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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第三章 秘め事
33/52

10

 安堵に息をつく暇も、言葉の意味を理解する暇もなかった。

 エセルバードは銀朱の細腕を掴むと、部屋の最奥にある寝台へ早足で歩き出した。歩幅の広さについて行けず、銀朱はやや小走りになりながら連れられていく。

 やがて目前に迫った寝台に、これから何が起ころうとしているのかようやく思考が追いついた。さあっ、と波が引くように全身の血の気が失われていく。

「いやっ、離して!」

「なぜ? 君が純潔なら、これほどいい方法はないと思わないかい?」

 エセルバードの声は楽しげですらあった。愕然としながら見上げれば、愉悦に咲く笑顔が視界に映りこむ。

 これはけっして夢ではないのだと、銀朱は思った。夢ならエセルバードに掴まれた腕がこれほど痛むはずがない。

 恐怖に膝が崩れ落ちると同時に、銀朱は寝台へ投げ出された。寝具はやわらかいはずなのに、まるで石の床に叩きつけられたかのように、背中や肩が痛みを訴える。しかし、新たな体重が寝台に加わったことに気づき、銀朱は閉じていた両目を反射的に見開いた。

 灯りもない薄闇で彼の顔を認識できたのは、予想以上に至近距離にあったからだ。いつのまにか、銀朱はエセルバードに覆い被さられていた。

「どうせ夫婦になるんだ。今だろうが二年後だろうがたいした違いはないよ」

 そうだろう? とささやく表情は、なぜかとても情け深く思えた。揺れる前髪の隙間からのぞく翠眼が銀朱の視線を絡めとり、恐怖に満ちた思考を浸食していく。

 たしかに、本来ならヘリオスへ来てすぐにこうなるはずだったのだ。それが偶然延びただけで、銀朱も承知の上でここまでやってきたのだ。

 なのに今さらみっともなく情けを乞うぐらいなら、自分の身を差し出した方がよほどましではないだろうか――以緒の為なら何だってすると誓ったのだから。

 やがてそれは柔和な笑みを描くと、ゆっくりと距離を詰めてきた。それを銀朱はひたすら凝視していた。

 息を呑む銀朱のなだらかな額を、エセルバードの前髪がくすぐる。肌理の整った白皙の肌と、ていねいに生えそろった木漏れ日色の睫毛。翠の虹彩に浮かぶ模様はまるで貴石を集めたモザイクのようだ。

 やがて鼻先をふ、と生ぬるい吐息がかすめると、ようやく銀朱はまぶたの存在を思い出して視界を闇色に塗りつぶした。

 動揺に乾いたくちびるに、やわらかいものが触れる。湿り気を帯びたそれは一度朱唇をついばむと、今度は押しつけるように重ね、強引にくちびるを食んだ。

 何度も執拗にくりかえされる行為に耐えられず、喉から細く悲鳴がもれる。しかし、ゆるんだ歯間からそれを待っていたかのように、躊躇なく異物が入りこむ。理解の範疇を超える展開に、銀朱は混乱の極致に叩き落とされた。

 未知の感触と恐怖にじたばたと足掻こうにも、男であるエセルバードにはまったく敵わない。押さえつけられた両腕もぴくりとも動かない。

 だんだんと頭に熱が溜まり、すべての感覚が弄ばれる口内に集中する。逃れようにも、どこにも逃げ場はなかった。圧倒的な力は銀朱の肉体だけではなく、思考をも軽々と翻弄し追い詰めていく。

 ほどなくしてまなうらを真っ赤に染めていた火も消え、銀朱の全身から力が抜けた。おとなしくなったのに気づいたのか、エセルバードは深く潜りこませていた舌をゆっくりと離した。

 銀朱は空中をぼんやりと見つめたまま、大きく喘いだ。高熱を出したように頭がじんじんと痺れ、視界が靄がかっている。何よりも、触れられたところが熱くて今にも溶け出しそうだ。

 もう一度、ひゅうと息を吸った時、銀朱は腰のあたりに違和感を覚えた。かすかに届いた衣擦れに、頭の片隅で警鐘が鳴る。

 はっと我に返って確認すれば、エセルバードの手が容赦なく腰帯を解いているところだった。慌てて止めようとしたが、自由になったはずの腕は脱力してまったく動かせなかった。

「……っ」

 ふたたび襲ってきた恐慌にくちびるが震えて、制止は言葉にならなかった。蒼白な顔で怯える銀朱の耳朶に、エセルバードの甘ったるい吐息が触れる。

 何か言おうと、彼がわずかに口を開いた時だった。

「殿下っ!!」

 怒声に銀朱がびくりとわなないた直後、覆い被さっていたエセルバードが突如視界から消えた。複数の男の叫び声と物がぶつかりあう音に続き、底から突き上げるような衝撃が何度も伝わってくる。

 丈夫な造りの寝台が軋むほどの振動に何とか身体を起こせば、髪を乱した以緒がエセルバードに馬乗りになり、その周囲をふたりの騎士が取り囲んでいた。

 以緒の右手には細い刃物のようなものが握られており、それをエセルバードの首に押し当てている。だが、守人の首にはそれよりも強靱な刃がふたつ、指数本分の空間を残して向けられていた。

「役立たずが。痩身の男ひとり捕らえられないのか」

 急所を押さえられたまま、エセルバードは騎士を罵った。おそらく、銀朱からエセルバードを引き剥がしたのは以緒だろう。服の乱れから互いに争った形跡があった。

「見損ないました、殿下。あなたは信用できると思ったのですが」

「信用されていたとは意外だな。てっきり敵視されているものだと思っていたよ」

「まさか。なぜあなたを敵対視する必要があるのですか? 殿下は銀朱様の伴侶にふさわしい方だと、私はつい先ほどまで信じていたのですが……どうやら見当違いだったようですね」

 以緒に向けられる剣は微動だせずに、両側の頸動脈に狙いを定めている。カリンとアーロンの殺気は本物だ。彼らがほんのわずか腕を動かせば、以緒の命はない。

 状況を把握した途端、銀朱の全身から滝のように脂汗が溢れ出した。

「いお、何をやっているの。早く離れて……」

 以緒の方へ身を捩ると、緩んだ襟元から銀朱の白く瑞々しい胸の曲線が露わになった。ぎょっとして掻き合わせれば、裾も膝上まではだけており、ほっそりとした脚が敷布の上で艶めかしげに晒されている。いったいどこまで見られたのか――こみ上げてくる涙を呑みこみ、銀朱は手早く着衣を整えた。

「危険ですから近づかないでください」

 にじり寄ろうとしたのを察したのだろう。以緒の拒絶に、銀朱はますます周章した。

「な……なんで、いおの方が危ないじゃない。なぜそんなことを……」

「本気でおっしゃっているのですか?」

 守人が顔を上げ、ひとそろいの青眼で銀朱をまっすぐに射た。初めて向けられる批難の色に、銀朱は愕然とするしかなかった。

「これほどの無体を働かれて、それでも私を案じるのですか? ご自分の貞操より私の方が大切だとおっしゃるのですか? なぜ、ご自分を粗末になさるのですか。私のことを大切だとおっしゃるなら、あなたを守る私のこともどうか考えてください。私はあなたに盾になってほしくて守人になったわけではないのです」

 そうじゃない、と訴える方法を銀朱は持たなかった。以緒の叱責は彼女を確実に打ちのめし、弁明の言葉を奪ったのだ。

 以緒は銀朱を視野から追い出すと、自分を脅かすふたりの騎士を交互に見やった。

「あなたたちが私の喉を掻き切る前に、私は殿下の喉を裂く自信がある。それを承知で聞いていただきたい」

 それから、顔色ひとつ変えずにいるエセルバードを見下ろす。振り子のように以緒の耳飾りが揺れるのを、銀朱はぼんやりと見つめた。

「この状況では説得力はございませんが、私は殿下に危害を加えるつもりはありません。あくまで主人を守るために取った行動であり、殿下が二度と銀朱様にこのようなことをなさらないと約束していただけるならば、私はおとなしく殿下の意思に従います。私の目的はエセルバード王子の命を奪うことではなく、銀朱様をお守りすることです」

「……それは本気で言っているのかい? 僕の首にナイフを突きつけておいて、不問で済むとでも?」

「処分は覚悟の上です。私にも非はございますから。ですが……可能ならば釈明の余地をいただきたい。すべてお話しいたします」

「っ、それだけはやめて……!」

 必死に絞りだした抗言は、しかしあまりにも細く頼りなかった。目を眇めて、エセルバードが銀朱を示す。

「君の主はああ言っているけれど?」

「……説得いたします。できることなら、銀朱様の口から語っていただきたいのです」

「だそうだけど?」

 銀朱は思いきりかぶりを振って拒絶した。いくら以緒に宥めすかされようと話す気はない。

 仰向けになったまま、エセルバードは大仰にため息をついた。

「ではこうしようか。以緒は監禁、銀朱が話したくなったら時間を設けよう。ただ僕もあまり気が長くないからねぇ。銀朱にその気がないのなら勝手に決めさせてもらうよ」

「決める、って……」

「さすがに首を刎ねはしないから安心するといい。この時期にあまり騒動にはしたくないからね……せいぜい鞭打ちと国外追放かな」

「そんな……!」

 銀朱が言葉を失う一方で、以緒は沈着にエセルバードへ問いかける。

「銀朱様への件について、まだ返答をいただいておりませんが」

「約束するよ。君が望むのなら桐の神にも誓おう。二度と銀朱に暴力は振るわない」

 エセルバードの翠緑と以緒の青が、真っ正面からぶつかりあう。

 どちらも少しも譲らずに瞳の奥を探りあっていたが、やがて以緒からふつりと緊張を解いた。身を起こし、握っていた小刀を寝台の外へ放り投げる。

「……信じます。どうかその身が朽ちるまで忘れないでください」

 すべてを言い終えないうちに、がつ、と何かが砕けるような音が以緒を遮った。アーロンが剣の柄頭で殴ったのだ。ぐらりと重力のままに傾ぐ身体に、銀朱の喉から悲鳴が迸った。 

「いお!!」

 抱きとめようと両腕を伸ばす。だが、絡まった裾に足を取られ、銀朱は寝台の上で無様に転んでしまった。

 顔を起こした時には以緒はすでに騎士によって組み敷かれており、背中で手首を縛られていた。エセルバードに殴られたせいで頬は赤く腫れ、今しがた切ったのかくちびるは鮮血で汚れている。

 血を拭い、傷の様子を確かめたかったが、あいだにエセルバードがいるのでどうしても近づけない。せめてもと銀朱がくりかえし名前を呼ぶと、以緒のまぶたがぴくりと反応した。

「ひどいわ、いきなり殴るなんて!!」

 今にも掴みかかりそうな銀朱に、アーロンは軽薄に肩を竦めた。まるで人形のように雑に以緒の髪を掴み、無理やり上半身を反らせる。

「やめてっ! いおから離れなさい!!」

「申し訳ありません。私も仕事ですから」

 薄く笑みながらアーロンは手に力を込めた。怒りが怒髪天を衝く前にカリンが諌めたが、手が離れたことで以緒は顔から寝台に倒れこむ。

「いお!」

「……私は大丈夫です。ご心配なさらないでください」

 くぐもった声はわずかに息が切れていた。どこか焦点が合っていないのは頭を殴られた後遺症だろうか――今すぐ手当をしなければならないのに、銀朱は以緒に触れることさえできない。

 気づくと涙がぼろぼろと溢れ、頬をしとどに濡らしていた。いつもならすぐに拭ってくれる指も、今は固く縛められて遠い。

 嗚咽をもらす銀朱に、ようやく寝台から起き上がったエセルバードが声をかけた。すでに背筋が粟立つような酷薄さはなく、しかし昨日までに築いてきた親密さも見当たらない。

「話す気になったらいつでもおいで。おやすみ」

 追い縋る暇も与えずに、エセルバードは以緒を連れて寝室を出ていった。闇の中、ひとり残された銀朱は泣き止む方法もわからず、孤独に涙を流すしかなかった。

 ――いったいどうすれば、どうしたらいいのだろう?

 このままでは以緒は罪人として裁かれてしまう。いわれのない罪を被り、一方的な暴力に甘んじるのだ。

 これ以上つらい思いをさせたくないのに、なぜ以緒ばかり苦しまなければならないのか。

「いお……いお……っ」

 敷布の上で蹲り、銀朱は以緒を呼んだ。

 悲懐の池に落ちれば泣き疲れて眠る余裕もなく、声が枯れ涙が尽きても、それだけが生きる術であるかのようにひたすら名を紡ぎつづけた。

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