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クラウスが語り終えても、しばらくは誰ひとりとして口を開かなかった。だだ広い室内は気鬱な空気に満たされ、明るく華やかな内装が空々しく映る。
しじまはひたすら長く、その間クラウスは釈明もせずに待っていた。シグリッドも三人の王子も、それぞれ口を噤んで熟思に浸る。
やがてぴんと張っていた緊張の糸が弛みはじめた頃、マデュークが重いため息とともに沈黙を破った。頭を振ると小麦色の髪もふわりと揺れた。
「話にならない。見損なったぞ、クラウス」
兄上、と悲痛な弟の声に、それでもマデュークは態度を軟化させなかった。
「私は、おまえは何事にも真摯に打ち込む真面目な人間だと思っていた。そこがクラウスの長所であり、弟ながら尊敬できる点でもあった。だが、おまえは最も間違えてはいけない場面で過ちを犯した……おまえの今の告白は、同じ王太子候補である私たちを侮辱したも同然だ」
「……申し訳ありません」
「マデューク、あまりクラウスを責めてはだめだよ。クラウスはたしかに間違いを犯したかもしれないけれど、それを正そうとしているんだ」
見かねたシグリッドが間に入り、マデュークを宥める。興奮とともに怒らせた肩を落としつつも、彼の双眸から熱が失われることはなかった。
「……承知しております、父上。ですがこれは我々だけの問題ではありません。クラウスは主に宣誓までしたのですよ。もはや神を欺いたも同然です」
「ラスミアは心優しい御方だから、クラウスが正直に懺悔すればお許しくださるよ」
「父上。ラスミアがお許しくださっても、クラウスの罪が無くなるわけではありません」
「うーん……、そうだろうけどねぇ。でも、私はクラウスの誠意を尊重したいんだよ」
父親と長兄の間で展開する口論に対し、エセルバードは静観を貫くことにした。無理やり加わってもマデュークの不快を買うだけであり、わざわざ討論する価値も見いだせなかったのだ。当事者であるクラウスさえ差し置いて進む会話を聞き流しながら、エセルバードは思考を別の方向へ飛ばす。
やがてようやく存在を思い出したのか、マデュークが険しい表情のままエセルバードを睨めつけた。どこか上の空の異母弟に、彼は眉間のしわを深くする。
「おまえはどう思う、エセルバード」
全員の視線が集中すると、エセルバードは秀麗な笑みで返した。
「私は、クラウス兄上の決断に感服しました」
予想外の答えだったのだろう。虚を突かれた兄弟は、笑顔のエセルバードを呆然と見つめただけだった。
しかしシグリッドだけはかすかに首を傾げ、口元に微笑を浮かべていた。両腕を胸の前で組む姿は国王にしては頼りなく、威圧感も希薄である。だがその薄さゆえに抱く静けさが、父親の稟性なのだとエセルバードは思った。
「エセルバードはどうしてそう思うんだい?」
ゆるりと細められた榛色の双眸の奥で、ちらちらと愉快げな光が踊っている。爪の先で無遠慮に引っかかれるような不快さを覚えたが、エセルバードは無視に徹した。
「兄上がおっしゃったとおり、王太子候補ともなれば周囲の様々な私利私欲が裏で働いているものです。本人が把握しているよりも、ずっと広く深く係属しているでしょう。もはや自分ひとりの問題ではないことを、兄上も充分理解しておられる――それでもなお、すべてを無にする決断を下した勇気を、私はとても批難できません」
おそらくクラウスは、事前に両親や祖父に相談したはずだ。当然、侯爵は聞く耳を持たなかったにちがいない。
また、クラウスが退けば自然とジラの立場も厳しくなる。祖父にとって旗印であるように、母親にとっても息子は唯一の支柱なのだ。
――もし自分が同じ選択を迫られたら、はたしてすべてを捨てられるだろうか。
境遇はちがえど、エセルバードとクラウスが背負うものは同じだ。そしておそらく自分には難しいだろうとエセルバードは思った。手放したくともやすやすと降ろせる荷物ではないのだ。
「エセルバード……」
シグリッドの面から明るい色がみるみる失われていった。その豹変をエセルバードが怪訝に思うと同時に、ぼんやりと呆けていたマデュークがようやくくちびるを動かした。
「父上……、天変地異の前触れでしょうか……?」
「えっ、そうなの!? 長い長い反抗期がようやく終わったと感激していたのだけど……」
「……彼の場合、反抗期ではない気がするのですが……」
「じゃあ何か変な物でも食べたとか? 熱があるとか?」
「そういえば、何やら様子がおかしいと怪しんでいましたが……」
「ビセンテ、なぜ早く言わないんだい!? エセルバード、熱があるなら最初からそうと言わないと!」
「天変地異でも反抗期でも食中りでも熱でもありませんからご心配なく」
全員の疑惑をぴしゃりと否定しても疑いが晴れることはなく、胡乱な視線がエセルバードの全身をちくちくとつついてくる。まるで奇妙な生物にでも遭遇したかのような四人の反応に、彼は苛立ちを覚えながら反論した。
「私がクラウス兄上を擁護するのが、それほどおかしいですか?」
「だって、いつものバードならねぇ……。クラウスが立ち直れなくなるほどこてんぱんに叩きそうだなって、実は心配していたんだよ」
「私も、正直エセルバードには辛辣なことを言われるだろうと思っていました」
「なかなか酷いですね」
シグリッドとクラウスの返答を一蹴し、エセルバードは話を本筋へと戻した。
「そもそも、私たちがどれだけクラウス兄上を批難しようと、辞退すると表明した時点で兄上は候補者から除外されたも同然でしょう。即位する意志のない者を継嗣に選ぶほど、選出者も大愚ではないはずです。ここで兄上を責めても何の益もない。時間の無駄です」
「あー、うん。まぁそうだろうけどねぇ。それでこそエセルバードだよねぇ」
シグリッドはへらりと締まりなく笑った。何が面白いのか、エセルバードにはまったく理解できなかった。
しかし息子の不満を察することもなく、彼は頬を緩めたまま続ける。
「多分、クラウスの辞退は受理されると思うよ。手続きとか難しいことは枢密院と大聖堂側で話し合ってもらうとして、君たちが一番気にしているのはクラウスの今後の進退だろう?」
その一言で、弛んでいた空気がにわかに緊張した。当然ながら、誰もがクラウスの今後に関心があるのだ。
王太子候補を退いた者がそのまま王子として過ごせるほど、世間は寛容ではない。王族の身分を捨てた後、宮廷に残るのかそれとも一地方の領主に収まるのか――だがみずから退くことで選択の幅が広がるのは事実だ。
立太子できなかった者の未来はひたすら険しい。ふたつの道を天秤に掛けた上で、クラウスは辞退を選んだのだ。
これでどうしてクラウスを詰れるだろうか。もしかしたら、彼が兄弟の中でもっとも冷静かつ賢明な判断をしたのかもしれないのに。
クラウスは兄弟ひとりひとりと静かに視線を結んでから、おもむろにおのれの望みを口にした。
「王族から除籍されるのは覚悟しています。もし父上にお許しいただけるなら、どこかに領地を賜り、そこで静穏に暮らしていけたらと……そちらの方が私の身の丈に合っています」
「……宮廷には残らないのか」
兄の問いに、クラウスははっきりとうなずいた。
「私のような半端者が宮廷に居座り、諍いの種になっては申し訳が立ちません。社交もあまり得意ではありませんし、田舎暮らしにすぐに馴染めると思います」
そうか、と呟き、マデュークは言葉を無くした。
王座を奪いあう仲とはいえ、兄弟として育ってきた間柄だ。さまざまな想いが渦巻く胸に、一抹の寂しさがよぎるのも自然な反応だった。
「寂しくなるね……」
ぽつりとこぼれ落ちたシグリッドの嘆きが、虚ろに室内に響く。
「君は子どもたちの中で一番おとなしくて聞き分けがよくて、お母さん想いのやさしい子で。初めて狩りに行った時に、かわいそうだって猟銃を持つのを嫌がるぐらいだったねぇ……」
「よく覚えていらっしゃいますね、父上」
「そりゃあお父さんだもの。ジラのためによく花を摘んできたよね。……きっと、一番寂しがるのはジラだろうね」
クラウスの頬がぎしりと強ばり、今日初めて動揺したのがわかった。改めて生じた感情を抑えるかのように苦渋を滲ませて、彼は父親に頭を下げた。
「……どうか、母上をよろしくお願いいたします」
「大丈夫。私もディアンもよくわかっているよ。でも、たまには遊びに来るんだよ?」
「はい。ありがとうございます」
それからついと、彼はエセルバードへ顔を向けた。
クラウスは特別整っている容貌ではないが、人柄のよさがそのまま滲み出たかのような面には、煩悶と安堵がないまぜになって表れていた。細められた目元は、どこか眩しげでさえある。
「君に褒められるとは思っていなかったからうれしかったよ、エセルバード。兄上もビセンテもいまだに納得してないだろうけれど……本心がどうであれ、始祖の双眸を生まれ持った君がこの場で賛成してくれたことは、私にとって何よりの餞だ」
そこに憧憬が混じっていることに、クラウスは気づいているだろうか。ただ生まれ持っただけというのに――眼孔に嵌る瞳の色など無意味だというのに、それだけで崇める愚昧さに気づいているのだろうか。
「私の発言が、兄上の一助になるのなら本望です」
エセルバードは極上の笑みを贈った。彼が自分にイシュメルの断片を見ているのなら、誰よりも祝福するのがエセルバードの役目だ。
しかし、このまま何事もなく円満に事が収束するとは、とても考えられなかった。クラウスが崩した均衡がどのように傾くのか、どこからほつれが生じるのか。彼は駒の手綱を最後まで握っていられるのか。
鼓膜の奥で、狂風に煽られる葉擦れの音がけたたましく渦巻いた。続く遠雷に、うなじの産毛が逆撫でられる。
嵐の予感に、エセルバードは莞爾としたまま長いまつげを伏せた。




