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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第三章 秘め事
32/52

9

 クラウスが投げた石は、大きな波紋となって王宮の端々にまで押し寄せていた。

 はじめこそ驚いた銀朱だったが、王太子候補がひとり減ろうが本来の目的とはまったく関係がないため、関心もすぐに薄れていった。

 シルエラも異母兄にはそれほど興味はないらしく、むしろ離宮に出かける方が優先事項であるようで、日程が決まると毎日のごとく銀朱の部屋にやってきては衣装や遊びについて熱心に語っていく。無邪気な笑顔に銀朱は胸の痛みを覚えたが、それもすぐに焦燥で溶けていった。

 エセルバードは今までと同様に見えたが、足を運ぶ回数が減ったので何かしらの影響がおよんでいるのだろう。ディアンがうまく説得できたのか、ついに銀朱は知らないまま外出の前日を迎えた。

 入浴を済ませ、真っ白な寝間着に身を包む。この寝台で眠るのも最後なのかと考えると、ずいぶんとヘリオスでの生活にも馴染んでいたのだと、銀朱は改めて気がついた。

 綿雲のようにやわらかい寝台でもいつのまにか心地よく眠れるようになったし、美々しい内装に眉をひそめることもなくなった。社交場で体調を崩す回数も激減した。逆に、生まれ育った桐の皇宮がとても遠くに感じるのが不思議だ。

 もともと銀朱の私物は少ないので、荷造りには困らなかった。気は引けるが、宝飾品を持ち出せば旅費にも困らないだろう。

 以緒との旅に銀朱は一抹の不安も覚えなかったが、なぜか秋天のような爽やかさはどこにも見当たらなかった。

 ぼんやりと耽っていると、以緒に名を呼ばれた。細やかにそろったまつげを気怠げに持ち上げれば、苦悩に歪む守人の顔が映る。

「本当によろしいのですか?」

「……何が?」

 かすかに首を傾ぐと、洗い立ての髪が背中をはらはらと流れる。寝台に腰かける主を見下ろし、以緒は眉根を寄せた。

「どうか、お考え直しください。すべてエセルバード王子にお話ししましょう。きっと耳を貸してくださるはずです」

「話してどうなるの? エセルバードがいおを助けてくれるの? そんなこと、不可能だわ」

 奥歯を噛みしめれば、ぎりりと歯が唸った。

 他国の王子に期待して何になるのか。端緒を掴めればと願ったが、期待した自分が馬鹿だった。他人に頼った自分が愚かだったのだ。

「わたしはここを離れるわ。ついてきなさい。命令よ」

「それは……」

「わたしの命令が聞けないの? おまえはわたしの守人でしょう?」

「銀朱様……」

 銀朱は以緒の袖を掴んだ。やはり律儀にヘリオスの衣装を着ているが、以緒に似合うとはとても思えなかった。

「墓所には遺物があるだけなのでしょう? それ以外に何かシェリカの痕跡はあるの?」

「いえ。……たしかにあそこには女神の御髪がございましたが、それだけです。何かしらの術で女神の血を引く者以外は解錠できないようになっておりましたが、それは後世設けられたもので、女神とは関係ないかと思います」

「それなら、やっぱりここに用はないわ。これ以上おまえを桐に近づけたくないのよ。もっともっと、少しでも早く離れないと……」

「……どこまで行かれるおつもりですか? 桐から半年も離れて、それでも」

「だって、ここにも永隆の目は届いているじゃない! おまえだって、本当は会っていたのでしょう!?」

 いったん感情の蓋を開けば、抑えこんでいたものが溢れ出るのは止められなかった。以緒に対する怒りの奔流に、銀朱はただ身を任せるしかない。

 その背後で、底なし沼のように控えている絶望に引きずりこまれないためには、いかに理不尽でも相手にぶつけるしかないのだ。

「おまえを説得できなかったって言っていたわ。わたしに力を貸してほしいとまで乞うてきたのよ。なぜわたしが桐を出たか知っているくせに、よくもあんなことを!!」

「……申し訳ございません。存じませんでした」

 使者もなけなしの矜持を貫いたようだった。どうやら、勝手に銀朱の名を利用することはなかったらしい。

「ここにいても永隆の手はおよぶし、そうしたらおまえは接触せずにはいられないのでしょう? それなら、もっと遠くに行くしかないじゃない。地の果てでも、その先でも」

 そこに行けばふたりで幸せになれるのなら、銀朱は苦しくもつらくもない。すべてを擲つ価値がある。

 ぎらぎらと決意に滾る銀朱に対して、以緒の瞳には悲しみしかなかった。

 不安定に揺れる青は、ひたすらに銀朱の心を惑乱する。自分は間違っていないと、その自信さえも青碧に攫われそうになる。

「……それでは、何の解決にもなりません。王子にすべて打ち明けましょう。彼が術を持たずとも、何か力を借りられるかもしれません。仮にも彼は女神の子孫ですから」

「エセルバードに何の力があるの? 子孫と言っても、三千年以上経っているのよ? ましてやあの人は自分が王になることしか頭にないじゃない」

 それ以外など、エセルバードにとっては些末事だろう。そこにわずかな思い違いがあったとしても、他人の抱える問題まで背負うほど懐深くはないはずだ。

 どんな状況でも自分の利になるか否か冷静に判断する人物だと、銀朱は三か月の間に学んでいる。そして銀朱と以緒が抱えるものは、エセルバードにとって不利益にしかならないのだ。

「誰に何と言われようと、わたしは譲らないわ。おまえのためなら何だってすると、誓ったのよ」

「銀朱様。どうか、私ではなくご自分を優先してください。本当はどうしたいのか……ご自分に正直になってください」

「何を言っているの? ほかにしたいことなんて……」

「エセルバード王子をお慕いしているのではないですか?」

 以緒の唐突な問いに、銀朱はぽかんと口を開くほかなかった。

 あまりに突拍子もない発言だ。冗談でも言っているのか、と疑ったが、以緒がふざけている様子はない。

「ば、馬鹿なことを言わないで。どうしてあんな男を!」

「違うのですか? それならなぜ、毎日のように殿下とお茶をなさるのですか?」

「それは……」

 口の中が渇いて、舌の根がひりひりした。痛む喉をわずかな唾液で湿らせ、突然の追及に鈍った思考を、銀朱は必死で動かす。

「断れるわけないじゃない。それに、エセルバードから何か聞き出せるかもしれないし……」

「どうして断れないのですか? お会いするのが苦痛なら、私がいくらでもお断りいたしますのに」

 ようやく紡いだ言葉を、以緒はけんもほろろに撥ねのけた。いつもならやさしくうなずいて銀朱の意思を尊重してくれるのに――いったい何が起こっているのだろう?

「本当にお嫌ならば、今までのように誰にもお会いせずに過ごされるはずでしょう? 桐では私と洋殿以外、ほとんど言葉を交わされなかったではありませんか。ましてや男性など――」

 以緒のひやりとした手が、袖を握る銀朱のそれを包んだ。何度も肉刺をつぶして厚みを得た手のひらは、そっと寄り添うように銀朱を労っている。

 それをたしかに肌で感じながら、彼女は突如エセルバードに抱き寄せられた時のことを思い出した。腰を抱いた手は以緒よりも繊細だったが、力強く、そして無遠慮で大きかった。母親のようにやさしく包みこむ手ではなく、自力ですべてを掴みとる手だ。

 それをなぜ、突然思い出したのか。蔦のように絡まるエセルバードの熱まで肌が思い出し、銀朱の心臓がざわりと震える。

「少なくとも、王子と会話するのは苦痛ではないのでしょう? それは、銀朱様が王子に多少は心を開いているからではありませんか?」

「何を……」

「お身体を壊されてまで社交に励んでいらっしゃるのはなぜですか? 王子に厭われたくないからではないですか?」

「ちがうわ、私はいおの為に」

「社交と私は関係ございません。王子に疎んじられようと、女神について調べることはできます。ちがいますか?」

 ちがう、と返したかったが、すでに声帯が干涸らびてしまったのか、かすれ声も覚束ない。

 すべては以緒の為に行動してきた。エセルバードに好印象を与えれば協力を得られるのではと考えたから、銀朱は求められた役割をこなすことに専念した。

 せっかく桐を出られたのに、部屋に閉じこもっていては何の意味もない。だからなるべく他人と関わり、少しでも足がかりを見つけられればと努力したのだ――すべて以緒の為だから銀朱は我慢できたというのに。

「批難しているわけではないのです。私は、銀朱様にわかっていただきたいのです。たしかに初めは私の為だったのかもしれません。ですが、しだいに王子に拒絶されたくないと思ったのではないですか? 彼は初めから銀朱様のお立場に理解を示されておりました。……自分を受容してくれる人間に嫌われたくないと思うのは、ごく自然ではないでしょうか?」

「っ、やめて!」

 血を吐くように銀朱は叫んだ。床が、世界がぐらぐらと揺れている。

 まるで巨大な揺りかごに突然放りこまれたかのような感覚に吐き気を催しながら、銀朱は以緒を睨めつけた。

「そんなもの、おまえの妄想よ。いおが勝手にそう思いこんでいるだけじゃないの。わたしは本当に、ただいおの為だけに行動してきたのよ。それ以外の理由があるわけないじゃない。そんなこと、いおだってわかっているくせに、どうしてそんなことを言うの!」

「妄想では……」

「わたしはそう思っていないのだから、いおの妄想でしょう? それをわたしに押しつけないで!」

 銀朱様、とあやす声を、彼女は頭を激しく振って追い払った。

 何も聞きたくなかった。以緒のいきなりの追究の理由も、その可能性も、考えたくなかった。

 青ざめたやわなまぶたをきつく閉じ、両手で聴覚さえ遮断する。それでも守人の放った言葉は暴れ馬のように銀朱のまなうらを駆け回り、エセルバードの茨とともに彼女を苛んだ。

 身体を繭のように丸めて頑なに拒絶する銀朱の前で、やがて以緒が膝を着いた。白い耳殻に押しつけられている両手に守人のそれが重なり、堅固な戒めをほどこうとひとつひとつ指を絡めていく。

「銀朱様」

「いや」

 銀朱が駄々をこねたのと同じくして、以緒の指先がぴくりと震えた。にわかに離れた熱に顔を上げると、緊張を孕んだ横顔が視界に映る。

「ここでお待ちください」

 何があったのか銀朱にはわからなかったが、人より数倍も気配に敏感な以緒は何かを感知したようだった。

 足早に入り口へ向かう背中を追っていると、居間へ続く扉がノックもなく勢いよく開かれた。蜜蝋燭のあかりが以緒の顔を橙色に照らし出す。立ち塞ぐ守人の正面から現れたのは、闇に慣れた銀朱の目にはあまりにも眩しすぎる色だった。

「――なぜ、君がここに?」

 低く届いたエセルバードの声に、うなじがぞくりと粟立った。だが、それをあえて無視して、銀朱は寝台を離れた。

「これ以上はご遠慮ください。この先は寝室です」

「その寝室に、なぜ君がいるのか聞いているのだけれど?」

「やめて」

 以緒の腕を掴みながら、銀朱は二人の間へ分け入った。しかし、すぐに後悔に半歩退く。見上げたエセルバードの顔は、思わず後ずさりするほど冷酷だったのだ。

 守人の腕を握りしめた銀朱を見下ろし、彼は口元だけで微笑んだ。笑っているのに、視線は刃のように鋭く攻撃的だ。

「……それが、桐の寝衣かい? 初めて見たな」

 かっ、と銀朱の頬に熱が走った。あわてて以緒の背後に身を隠すが、すでにまじまじと全身を観察されたあとだ。羞恥とエセルバードの横暴さに、腹の底から怒りが顔を出した。

「何の用? 女官も通さずに非常識だわ」

 以緒の背中越しに睨めつけたが、何の脅しにもならなかっただろう。くっ、とエセルバードは可笑しそうに笑声をこぼした。

「それは失礼。けれど、どうも話が通じなくてね。なぜ、彼女たちは君と以緒が寝室にふたりきりになるのを看過しているんだい?」

 大きく吸いこんだ息が喉元でひっかかり、銀朱の言葉を奪う。黙りこんでいる間にもエセルバードの表情は酷薄さを増していった。

「問い質しても要領を得なくてね。金でも握らせた?」

「っ、ふざけないで!」

「それはこちらの台詞だよ、銀朱。君が明日、シルエラと離宮へ出かけるというから事情を訊ねにきたというのに、まさか夜這いの現場に居合わせるとはねぇ」

 生々しい響きが銀朱を殴打し、その衝撃に華奢な身体がよろめいた。

 ふたりとも失念していただけだが、それでは済まされない問題だ。現にエセルバードのすべてが凶器のように鋭利であり、目が合うだけで全身に寒気が走る。

「誤解でございます、殿下。私はただ……」

 血の気が引いた銀朱にかわり、以緒が弁明に口を開いた。だが、エセルバードは不快げに眉根を寄せただけだった。

「君には聞いていない。目障りだ、下がれ」

「どうかお聞きください。銀朱様は今動揺なさっておられます。殿下の納得の行くまでご説明申し上げますので、どうか……」

「言葉が通じないなら、行動でわからせようか?」

 居間からこぼれる逆光の中、銀朱の目には何が起こったのか瞬時に判断できなかった。

 かすかに風を切る音のあと、掴んでいた以緒の腕から激烈な衝撃が走り、驚きと恐怖にぎゅっとまぶたを閉じる。数瞬の間を置いてそろりと目を開けば、高く振り上げられたエセルバードの右手が飛びこんできた。固く握られた拳と何かがぶつかったような衝撃――そこでようやく銀朱は状況を把握した。

「やめて!!」

 銀朱の叫び声とともに、拳が以緒の頬を殴った。二度目の打擲によろめいた守人の喉元を鷲づかみ、エセルバードは容赦なく首を締めあげる。決して太いとはいえない頸部にためらいもなく爪を立てられ、以緒の顔が辛苦に歪んだ。

「いお!!」

 本気になれば逃れることなど容易いだろうに、以緒は抗おうとしなかった。歯を食いしばって銀朱を背後に守るだけで、その無抵抗さと頑固さが相手の苛立ちと嗜虐心を刺激していることにまったく気が回らないようだ。

 煽られたエセルバードは片目を細めると、まるで羽虫を潰すかのように易々と手に力をこめた。ますます狭められた気道に以緒の喉からうめき声がもれる。

「やめて! いおから手を離して!!」

 銀朱は悲鳴を上げながら、なりふりかまわずエセルバードの腕にしがみついた。力ではとうてい敵わないはずだが、意外にも彼はすんなりと手を緩めた。

「わたしといおは、あなたが疑っているような関係じゃないわ。だからいおから手を離して」

「そう言われても、この状況ではねぇ?」

 とりつく島もない返事に、銀朱はくちびるを噛む。たしかにエセルバードが疑惑を抱くのはもっともだ。しかし、このまま以緒への暴力を見過ごすつもりは毛頭ない。

「……それでも、わたしはちがうと主張するしかないわ。お願いだから、いおに暴力を振るわないで。この子から手を離して」

 だが、エセルバードが以緒を解放する気配は微塵もなかった。銀朱に対する同情の欠片も、その面には浮かんでいない。

「残念だよ、銀朱。君はもっと賢いと思っていたのだけれど、どうやら見当違いだったようだね。君が以緒を寵愛しているのはカリンからの報告で把握していたし、あくまで主従としての関係ならば僕も追及するつもりはなかった。けれど男女の関係となると話は別だ。僕はこれ以上身内に火種を抱える気はないんだよ」

 これ以上、とはどういう意味だろう――だが意味を咀嚼する前に下されたエセルバードの裁断は、銀朱を容赦なく打ちのめした。

「君はしばらくは謹慎、以緒は桐に帰ってもらおうか。一生顔を見ずに済むようにね」

「そんな……! 濡れ衣だって言っているじゃない!!」

「口ではどうとでも言えるからねぇ。それとも、何か証拠でも?」

 銀朱は息を呑んだ。証拠など――もし証明できるとしたら、ひとつだけ、ある。

 以緒も同じことを考えたのだろう。痛苦に顔を歪めながら、かすれ声で訴えた。

「……証拠ならございます。手を離していただければ、私がこの場で証明いたします」

「っ、だめよ、許さないわ!」

「銀朱様……」

「絶対にだめよ!!」

 たとえそれしか方法がないとしても、決して明かすわけにはいかない。ましてやこんなくだらない誤解のために人目に晒してよいものではないのだ。

 ふたたび口を開こうとする以緒を、銀朱は目で制した。瞬きすら忘れ、すべての神経を双眼に集中させて以緒を抑えつける。

 やがて涙が乾き、角膜がひりひりと痛みだしても、銀朱は瞬かなかった。譲るつもりはまったくなく、気力だけで以緒を制止しつづける。

 だが、ふたりの間に張られた緊張の糸を、ひとつのため息がぷつりと切断した。銀朱と以緒のやりとりを観察していたエセルバードは、あきれたように軽く首を振ると、あまりにも呆気なく以緒を解放した。

「しかたない。銀朱、君に証明してもらおう」

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