12
泣き腫らした顔を冷水で洗い、下ろしたままだった髪を香油で梳ってひとつに編み、ゆったりとした室内着に着替えると、銀朱の気分もいくらか落ち着いてきた。途中、立ちくらみに阻まれながらも居間へ移り、洋が茶を淹れるまで椅子でぼんやりと待つ。
部屋の隅に必ずあるはずの姿は見当たらなかった。きゅう、と喉が鳴りそうになったが、銀朱は奥歯を食いしばって嗚咽をこらえた。
やがて懐かしい匂いがあたりに漂う。卓上に並べられたヘリオス風の茶器をのぞけば、若葉色の水面が銀朱の顔を映した。ふわりと上がる蒸気が、充血した目にやさしく浸みる。
「ご一緒してもいいですか?」
「ええ、もちろん」
机を挟み、洋が正面の椅子に腰かけた。
銀朱は自然と頬をほころばせながらカップを手に取った。熱すぎずぬるすぎず、桐の茶を淹れるには最適の温度だ。
口をつければ茶葉の甘みが口内に広がり、舌だけでなく全身の細胞が喜びに踊り出す。かすかに残る渋味はまろやかで、鼻の奥に広がる香りは芳ばしい。まぶたを閉じて嚥下すれば、どちらからともなく感嘆の息がもれた。
「……悔しいけれど、やっぱり桐のお茶の方がおいしいわ。こちらのお茶はいつまで経っても馴染めなさそう」
両手でカップをくるみながら呟くと、洋も真面目な表情でうなずいた。
「わかります。お茶にお砂糖を入れるなんて信じられませんよね」
「本当よ、理解できないわ。しかも結構な量を入れるでしょう? 見ているだけで胸焼けがするわ」
「ですよねぇ」
萎縮していた胃に故郷の味はやさしく、荒れ果てた心をあたたかく抱きしめる。大きな安堵感に浸りながら、銀朱はざらざらとしたものや泥のような澱が溶けていくのを感じた。そうして心が落ち着きを取り戻せば、やはり気になるのは以緒のことだった。
「……どうにかしていおに会えないかしら……」
せめて怪我の具合だけでも知りたいが、銀朱は以緒が与えられた部屋の場所を知らない。使用人の使う区画だからと教えてもらえなかったのだ。
「以緒なら大丈夫ですよ。相変わらず銀朱様のことを心配していました」
「会ったの!?」
洋はいとも簡単にうなずいた。
「エセルバード殿下から怪我の手当を頼まれたんです。頭はたんこぶになってましたし、顔の腫れも引いてきましたから大丈夫ですよ」
「そう……」
――以緒は無事なのだ。
途端、銀朱の胸を最後まで苦しめていたしこりが、ため息とともにようやく消えていった。エセルバードもむやみやたらと以緒を無下にする気はないのだ。
気が緩んだせいか手の力が抜けてしまい、思わずカップを取り落としそうになる。あわてて指先に意識を集中させたがままならず、諦めて卓へと戻した。
「……いおに会いたいわ。会って話をしないと」
これからのことについて、きちんと膝を突きあわせなければならない。この時期に自分の目の届かないところに以緒がいるのは、銀朱には耐えがたかった。できることなら、昼夜を問わず同じ部屋で過ごしたいのだ。
磁器の触れあう高い音に、銀朱ははっと視線を上げた。机上で手を重ねた洋が、食い入るようにこちらを見ていた。
「まだ逃げるおつもりなんですか?」
ぎり、と皮ふのめくれたくちびるに前歯を立てる。少し力を加えるだけで、むき出しになった肉からは血が滲みた。
「だって、それしかないじゃない。この状況では難しいかもしれないけれど、まだ可能性はあるわ」
鼻にしわを寄せてみるみると表情を険しくする銀朱に対し、洋は首を横に振った。
「責めてるわけじゃないんですよ? ただ、ふたりで逃げてもどうしようもないんじゃないかなぁって思うんです。だってお金もないですし、失礼ですけどふたりとも自分で自分の世話をできないでしょう? それじゃあ野垂れ死んじゃいますよ」
「そ、そんなこと、どうにかなるわ」
「銀朱様、ひとりで着替えられますか? 以緒だって料理や洗濯とかできないでしょう? 買い物だって自分でしたことないんじゃないですか? そんなふたりで生きていこうなんて、現実的に無理ですよ。以緒は何も言いませんでした?」
反論に開きかけた口を、銀朱は結局閉じるしかなかった。洋の言うとおりだったのだ。
自分で自分の面倒も見られない人間が、いったいどうやって自力で生きていこうというのだろう。銀朱は生まれた瞬間から、生活のすべてを誰かの世話になってきた。桐を発ってからはヘリオスの庇護下で生きている。洋や女官がいなければ、おそらく自分で水の調達もできない。母親の乳がほしいと泣きわめく赤子と同じなのだ。
「わたしは、エセルバード殿下にお話しした方がいいと思いますよ。以緒もそう言ったんでしょう?」
「……いおから聞いたの?」
「何があったのか知りたくて、その流れで。いきなり顔を腫らした以緒を手当てしろって言われたらびっくりしますよ」
銀朱に視線を向けたまま、洋はわずかに身を乗り出した。本気で心配しているのが、真剣味を帯びる表情からひしひしと伝わってくる。
「殿下のしたことは許せないですけど、でもここからふたりだけで逃げ出すよりはお話しした方がずっといいと思います。だめだったらまたその時考えればいいんですよ。初めから難しい選択をしなくても、安全な方から選べばいいじゃないですか。ちがいますか?」
膝の上にあった両手は、無意識のうちに着衣をきつく握りしめていた。緑茶のぬくもりはすでに指先から遠のいており、足下から寒気が肌を伝い這いあがってくる。
以緒はすべてわかっていたのだろうか――それでも銀朱の夢物語につきあっていたのだろうか。ふたりだけで逃げおおせるなど絵空事だと理解しながら、それでも銀朱を説得しようと努めていたのか。
以緒はいつもそうだ。銀朱を頭ごなしに否定することはなく、ひたすら銀朱自身が納得できるまで静かに諭す。以緒に怒られたのは、自分を大切にしろと言われた一昨日が初めてだった。
「……怖いのよ。いおがいなくなるのが怖いの……」
はたして、以緒や洋が言うとおり、エセルバードにすべてを打ち明けることが正しいのだろうか。
彼に乱暴に扱われた時も恐ろしかったが、以緒がいなくなる方が銀朱にとってはよっぽど恐ろしい。前者が身の危険に対する恐怖なら、後者は死への恐怖に似ている。
どちらを取るかと問われたら愚問だ。明かすことで死が迫るなら、身を差し出した方がいい。
「銀朱様……」
すっかり冷え切った身体を、銀朱は自分の腕でかき抱いた。暖めようと躍起になっても、幼い頃から染みついた恐怖は氷柱となって銀朱の心臓を刺しとおす。まるで胸の中心から凍っていくようだ。
静まりかえった室内に、突如来客を告げるノック音が寂しく響いた。銀朱がすっかり青白くなった顔を起こすと、控えの間へ向かう洋のうしろ姿があった。下がっていた女官とのやりとりは小さくて、銀朱には聞き取れない。
「……誰?」
振り向いた洋の表情は強ばっていた。嫌な予感に、凍りついていたはずの心臓がどくりと跳ねる。
「……未良様です」
ついに来た、と銀朱は直感した。
常に背後に控えていた沼の底から、それが鎌首をもたげてやってきたのだ。
銀朱の返事を待たずに、未良は堂々と室内へ押し入ってきた。不快感に眉をひそめつつも、気づかれないように腕に爪を立てて気を引きしめる。そうでもしないと眩暈と貧血で意識が飛びそうだった。
「少々お時間をいただきたいのですが、よろしいですか」
「……下がれと言っても、おまえは退かないでしょう?」
是と取ったのだろう。未良は無言で一礼し、銀朱の正面まで歩を進めた。
着ているものは筒袖の袍だった。彼もヘリオス風の服を誂えていたが、着ているところを銀朱は見たことがない。
もっとも未良はヘリオス語があまり得意ではないので、与えられた部屋に籠もっていることが多く、一日に一度顔を見ればましな方だった。
「女官は下げていただけますか?」
「……洋は下がらせないわよ」
「かまいません。私まで汚名を被るつもりはございませんので」
正面に立つ男を渾身の力で睨めつける。しかし、未良は銀朱に睨まれようがわずかも動じなかった。それがまた腹立たしくて苛々する。
しばらく視線で刃向かってから、銀朱は女官を下がらせた。扉の向こうの気配が静まった頃、未良は憤懣とともに口を開いた。
「――いったい、あなたは何を考えておられるのか。以緒様にあのような怪我を負わせて、いくら皇女といえど許される行いではございません」
浴びせられた指弾に、銀朱は即座に反論した。
「わたしだって、好きで以緒に怪我を負わせたわけじゃないわ。あんなことをされてわたしが喜ぶと思うの?」
「寿春様の行いのせいで以緒様が一方的な暴力を受けたのなら、寿春様の責任でしょう。あの方はあなたのように替えが効く存在ではないのです。桐の皇女でいらっしゃるならそれぐらいご存じでしょうに」
あまりの暴言に一瞬意識が飛んだ気がした。直後、銀朱の身体中の血という血が、ふつふつと熱を帯びて逆流しはじめる。その熱流が喉まで上がってきては気道や声帯を痙攣させ、頭の中を真っ赤に染めあげていく。
銀朱が憤怒に息を切らしているとも知らず、未良は滔々と続けた。
「本来ならば王子から正式に謝罪していただきたいところですが、話したところで理解するとはとても思えません。所詮は陛下のご威光が届かぬ蛮国の人間です。一刻も早く以緒様には安全な場所へ移っていただかねば……」
「――嫌よ。許さないわ」
それは銀朱が想像していたよりも低く響いた。ほんのわずか、未良の目が瞠られる。
だが、ほっそりとした瞳はすぐに怒りを孕ませて銀朱を見下ろした。
「寿春様にはその権限はございません。すべては皇太子陛下のご意志に従い、以緒様の御身をお守りするだけです。あなたが以緒様に執着する理由は存じていますが、ただそれだけの理由で振り回してよい御方ではないのです。いいかげんに立場を弁えなさい」
「っ、おまえは以緒を何だと思っているの!」
「あなたこそ、以緒様を何かと勘違いされているのでは? あの方は寿春様の子守ではございません」
足音も立てず、未良が一歩を踏み出した。不快な空気が銀朱のうなじをねっとりと撫でていく。
「本来ならばこのような場所におられること自体が異常なのです。お世話する女官のひとりもおらず、厩のような部屋に押し込められ、穢れた食物をお出しするなど無礼極まりない。おそらく以緒様はあなたの前では不満のおひとつも漏らさなかったでしょうが、身につまされるほど不自由な生活を強いられてきたのです。もしわずかでも情をお持ちなら、おのれのわがままを差し許してくださった陛下と以緒様に感謝し、これ以上の汚行を重ねることはお控えください。今ならまだ間に合います」
「……汚行ですって? ふざけないで」
武人である未良が発する気迫は、銀朱を威圧するには充分すぎるほどだ。意思に反して全身の産毛がざわざわと逆立っている。
だがそれ以上に、銀朱の中では沸騰した血液が今か今かと噴き出す機会をうかがっていた。解放するのはたやすいが、一度手綱を譲ってしまったなら銀朱でさえ宥めるのは難しいだろう。
ただでさえ未良には力で勝てないのだ。冷静さを欠いて喚きちらすのは得策ではなかった。




