激減します。そしてこちらの史書も調べてみましたが、ヘリオスも例外ではないようで」

 歴史の中で定期的にくりかえされてきた大規模な凶作や飢饉、または天災に至るまで、自然現象と判断されてきたすべての事由は皇帝の誕生と死亡であると、以緒は説明した。

 皇帝が崩御すればまずは桐で異変が起こり、その後は伝染病のように大陸中に影響が広がっていく。わずかな誤差はあるとしても、時期としてはどの時代も例外なくぴったりと重なるのだ。これを偶然と片付けるのは難しい。長年に渡る異常気象は、飢饉のみならず内乱や戦争をももたらした。しかし、桐で皇帝が誕生すれば一様に気候は安定に向かい、争いもやがて収束していく。

「皇帝陛下は世界を治める唯一の神であらせられますから、陛下がおられなければ世界の均衡が崩れるのは必然なのです。そのため、宗室は血眼で次代の皇帝陛下のご降誕を望みます。ですがこればかりは陛下自身も触れてはならない生命の理のため、お生まれになるまでどうしても年月がかかってしまい、その間災厄は避けられないのです」

 以緒はそこで一度口を噤んだ。相対するエセルバードの顔には、わずかな疲労が滲んでいる。両隣の騎士も内容を咀嚼しそこねて喉に詰まらせたような、苦々しい表情をしていた。

「仮に、君が話したことが事実だとしよう。以緒は皇帝に力を返したらどうなる?」

「先ほど申したとおりです。私はそれ以上存在することはできません」

「端的に言えば、死ぬと言うことかな」

「はい」

 重い沈黙が室内に蔓延し、銀朱の胸を押し潰した。先ほどから悪寒と吐き気が、激しい頭痛とともに彼女を苛んでいる。気を失わないのが不思議なくらいだ。

「君は、そのことを疑問に思わないのかい?」

 そこには批難も同情もなかった。エセルバードの純粋な問いに、以緒はただ穏やかにうなずいた。

「いいえ。むしろ喜ばしいほどです。私は桐と陛下のためにこの身を捧げるように作られ、そして育てられました。疑問を抱いたことなど、一度としてありません」

 ――そうだ。以緒はそう作られているのだ。

 だから何があろうと皇帝を慕い、皇帝のためだけに生きる。以緒が皇帝を慕えば慕うほど、かわりに銀朱は異母兄への恨みを募らせていくしかない。

「体のいい生贄、ねぇ……」

 ぽつりと落ちたエセルバードの独白は、銀朱の奥底でいつまでも反響していた。自分で叫んだ言葉だが、返ってこればひどく痛い。

 静寂はひたすら重く、砂袋のように肩や背中にのしかかった。あごに手をそえて黙考するエセルバードが何をどう判断するのか、銀朱にはまったく予想できない。

 やはり話さなければよかったと、彼女は後悔した。ここまで話す必要などどこにもなかったはずだ。なのになぜ、以緒は手の内を明かしたのだろう。以緒の考えもすでにさっぱり理解できない。

「――それで、以緒が話したことがすべて事実だという証拠は?」

 やがて発せられたエセルバードの声に、銀朱は弾かれたように顔を上げた。今日初めて交えた新緑の視線が銀朱をとらえ、うっすらと目元を弧に描く。

「証拠がなければ虚言としか取れない。あまりにも非現実的な内容だ。確固たる証拠を見せてくれないかな」

「だめよ! そんな……、っ」

 彼の言わんとすることを察して銀朱は狼狽した。今、この場で示せる証拠と言えばひとつしかない。つまり、以緒が性別を持たない証拠を見せろと言うのだ。

「この子はっ、いおは、本来は女なのよ。そんなこと、できるわけないじゃない!!」

 訝しげに顔を歪めるエセルバードに、以緒の平静な声が説明を添える。

「私のこの器は、本来なら女として生まれる物でした。月の神は女神ですから、男より女の方が都合がいいのです」

 銀朱は以緒の秘密を知ってから、ずっと守人を女として扱ってきた。男としてふるまった方が武人としては便利だからと、以緒みずからが男装をまとっても、銀朱は女として見てきた。

 たとえ銀朱だけが女として花開き、以緒とのちがいが歴然としても、彼女は同じ女なのだ。家族でもない男に肌を晒すなど許容できるはずがない。

「それなら、なおさら君が男でも女でもない証拠を見せてもらえるかな。それが最も確実な証拠だ」

「ふざけないで! 絶対に許さないわ!!」

 銀朱は喉が裂けんばかりに叫んだ。悲鳴ともいえる絶叫に、それでもエセルバードは考えを覆さなかった。いつになく真剣な表情は城壁のごとく堅牢で、同情ではとうてい崩れそうにない。

「銀朱、僕は以緒を辱めるために言っているわけじゃない。僕は真実を知る必要がある。今まで彼が……彼女が語ったすべてが真正ならば、以緒は桐にとって枢要な存在だ。それがなぜ君の守人としてこんな場所にいるのか、正確に把握し対処しなければならない」

 彼はちらりと以緒に焦点を移し、秀眉をひそめた。

「なにせ、以緒は桐の急所だ。それを知らないうちに握らされていたのだから、僕には知る権利がある。そう思わないかい?」

 喉まで出かかった反論を、銀朱は結局発することができなかった。エセルバードの主張は正論で、銀朱の主張はただの感情論でしかないと気づいたからだ。論理的な相手をねじ伏せる言葉をついに見つけられなかった。

 絶句し、おのれの浅慮に当惑する銀朱の隣で、すくりと以緒が立ち上がった。驚いて振り仰げば、柔和なほほえみが返ってくる。

「お気になさらないでください。特に羞恥心はございませんから」

 そういう問題ではない、と怒鳴る暇もなく、以緒は自分の衣服に手をかけた。

 刺繍で縁取りされたヘリオス風の上着を脱ぎ、首を飾る白いタイを躊躇なくほどく。そろいの胴衣まで脱いでしまえば、あとは肌着であるシャツ一枚しかない。

「ですが、私が性を持たない証拠をお見せするのは目に毒かと思いますので、かわりに〈幣〉である証をお見せいたします」

 すべてのボタンを外しおえると、以緒はエセルバードたちに背を向けた。するり、と肩の線に沿ってシャツが滑り落ちる。

 見たくなかった。目をそらしたかった。

 しかし銀朱の意思に反し、身体はぴくりとも動かない。見開いた眼球を動かすことさえ困難で、脳は以緒の背に焦点を結び容赦なく像を焼きつける。砂漠のように干上がった喉で小さく嘆けば、ざりざりとした痛みだけが残った。

 綿布の下から現れたのは、成長期の少年に似た体躯だった。軍人として鍛えているにしては筋肉の発達は乏しく、かといって余計な脂肪がついているわけではない。女性らしい丸みは肩や腰にも見られず、男らしく骨張った部分もない。

 日焼けを逃れた肌には、鍛錬の際に負った傷が薄桃色の痕を残していた。だが、全員の目を惹きつけたのは、一面に描かれた朱色の鳥だった。

 翼を広げた鳥に見えるそれは、火傷痕か痣のようだった。しかし、焼き印にも入れ墨にも見えないのは、あまりにもそれの色が鮮やかだからだろう。鮮血で描いたような鳳鳥は以緒の肌にしっとりと馴染み、けっして広くない背で堂々と羽ばたいている。

「私の瞳の色も、性を持たない身体も、幣の特徴です。ですが碧眼の人間は世界中に存在しますし、無性かどうかその都度確かめるのは手間です。ですから陛下はもっとわかりやすいように……」

「やめて」

 ふらり、と銀朱は立ち上がった。ゆらゆらと、幽鬼のような足取りで以緒との距離を縮める。銀朱の意識が働くよりも早く身体は動き、守人の晒された背に手を伸ばす。

「もうやめて。もういいわ」

 背の鳥を隠すように、銀朱は以緒を抱きしめた。もう一瞬たりとも彼女を辱めたくなかった。

 以緒が口を開いた時点で、銀朱には逃げ道などとうになかった。自分だけ沈黙を守れるはずがなかったのだ。初めから以緒はエセルバードに背中の印を見せるつもりだったのだろう。見る者に絶対的な畏怖を与える皇帝の爪痕を明かされれば、彼女は以緒のために口を割るしかないのだから。

 銀朱が確信したとおり、エセルバードからは以緒に対する拒絶が芽を出していた。自分の常識に収まらないものへの嫌悪と、圧倒的な力への恐怖だ。ほんの数歩の間に厚い壁が築かれていくのを、銀朱は悲痛とともに見守る。

「……この子とは、皇宮で一緒に育ったの」

 耐えきれずに銀朱はエセルバードから目をそらした。凍りついていく表情を、それ以上見たくはなかった。

「気がついたらこの子が側にいたわ。側にいてくれるのは、この子だけだった」

 ――そうしてこれからも、この子だけなのだ。

 耳朶をやさしくくすぐる声に顔を上げる。銀朱を慈しみ、安堵させようとほほえむ青眼に映りこんでいるのは、今にも泣き出しそうな子どもの顔だった。

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