13
「わたしは、自分の行為が間違っているとは微塵にも思っていないわ。すべての人間に謗られようと、自分は正しいと自信を持って断言できる。そしておまえたちこそおのれの行いから目を反らし、蛮行を重ねる人非人だと教えてあげるわ。何があろうと、わたしは絶対に以緒を手放さない」
一歩、未良の影が銀朱に迫る。本能的な恐れに背中からぞわりと怖気が走った。まるでむき出しの刃を目の前に掲げられているかのように、首筋の寒気は治まらない。
気づくと指先が震えており、銀朱はあわてて袖の下へ隠した。ぷつりと噛み切ったくちびるから染み出す血の酸っぱさを頼りに、必死で虚勢を張る。
「――そこまで愚かだとは、思いもしませんでした」
また一歩、未良は銀朱との距離を詰めた。手を伸ばせば触れられる位置だ。
さすがに洋が咎めるが、未良を止めるほどの威力はない。男の顔はみるみると軽蔑に塗りつぶされていく。
「まさか、本気で桐や陛下を裏切るおつもりでしたか。寿春様が以緒様を守人としてヘリオスへ同行させたがった理由も、当然ながら陛下はご承知の上でお許しくださったのですよ。私がここにいるのが確たる証拠です」
それぐらいわかっている、と銀朱は心の中で叫んだ。
だから未良の存在が煩わしかった。以緒と未良がふたりきりになるのが不安でしかたなかった。
「いくら足掻こうと無駄です。諦めなさい。私は守人としての任務を遂行します。寿春様は気づいていないでしょうが、そもそも以緒様ご自身が……」
「――未良」
凛とした、ひとすくいの清水のような清冽な響きが、凝った空気を一瞬で払拭した。
声の元を求めて振り返れば、固く閉ざしてあったはずの扉から、以緒の姿がのぞいていた。遠目ではあるが頬の痣以外に目立った怪我はなく、体調も良好のようだ。しかし以緒はちらりとも銀朱を見ず、ただ未良だけを視界に収めていた。
「口を慎め。今すぐ銀朱様から離れろ」
ふたたびの冷たさに、銀朱はほんの一瞬抱いた安堵を手放した。以緒は普段から熱のこもった話し方をするわけではないが、それでも今は痛いほどに冷たい。氷の下で密かに流れる真冬のせせらぎに手を入れたら、きっと以緒の声に近いだろう。
「以緒様、私は……」
「聞こえなかったのか? 私は、銀朱様から離れろと命じている」
以緒の瞳がちかりと光った気がした。光を反射しただけだろうと、銀朱は思った。
だが守人が未良に近づくにつれ、その虹彩がきらきらと銀色の光を発し始める。やがて以緒の目にいくつもの星が瞬きだし、もとの青はしだいに宵闇色に沈んでいく。
「以緒様、私は守人として……いえ、桐の民として当然の行いをしているまでです。どうかご寛恕ください」
「未良。私は〈幣〉としておまえに命じている」
未良と銀朱のすぐ側で立ち止まった以緒は、すでに虹彩に銀河を生み出していた。名を呼ぼうとしても、星々の光に銀朱は言葉を奪われてしまう。
先ほどまで凄んでいた未良でさえ、はるかに年下の以緒に怯んでいた。ひとつ以緒が瞬けば星が散り、星は矢となって男をその場に縫い止める。
「その御方は皇太子陛下の妹君であらせられる。陛下に認められた、由緒正しき皇女殿下だ。その御方に無礼を働くのならば陛下への無礼と私はみなすが、それでもかまわないなら留まればいい。不本意ならば即刻下がり、非礼を詫びて許しを請え」
それは絶対的な命令だった。上から下へ、頂に立つ者が被支配者に下すものだった。
未良を射る双眸が輝きを増し、彼はぶるりと大きく身体を震わせた。額には玉のような汗まで浮かんでいる。
そのかたわらで、銀朱は呆然と以緒を見上げていた。鼻筋の通った横顔には片方の宇宙しかなかったが、我を忘れて魅入るほどに美しい。漆黒の空に瞬く星々が以緒の瞳の中で煌々と輝き、踊り、そして巡っていく。
ずっと昔、あの宇宙を見たことがあるような気がした。あれはいったい何なのだろう――きっと人が手にするのはとうてい許されない、神の物だ。
直後、鈍器で思いきり殴られたような衝撃が銀朱を襲った。くらくらと意識が混濁する一方で、ついにそれが牙を剥いたのだと悟る。
いつもひそりと背後にあった絶望の沼。そこから前触れもなく手が伸びてきて、銀朱を頭から無理やり水面に叩きつけたのだ。全身の毛穴という毛穴が粟立ち、脂汗が噴き出し、恐怖にがたがたと身体が打ち震える。
底のない沼へ引きずりこまれながらも、銀朱は必死に足掻いた。以緒の腕を掴むために、両手を思いきり伸ばして引き寄せた。
「いお!」
はっ、と以緒が我に返り、銀朱へ視線を向けた。満天の星はしだいに輝きを失い、払暁のごとく瞳に色が戻りはじめる。見慣れた青に、銀朱はようやく沼から顔を出せた気がした。
「……いお、怪我は大丈夫なの?」
ゆっくりとひとつ瞬いてから、以緒は銀朱の足下に跪いた。
恭しい態度に反し、銀朱が求める親しさは持たなかった。ただ、いまだ殴打の傷に苦しめられているかのような表情を浮かべ、主を見上げる。
「……大変失礼をいたしました。どうかお許しください」
語られない返答とかわりの謝罪に銀朱はためらった。鎮まっていた憤怒が、ふたたび火柱を上げはじめる。
「どうしていおが謝るの? わたしに暴言を吐いたのは未良でしょう」
「従者の犯した過ちの責任を負うのも、主の役目です。申し訳ありませんでした」
「やめて。何が従者よ。いおを監視しているだけじゃない」
銀朱は以緒の背後にたたずむ未良を睨めつけた。視線で射殺せるならどれだけいいか――腕力ではとうてい及ばない銀朱にとって、未良への武器はひたすら目と言葉だけだ。
「おまえの主張は桐の民としては正しいのかもしれないわ。けれど、人としては非道よ。わたしにはとても理解できないし、したいとも思わない」
「……あなたは事の重大さをまったく理解しておられない。おのれの罪深さに気づいておられないから、そのようなことをおっしゃるのです」
未良、と以緒が叱責するが、今度は彼は怯まなかった。額にはまだ汗をかいたままだ。
「いいえ……以緒様。どうか言わせてください。たったひとりの身勝手な行いのせいで、あなたの尊いお役目を、何千万におよぶ桐の民すべての願いを、踏みにじられるわけにはいかないのです。寿春様には今この場で納得していただかなければなりません」
「身勝手……ですって……?」
銀朱の中で全身の血が狂ったように暴れ出す。内側からの暴力に銀朱は抗わなかった。抑える必要など、もうどこにもなかった。
「わたしが罪深いならおまえたちは何なの? 自分たちは正義だと、いおに面と向かって言えるものなら言ってみなさい。幣だ何だと奉りあげずに、率直に自分たちのために死んでくれと正直に言えばいい。そうしないのは、自分の罪から目を背けているからでしょう!!」
瞬間、目の前で何かが炸裂し、銀朱の身体をつき動かした。自分の意識とは別の場所で、あるいは最も意識の深いところで、彼女を操り未良へ衝突させようとする。
しかし途中で以緒の腕に阻まれて、銀朱の手は届かなかった。伸ばした腕が虚しく空を泳ぎ、未良を傷つけようともがく。
「替えが効かないと言ったわね? 当然でしょう、おまえたちがいおからすべて奪ったからよ! 人としての身体も感情も奪って、親兄弟まで殺して、そうして従順であるように作り上げたのだもの。これほど体のいい生贄なんてほかにいないわよね!? この人殺し!!」
耳に触れた慰撫の言葉は、銀朱にはもはや届かなかった。思いつくかぎりの罵詈雑言を未良に浴びせ、離してくれと以緒に訴える。
是が非でも未良に殴りかからないと気が済まなかった。何としてでも、この怒りをぶつけなければならないのだ。それは銀朱にしかできないのだから。銀朱しか残っていないのだから。
以緒が自分の願いを叶えてくれないと悟ると、銀朱は守人の背中をきつく抱きしめた。彼女の豹変ぶりにたじろいでいる未良を威嚇するように、おのれの細く頼りない腕で以緒を縛める。
「おまえが何と言おうが、何をしようが、たとえ永隆がこの場に来ようが、わたしはこの子を渡さないわ。桐が滅びようが関係ない。わたしにはこの子さえいればいい!」
――こんこん、と、軽やかな連打音が鼓膜を叩いた。ノック音だ。陽気とさえ言える響きに、いっとき怒気を忘れて振り返る。
以緒が開いた扉に手をかけてこちらを見ているのは、そろいの新緑の瞳だった。整った白皙の顔には蠱惑的な微笑を浮かべている。
「取り込み中失礼。けれど、僕も交えて詳しく話してくれないかな」
銀朱は目を疑わずにはいられなかった。一瞬目の前が墨で塗りつぶされ、両脚から力が吸い取られていく。察した以緒に腰を掬われて何とか身体を支えながら、彼女はエセルバードに問いかけた。
「いつから……」
虫の羽音より小さな声でも、エセルバードには届いたらしい。金糸の睫毛を瞬かせ、鮮やかな瞳を弧に描く。
「以緒に連れられて来たんだ。ここで待っていろと言ったのも彼だよ」
「うそ……」
おそるおそると身体を離し、以緒を仰ぐ。夏空を取り戻した瞳は、一面に悲愁を湛えていた。
「銀朱様。すべてエセルバード殿下にお話ししましょう」
「そんな…どうして……?」
「銀朱様がお嫌なら、私だけでお話しします。ですが、できることなら銀朱様にご同席いただきたいのです」
以緒はすでに決めてしまったのだ。おそらく、どれほど銀朱が拒んでも以緒は口を開くのだろう。
銀朱の知らないところで、すがりついていた唯一のものに罅が入っていた。可能なかぎり完璧な形で保とうと心を砕いてきたのに、それは小さな破片を落としながら崩壊を始めていたのだ。
はらはらと花びらのように散る細片を見たくなくて、銀朱は以緒の肩に顔を押しつけた。桜花を連想させるまぼろしは、嫌でも春の期日を思い出させる。
「明日、改めてお時間をいただけますでしょうか。今日は銀朱様もお疲れですので、どうかご容赦ください」
以緒の申し出にエセルバードはあごを引いた。
「そうしよう。明日の午後、それ以上は延ばさない」
「ありがとうございます」
銀朱は以緒の背中をきつく握った。適度な筋肉の固さと脂肪のやわらかさにくるまれ、慣れ親しんだ匂いとぬくもりだけに意識を注ぎこむ。
すべて夢ならいい、と彼女は願った。今この腕にある存在だけ確かならば、自分の人生がうたかたに消えてもいい。むしろ、すべてが無に戻るならどれだけ幸せだろう。
以緒の手が、銀朱の髪をかすかに撫でるのがわかった。閉じたまなうらは花吹雪に染まっていた。