11
「――ここまで阿呆だとは思いもしませんでしたよ、殿下」
こめかみに青筋を浮かせて罵倒してくるカリンに、エセルバードは嘆息で返した。
「僕を馬鹿だ阿呆だいうのもおまえぐらいだよ。物理学の師にさえ天才と言わしめたのに」
「残念ながら、単なる世辞だったんでしょうね。とりあえず褒めておけば陛下のご機嫌も損ねませんし」
普段ならここでカリンの心根をくじくほど徹底的に反論するところだが、今はその気も起きなかった。
気怠げにソファに身体を沈める主に、カリンもこれ以上の説教を諦める。手のひらで額を覆い、だらりと身体を横たえたまま、エセルバードは天井を仰いだ。
「頭が痛いな」
頭の中心がじんと痺れる感覚に、整った眉を寄せる。かたわらの卓上には、昼間だというのにワインが用意されていた。エセルバードは酒豪だが、普段は白昼堂々は嗜まない。しかし、今は酔わない酒でもあおりたい気分だった。
「まったく……いったい何を隠しているのだか」
あれから二日が経ったが、銀朱が口を開く気配はない。ジゼルによれば、食事も取らずに寝台で泣き過ごしているという。
当然ながら離宮へ出かける予定は中止になり、シルエラを宥める役もエセルバードに任されていた。熱が出たと適当に言い繕い、銀朱の部屋には近づかないよう言い含めているが、いつまで通用するかはわからない。
銀朱が頑固な性格だということは出会って早々に把握していたが、ここまで強情となると頭痛の種である。以緒は話すつもりがあるのに、銀朱は頑なにそれを拒む――何がどうなっているのか、エセルバードにはさすがに見当もつかなかった。
「ジゼルから何か有益な情報は得られたのかい?」
ちらりと視線をやれば、カリンは苦い表情で首を振った。
「いえ。女官たちは、以緒がいたことにさえ気づいていなかったようです。ジゼルも、彼が寝室を出入りしているのは見た覚えがないと言っていました」
「だが、実際彼は寝室にいたわけだろう。誰か協力者がいるはずだ」
「私もそう思いますが、ジゼルは知らないと言い張っていまして……」
はっきりしない物言いが、ただでさえ荒んでいるエセルバードの癇に障る。
「おまえ、元婚約者ならそれぐらい吐かせろ。何のためにジゼルを侍女にしたと思っているんだ? 一、二度くちづければころりと堕ちるだろうに」
「お言葉ですが殿下。いくら銀朱様に落ち度があれど、さすがに今回の殿下の振る舞いは女官の反感を買っています。ジゼルもほかの女官も、貴族として王族に忠誠を誓う者です。知らないというのなら、事実知らないのでしょう」
カリンの強い口調に対し、エセルバードは目を眇めて言い返した。
「女官の忠誠心を問うているんじゃない。誰が密通者かと訊いているんだ。知らないなら知らないで、他の情報を引き出すのがおまえの役目だろう。この阿呆が」
言葉を詰まらせるカリンの様子に、いくらか溜飲が下がる。努力します、との騎士の返事に、彼は鼻でせせら笑った。
どう転んでもカリンは公爵家の長男だ。女官に対しても機嫌をうかがいながら礼儀正しく接するだろう。女性相手にはアーロンが適任だ。
「……以緒の処遇はどうするのですか?」
エセルバードはふたたび天井を仰ぎ、腕を組んだ。重たげに睫毛をしばたたかせ、壁面を這う鍍金飾りに焦点を結ぶ。
「やはり、以緒の口を割らせるのがいいだろうな」
視界の端で、カリンの影が動揺に身じろいだ。
「まさか、いくら何でも拷問はしませんよ」
「誰がしろと言ったんだ。どうせ問い詰めればすぐに口を割るだろう。そもそも彼にはその意思があるのだから」
だが銀朱が拒むせいで以緒は実行に移せない。銀朱が主だからか、それとも別の理由からか――とにかくも二人が隠し続けているものが何なのか、エセルバードは知る必要があった。
ただでさえクラウスが王太子候補から外れ、宮廷中が浮き足立っている時期なのだ。崩れた均衡を正すため、必ずどこかで蠢動が始まるだろう。
それがクラウスの後見であった侯爵の周辺か、それとも他の場所かはわからないが、その時エセルバードが真っ先に突かれるのは異端の国から嫁いできた皇女の存在だ。
弱点であると同時に強みにも転じるからこそエセルバードは婚約者として迎えたが、銀朱自身が毒となると話は別だった。どれほど注意を払おうと、身の内から腐る結果になるのだ。
「おまえはどう思う、カリン。いったい、何を以て以緒は僕を納得させようとしている?」
靴を履いたままの足を肘置きに上げ、完全にソファに横たわる。カリンはちらりとエセルバードの足に視線をくれてから口を開いた。
「私にもとても想像がつきません。ですが、ただ単に身の潔白を証明するだけではないのだと思います」
「そうだな。それだけならあれほど銀朱が拒む理由がない」
銀朱が純潔であることは、くちづけた時の反応から判断できた。
おそらく彼女は深窓の姫君として、男性と一切触れあうことなく育ってきたのだろう。初対面で手の甲に触れたときも、エセルバードに対する嫌悪ではなく男性への嫌悪からだったのかもしれない。
「……そういえば、おまえはふたりが恋人には見えないと言っていたな」
「ああ……、はい。ですが」
「以緒は僕を敵視したことはないと言った。まるでその言葉の存在も知らないかのようだった」
あの状況で演技はありえないだろう。カリンの説が事実だとすれば、エセルバードが覚えた違和にも説明がつく。
「ですが、あれほど親密となると、やはり恋人と考えた方が妥当かと。血縁というなら話は別ですが、銀朱様にほかに兄弟がいるとは聞いていません」
「血縁、ねぇ。……母方の親戚とか?」
「親戚でもあの親しさは少々……」
自分の身に置き換えて想像し、たしかに気持ち悪いな、とエセルバードは整った顔を歪めた。たとえ血縁だとしても、年頃の皇女の側に若い男が親しげに侍っていれば醜聞にしかならない。
すんなりと腑に落ちる回答がなかなか得られず、脳全体が鈍痛を訴えた。まるで思考の糸ががんじがらめに絡まってしまったようだ。解こうとすればするほど絡まっていくのが脳裏に浮かび、エセルバードの鬱憤も溜まっていく。
「……殿下、お気持ちはわかりますが、いいかげん仕事に手をつけてください。ただでさえ年末に向けて書類が増える一方だというのに、後で後悔するのは殿下ですよ?」
「うるさいなぁ。僕は悲嘆に暮れているんだ。愛しい婚約者の逢い引き現場に居合わせてしまったのだからね、これで傷つかない男がいるならお目にかかりたいよ。まったく、少しぐらい労ってくれてもいいじゃないか」
「傷ついているようには見えませんが」
「おまえの目は節穴か? こうして酒に溺れるほど嘆いているというのに」
「呂律もはっきり回っていますし、とても酔っているとは思えませんね」
ワイングラスと入れ替わりに現れた紙の束に、エセルバードは舌打ちした。この機に二、三日休もうと思っていたのだが、カリンには見通されていたらしい。
「ほら、そろそろ起き上がってください。行儀が悪いですよ」
「おまえは僕の乳母か」
「は? 気持ち悪いことを言わないでください」
「おまえの方が気持ち悪い」
羽虫を追い払うように手を振ると、カリンのこめかみがひくりと痙攣した。怒らせるとうるさいので、エセルバードは肘置きからしかたなく足を下ろした。
「……殿下にしてはめずらしく、銀朱様を気に入っていましたからね」
カリンがインク壺とペンにくわえ、新たなワインで満たした杯を机に並べた。大理石の天板の上に積まれた綿紙に眉をひそめながら、エセルバードは頬杖をつく。
「ようやく手懐けた猫に裏切られた気分だよ」
ため息を吐きながらグラスに手を伸ばした時、廊下側の扉からアーロンの声が入室を告げた。彼は以緒の監視に着かせていたはずだ。
「連れてきました」
騎士の背後に続く小柄な人影に、エセルバードは頬が弛むのを抑えられなかった。マタタビがみずから掌中に飛びこんできたのだ。
以緒の身なりは常どおりに整えられており、服装もエセルバードが誂えさせたヘリオスの上下だった。頬の腫れはすでに引いているが、暗紅色の痣がまだ痛々しく残っている。腰まである黒髪はきっちりとひとつにまとめられ、左耳の耳飾りが唯一の装飾品だ。それも随分長いこと愛用しているせいか、垂れ下がる房はかなり痛んでいた。
「先日は大変失礼いたしました」
深々と頭を垂れて謝罪する守人に、エセルバードは単刀直入にたずねた。
「それで、用件は?」
以緒の双眸は、ただ静かに澄んでいる。ディアンの瞳が水なら、以緒の色は空だとエセルバードは思った。水は触れられるが空は触れられない――どれだけ手を伸ばしても届かない、ただ渺茫とした青碧。これが人の色なのかと、ひやりとうなじが冷えるほどだ。
「お話ししたいことがございます。可能ならば、銀朱様もご一緒に」
「なぜそこまで銀朱にこだわる? 君が話したいのなら、今この場で話せばいい」
「私自身のことは私が話せますが、銀朱様のことは銀朱様の口からでなければ意味がございません。ただ私のことだけお伝えしても、殿下は納得なさらないでしょう」
「なるほど。それで、銀朱の口を開けなかったらどうするんだい? また貝になる?」
「いえ。不服ですが、私だけでお話しいたします。本来ならばもっと穏便に事を進めたかったのですが……」
その言葉じりに違和感を覚え、エセルバードは追及した。
「それはどういう意味だい? 君はそもそも、話すことを前提でいたとでも?」
「はい、その通りです。銀朱様がここでお暮らしになるためには、否が応でも殿下には伝えておかなければならないと考えていました。殿下が銀朱様を受け入れてくださるか見極める必要はありましたが……どちらにしろ、今となっては杞憂でした」
ふ、と以緒の薄いまぶたが降りて、冴え冴えとした青を隠した。短い沈黙ののちにふたたび現れた瞳にはもはや先ほどまでの清澄さはなく、葛藤と諦観に占められている。
眉間にしわを寄せ、きつく口を結び、まるで神に救済を求める信仰者のように、以緒はエセルバードに訴えた。
「私にはもう時間がないのです。どうか、もう一度あなたを信じさせてください」
名を呼ばれたが、望んだ人の声ではなかった。無視して枕に顔を埋めたままでいると、もう一度呼ばれる。
間近でささやかれた響きに、銀朱はのろのろと顔を上げた。
「銀朱様、お食事にしませんか?」
泣き続けていたせいか、まぶたが腫れて目を開けることさえひどく煩わしい。それでも何とか苦労して持ち上げると、ぼやけた視界に洋の姿があった。
「ずっと食べてないでしょう? お腹空いてません?」
返事をしないまま、銀朱はゆっくりと元の体勢に戻った。羽毛がたっぷりと詰まった枕は、大量の涙を吸ったせいで湿気た匂いがした。
涙腺が力尽きたのか、昨晩からわずかも涙はこぼれなかった。体力も底をついたのでしゃくりあげることさえできない。ただじっと、孵る前の雛のように丸まり、固い殻を割ってくれる声を待っている。
「銀朱様。何か食べないと身体に悪いですよ。銀朱様に何かあったら、わたしが以緒に怒られちゃいます」
ぴくり、と銀朱の細い肩が震えた。青白い指先が枕に爪を立てる。
「……いおがあんな状態なのに、わたしだけ……」
殴られた傷は大丈夫だろうか。他に怪我はしていないだろうか。よもやあれ以上酷い目に遭っていないだろうか――考えれば考えるほど思考は深みに嵌まっていき、銀朱もどろどろとした暗闇に沈んでいく。
手の届かない場所にいるからこそ、何もできないのが歯痒くもどかしかった。たとえ側にいても銀朱ができることなどほとんどないだろうが――姿が見えないと迷子の子どものように不安で胸がいっぱいになるのだ。
「……銀朱様がこんな風に落ちこんでいるのを知ったら、きっと以緒は悲しみますよ」
銀朱はふたたび沈黙に徹した。気安い慰めの言葉は、不安と悲愴に染まった胸には響かない。放っておいてくれた方がよっぽどいい。
やがて洋の声も途絶えた。諦めて出ていくだろうと銀朱は思ったが、洋はかたわらの床にぺたりとしゃがみこんだ。お仕着せのドレスの裾が床に広がるのにもかまわず、銀朱が籠る寝具の繭をじっと見つめる。
「……銀朱様、わたしを置いて以緒とふたりで逃げるつもりだったんでしょう? ちょっと悲しかったです」
銀朱の全身が緊張にこわばる。わずかの間を置いてから洋は続けた。
「銀朱様はわたしのことを必要としているって、思ってたんです。銀朱様は桐に残れっておっしゃったのに、我を通してここまでついてきたわけですけど、でも結局は銀朱様も頼ってくださるからそれがうれしかったんですよ。以緒も信頼してくれてるし、自信になっていたんです。でも、やっぱりわたしはちがうんだなぁって……そう思いました」
胸の奥をかぎ爪で引っかかれたようだった。今まで目を背け、甘えてきたものを、無理やり目の前に突きつけられた痛みだ。だが、銀朱はそれを甘受しなければならない。
布団を握りしめ、銀朱は声を絞り出した。
「……洋には、これ以上迷惑をかけられないもの。ただでさえこんなところに来てしまって、一生桐には帰れないのに、さらにここよりひどいところについてこいだなんて言えないわ……」
内側から灼けるような痛みに胸を掻きむしりたくなる。罪悪感がなかったわけではない。洋がおくびにも出さないから、銀朱も触れないようにしてきたのだ。
「洋はきっと桐で幸せになれたのに……橋都家の姫としての人生を奪ったのは、わたしだわ。だからせめて、ここで幸せになってほしいの。洋はわたしとちがってすぐに人と打ち解けられるし、ジゼルやほかの女官とも親しくなったみたいだから、だからもう……これ以上わたしたちにつき合えだなんて……」
一度言葉を切り、銀朱は寝具から起き上がった。このままでは卑怯だと思ったのだ。きちんと洋の顔を見て言わなければ、今までと何も変わらない。
銀朱は萎えた腕で身体を支えながら、寝台の端へにじり寄った。こちらを見返す黒い双眸に負けじと力を込める。
「……ごめんなさい。でも、これ以上おまえだって桐を裏切りたくないでしょう……? 洋にとっては大切な故郷だもの。いくらなんでも、強要なんてできないわ」
洋のつぶらな瞳がみるみるうちに潤み、表面に写る銀朱の像を歪ませる。まだ幼さの残る目元が充血していくのを見ながら、銀朱は目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
銀朱は今まで一度も洋が泣いたり弱音を吐いたりしているのを見たことがない。桐を離れる時も、長い旅路の上でも、ヘリオスでの生活に馴染めず銀朱が体調を崩した時も、彼女はいつも明るく侍女の役目をこなしていた。
それに何の疑問も持たずにいたが、洋にもつらい時があったはずだ――少女は誰にも知られず、独りでひっそりと涙を流していたのだろうか。そうして気づかれないように隠してきたのだろうか。
いかに自分が身勝手だったのか、銀朱はようやく理解できた気がした。ひとつ年下の洋に、自分はそれだけ甘えてきたのだ。
「……銀朱様がわたしのことも考えてくれているってわかって、うれしいです。でも、せめて話してほしかったです」
「ごめんなさい……」
洋は小ぶりな鼻の頭を赤く染めて、すん、と洟を啜った。
「いいえ、わたしこそ嫌味みたいなことを言ってしまってごめんなさい。侍女失格ですね」
「そんなこと……。洋にはその権利があるもの、当然だわ」
くちびるを噛み締め、肩を小刻みに震わせながらも、洋はついに涙をこぼさなかった。何度もくりかえし瞬き、やわらかく生えそろった睫毛に雫を纏わせて逃がしてしまう。
やがて濡れた睫毛が乾き、膝に落ちていた視線がぱっと上がったときには、洋はすでに明るい笑顔を咲かせていた。
「湿っぽくしてごめんなさい。気分転換に桐のお茶でも飲みませんか? 取っておきのを淹れますよ」
「ええ、いただくわ」
銀朱も努めて溌剌と答えた。あいかわらず全身がだるかったが、涙ひとつこぼさない少女の手前、いつまでも寝台で嘆いているわけにはいかなかった。




