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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第三章 秘め事
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13

「わたしは、自分の行為が間違っているとは微塵にも思っていないわ。すべての人間に謗られようと、自分は正しいと自信を持って断言できる。そしておまえたちこそおのれの行いから目を反らし、蛮行を重ねる人非人だと教えてあげるわ。何があろうと、わたしは絶対に以緒を手放さない」

 一歩、未良の影が銀朱に迫る。本能的な恐れに背中からぞわりと怖気が走った。まるでむき出しの刃を目の前に掲げられているかのように、首筋の寒気は治まらない。

 気づくと指先が震えており、銀朱はあわてて袖の下へ隠した。ぷつりと噛み切ったくちびるから染み出す血の酸っぱさを頼りに、必死で虚勢を張る。

「――そこまで愚かだとは、思いもしませんでした」

 また一歩、未良は銀朱との距離を詰めた。手を伸ばせば触れられる位置だ。

 さすがに洋が咎めるが、未良を止めるほどの威力はない。男の顔はみるみると軽蔑に塗りつぶされていく。

「まさか、本気で桐や陛下を裏切るおつもりでしたか。寿春様が以緒様を守人としてヘリオスへ同行させたがった理由も、当然ながら陛下はご承知の上でお許しくださったのですよ。私がここにいるのが確たる証拠です」

 それぐらいわかっている、と銀朱は心の中で叫んだ。

 だから未良の存在が煩わしかった。以緒と未良がふたりきりになるのが不安でしかたなかった。

「いくら足掻こうと無駄です。諦めなさい。私は守人としての任務を遂行します。寿春様は気づいていないでしょうが、そもそも以緒様ご自身が……」

「――未良」

 凛とした、ひとすくいの清水のような清冽な響きが、凝った空気を一瞬で払拭した。

 声の元を求めて振り返れば、固く閉ざしてあったはずの扉から、以緒の姿がのぞいていた。遠目ではあるが頬の痣以外に目立った怪我はなく、体調も良好のようだ。しかし以緒はちらりとも銀朱を見ず、ただ未良だけを視界に収めていた。

「口を慎め。今すぐ銀朱様から離れろ」

 ふたたびの冷たさに、銀朱はほんの一瞬抱いた安堵を手放した。以緒は普段から熱のこもった話し方をするわけではないが、それでも今は痛いほどに冷たい。氷の下で密かに流れる真冬のせせらぎに手を入れたら、きっと以緒の声に近いだろう。

「以緒様、私は……」

「聞こえなかったのか? 私は、銀朱様から離れろと命じている」

 以緒の瞳がちかりと光った気がした。光を反射しただけだろうと、銀朱は思った。

 だが守人が未良に近づくにつれ、その虹彩がきらきらと銀色の光を発し始める。やがて以緒の目にいくつもの星が瞬きだし、もとの青はしだいに宵闇色に沈んでいく。

「以緒様、私は守人として……いえ、桐の民として当然の行いをしているまでです。どうかご寛恕ください」

「未良。私は〈みてくら〉としておまえに命じている」

 未良と銀朱のすぐ側で立ち止まった以緒は、すでに虹彩に銀河を生み出していた。名を呼ぼうとしても、星々の光に銀朱は言葉を奪われてしまう。

 先ほどまで凄んでいた未良でさえ、はるかに年下の以緒に怯んでいた。ひとつ以緒が瞬けば星が散り、星は矢となって男をその場に縫い止める。

「その御方は皇太子陛下の妹君であらせられる。陛下に認められた、由緒正しき皇女殿下だ。その御方に無礼を働くのならば陛下への無礼と私はみなすが、それでもかまわないなら留まればいい。不本意ならば即刻下がり、非礼を詫びて許しを請え」

 それは絶対的な命令だった。上から下へ、頂に立つ者が被支配者に下すものだった。

 未良を射る双眸が輝きを増し、彼はぶるりと大きく身体を震わせた。額には玉のような汗まで浮かんでいる。

 そのかたわらで、銀朱は呆然と以緒を見上げていた。鼻筋の通った横顔には片方の宇宙しかなかったが、我を忘れて魅入るほどに美しい。漆黒の空に瞬く星々が以緒の瞳の中で煌々と輝き、踊り、そして巡っていく。

 ずっと昔、あの宇宙を見たことがあるような気がした。あれはいったい何なのだろう――きっと人が手にするのはとうてい許されない、神の物だ。

 直後、鈍器で思いきり殴られたような衝撃が銀朱を襲った。くらくらと意識が混濁する一方で、ついにそれが牙を剥いたのだと悟る。

 いつもひそりと背後にあった絶望の沼。そこから前触れもなく手が伸びてきて、銀朱を頭から無理やり水面に叩きつけたのだ。全身の毛穴という毛穴が粟立ち、脂汗が噴き出し、恐怖にがたがたと身体が打ち震える。

 底のない沼へ引きずりこまれながらも、銀朱は必死に足掻いた。以緒の腕を掴むために、両手を思いきり伸ばして引き寄せた。

「いお!」

 はっ、と以緒が我に返り、銀朱へ視線を向けた。満天の星はしだいに輝きを失い、払暁のごとく瞳に色が戻りはじめる。見慣れた青に、銀朱はようやく沼から顔を出せた気がした。

「……いお、怪我は大丈夫なの?」

 ゆっくりとひとつ瞬いてから、以緒は銀朱の足下に跪いた。

 恭しい態度に反し、銀朱が求める親しさは持たなかった。ただ、いまだ殴打の傷に苦しめられているかのような表情を浮かべ、主を見上げる。

「……大変失礼をいたしました。どうかお許しください」

 語られない返答とかわりの謝罪に銀朱はためらった。鎮まっていた憤怒が、ふたたび火柱を上げはじめる。

「どうしていおが謝るの? わたしに暴言を吐いたのは未良でしょう」

「従者の犯した過ちの責任を負うのも、主の役目です。申し訳ありませんでした」

「やめて。何が従者よ。いおを監視しているだけじゃない」

 銀朱は以緒の背後にたたずむ未良を睨めつけた。視線で射殺せるならどれだけいいか――腕力ではとうてい及ばない銀朱にとって、未良への武器はひたすら目と言葉だけだ。

「おまえの主張は桐の民としては正しいのかもしれないわ。けれど、人としては非道よ。わたしにはとても理解できないし、したいとも思わない」

「……あなたは事の重大さをまったく理解しておられない。おのれの罪深さに気づいておられないから、そのようなことをおっしゃるのです」

 未良、と以緒が叱責するが、今度は彼は怯まなかった。額にはまだ汗をかいたままだ。

「いいえ……以緒様。どうか言わせてください。たったひとりの身勝手な行いのせいで、あなたの尊いお役目を、何千万におよぶ桐の民すべての願いを、踏みにじられるわけにはいかないのです。寿春様には今この場で納得していただかなければなりません」

「身勝手……ですって……?」

 銀朱の中で全身の血が狂ったように暴れ出す。内側からの暴力に銀朱は抗わなかった。抑える必要など、もうどこにもなかった。

「わたしが罪深いならおまえたちは何なの? 自分たちは正義だと、いおに面と向かって言えるものなら言ってみなさい。幣だ何だと奉りあげずに、率直に自分たちのために死んでくれと正直に言えばいい。そうしないのは、自分の罪から目を背けているからでしょう!!」

 瞬間、目の前で何かが炸裂し、銀朱の身体をつき動かした。自分の意識とは別の場所で、あるいは最も意識の深いところで、彼女を操り未良へ衝突させようとする。

 しかし途中で以緒の腕に阻まれて、銀朱の手は届かなかった。伸ばした腕が虚しく空を泳ぎ、未良を傷つけようともがく。

「替えが効かないと言ったわね? 当然でしょう、おまえたちがいおからすべて奪ったからよ! 人としての身体も感情も奪って、親兄弟まで殺して、そうして従順であるように作り上げたのだもの。これほど体のいい生贄なんてほかにいないわよね!? この人殺し!!」

 耳に触れた慰撫の言葉は、銀朱にはもはや届かなかった。思いつくかぎりの罵詈雑言を未良に浴びせ、離してくれと以緒に訴える。

 是が非でも未良に殴りかからないと気が済まなかった。何としてでも、この怒りをぶつけなければならないのだ。それは銀朱にしかできないのだから。銀朱しか残っていないのだから。

 以緒が自分の願いを叶えてくれないと悟ると、銀朱は守人の背中をきつく抱きしめた。彼女の豹変ぶりにたじろいでいる未良を威嚇するように、おのれの細く頼りない腕で以緒を縛める。

「おまえが何と言おうが、何をしようが、たとえ永隆がこの場に来ようが、わたしはこの子を渡さないわ。桐が滅びようが関係ない。わたしにはこの子さえいればいい!」

 ――こんこん、と、軽やかな連打音が鼓膜を叩いた。ノック音だ。陽気とさえ言える響きに、いっとき怒気を忘れて振り返る。

 以緒が開いた扉に手をかけてこちらを見ているのは、そろいの新緑の瞳だった。整った白皙の顔には蠱惑的な微笑を浮かべている。

「取り込み中失礼。けれど、僕も交えて詳しく話してくれないかな」

 銀朱は目を疑わずにはいられなかった。一瞬目の前が墨で塗りつぶされ、両脚から力が吸い取られていく。察した以緒に腰を掬われて何とか身体を支えながら、彼女はエセルバードに問いかけた。

「いつから……」

 虫の羽音より小さな声でも、エセルバードには届いたらしい。金糸の睫毛を瞬かせ、鮮やかな瞳を弧に描く。

「以緒に連れられて来たんだ。ここで待っていろと言ったのも彼だよ」

「うそ……」

 おそるおそると身体を離し、以緒を仰ぐ。夏空を取り戻した瞳は、一面に悲愁を湛えていた。

「銀朱様。すべてエセルバード殿下にお話ししましょう」

「そんな…どうして……?」

「銀朱様がお嫌なら、私だけでお話しします。ですが、できることなら銀朱様にご同席いただきたいのです」

 以緒はすでに決めてしまったのだ。おそらく、どれほど銀朱が拒んでも以緒は口を開くのだろう。

 銀朱の知らないところで、すがりついていた唯一のものに罅が入っていた。可能なかぎり完璧な形で保とうと心を砕いてきたのに、それは小さな破片を落としながら崩壊を始めていたのだ。

 はらはらと花びらのように散る細片を見たくなくて、銀朱は以緒の肩に顔を押しつけた。桜花を連想させるまぼろしは、嫌でも春の期日を思い出させる。

「明日、改めてお時間をいただけますでしょうか。今日は銀朱様もお疲れですので、どうかご容赦ください」

 以緒の申し出にエセルバードはあごを引いた。

「そうしよう。明日の午後、それ以上は延ばさない」

「ありがとうございます」

 銀朱は以緒の背中をきつく握った。適度な筋肉の固さと脂肪のやわらかさにくるまれ、慣れ親しんだ匂いとぬくもりだけに意識を注ぎこむ。

 すべて夢ならいい、と彼女は願った。今この腕にある存在だけ確かならば、自分の人生がうたかたに消えてもいい。むしろ、すべてが無に戻るならどれだけ幸せだろう。

 以緒の手が、銀朱の髪をかすかに撫でるのがわかった。閉じたまなうらは花吹雪に染まっていた。

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