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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第三章 秘め事
30/52

7

 エセルバードの元にその知らせを持ってきたのは、血相を変えたカリンだった。頬杖をついて領地からの報告書に目を通していた彼は、眉間のしわをさらに深くして騎士を睨んだ。だが、荒々しい足取りで入室した文句を言う前に、カリンが先に口を開く。

「――クラウス殿下が、王太子候補から辞退すると表明なさいました」

「まさか」

 否定がエセルバードの口をついたが、カリンは質の悪い冗談を言うような性格ではない。そうでなくても騎士の表情は真剣そのもので、疑う余地などどこにもなかった。

「まさか、あのクラウス兄上が……」

 今しがた署名しようと手にしたペンを置き、エセルバードは腕を組んだ。

 彼から見たクラウスは、よく言えば温和、悪く言えば従順な人物だった。両親を始め母の実家やおのれの支援者に反論もせず、ただ唯々諾々と操り人形のように振る舞うことしか知らない。立身出世を夢見る祖父の機嫌と内気な母の立場のために、自己犠牲を厭わないふしがあったのだ。

 そんなクラウスに国王になる意志が本当にあるのかエセルバードは常々疑問だったが、ようやくおのれの意志を貫いたのか。

「クラウス殿下にしてはずいぶんと思い切りましたねぇ」

 愉快げなアーロンの声に、エセルバードはあごを引いた。ふつふつとこみ上げてきた感情に、口角をつりあげる。

「僕が考えていた以上に彼は大胆だったわけだ」

 一度王太子候補に名を連ねた者が辞退した例は、今までにない。

 エセルバードは書類を机に叩きつけると、勢いよく立ち上がった。

「着替えを用意しろ。すぐに陛下からの使いが来るはずだ」

 カリンとアーロンにも予測できたのだろう、ふたりは女官に速やかに着替えの手配を命じた。

 やがて服装が整った頃、予想どおりシグリッドから招集がかかった。エセルバードは中央棟を経由して二階へ上がり、近衛兵が守る重厚な扉をくぐった。

 入ってすぐの控えの間に騎士を置き、侍従に先導されて奥へと進む。案内されたのは国王の居間で、普段は社交場としても使用されている場所だ。

 室内にはすでにシグリッドとビセンテ、騒動の中心であるクラウスが待機しており、エセルバードが姿を現すとそれぞれが異なる反応を見せた。

「いらっしゃい、エセルバード。好きなところに座っていいよ」

 シグリッドが笑顔を咲かせて歓迎した。広い室内には有り余るほどの椅子やソファが置かれていたが、国王を囲むように配置された中でビセンテが下座に着いている。すでに築かれている序列に従い、エセルバードは弟の隣を選んだ。

 悠然と腰を下ろすと、ちくりと針で突かれたような感覚が頬の皮膚に走る。原因を求めて右隣を見れば、怪訝な表情を浮かべたビセンテがいた。

「……何かおかしなことでもありましたか」

 指摘され、初めてエセルバードはいまだに笑んでいたことに気づいた。弟の不機嫌の理由を知り目を細めると、彼の碧眼も不審げに眇められる。

「ああ。とても面白い」

 ビセンテの眉間がいっそう狭められた時、長男のマデュークが息を切らして現れた。遅れたことを詫びる長兄に対し、シグリッドは椅子に座ったまま笑顔を消す。

「大丈夫かい? 顔色があまり良くないね」

「いえ、お気になさらないでください。急いで参りましたので、息が切れただけです」

「そうかい? 無理はしないようにね?」

 マデュークは生まれつき身体が弱く、一時は成人できないだろうと言われたほどだ。だが、シグリッドがあらゆる伝手を駆使して招聘した医師により、彼は見事に成人し人並みの身体を得た。

 努力の甲斐もあり、乗馬や剣技もそれなりにこなせるが、やはり健康体で生まれ落ちた他の弟妹に比べればどうしても体力は劣る。冬も間近なこの時季に、ひそかに体調を崩していただろうことは容易に想像できた。

 マデュークが席に着き、呼吸が整ったのを確認すると、さて、と早速シグリッドが口火を切った。

「全員の耳に入っていると思うけれど、クラウスが候補者から辞退したいと言ってね」

 兄弟の注目を集めたクラウスは粛然とうなずいた。落ち着いてはいるが、日頃まとっている日向のような和やかさはどこからも感じられない。

「クラウスが熟考した末に導き出した結論だから、私はどうにかして聞き届けたいと思っているけれど、何せ前例がないからね。選出者が認めるかは私にもわからない。……とにかくも、同じ候補者の君たちには理由を聞く権利があるだろう」

 シグリッドにうながされ、クラウスは一呼吸ののち、重たげに口を開いた。

「……元から、私は自分が国王にふさわしいとは思っていなかった。これ以上の過ちを犯す前に、おのれに正直になりたかったのです」

「馬鹿な、何を言っているんだ!」

 一蹴したのはマデュークだった。兄の批難に、それでも彼は不満も反発も示さなかった。その態度が怒りに触れたのか、マデュークを多弁にさせる。

「王太子候補に名乗りあげる時に、覚悟は決めたはずだろう。自分こそがこの国を治めるにふさわしいと――誰よりもヘリオスに繁栄をもたらすことができると、確固たる自信があったからこそ、立候補したのだろう? 少なくとも私はそうだし、おまえたちもそうだと当然のように信じていた」

 違うか? と話を振られ、エセルバードは肩を竦めた。弟の横柄な反応にマデュークの眉根が寄せられるが、あいにくエセルバードに兄の機嫌を気遣う神経は備わっていなかった。

「はい、私も兄上の仰るとおりです。異腹とはいえ、血の繋がりのある兄弟を追い落としてでも自分が玉座を得たいと思ったからこそ、女神の御前で候補者に名を連ねたのですから。――当時は同腹の弟が加わるとは予想だにしていませんでしたがね」

 嫌みと受け取ったのか、ビセンテは声に棘を含ませながらエセルバードの言葉を継ぐ。

「もちろん、私も覚悟の上です。生半可な気持ちでこの場にいるのではありません」

 太子を指名する選出者の名や、選ばれる具体的な条件が不明であっても、候補者の間で政争が絶えないのは世の常だった。

 立太子の叶わなかった者は自然と王位継承者から煙たがれ、王宮から追い出される運命だ。敗者を支持していた貴族も、宮廷での地位を失う。

 反面、王太子を支持していた者が得る権力は大きい。シグリッドの外戚である、コルトサード家が良い例だ。代替わりをした現在でも、侯爵家の発言力は衰えていない。

 それゆえに、家長の地位を得るために兄弟間で血を流すことはめずらしくなかった。実際にシグリッドも異母兄に刃を向けられた一人だ。

 家族愛を重んじるシグリッドは、同じ過ちをくりかえさないよう子どもたちに厳しく言い聞かせ、平等に愛を注ぐことで争いを回避してきた。しかし本人らが望んでも、環境がそれを許さないだろう。

 だからこそエセルバードを始めとした王子たちは、決意の末に女神に誓ったはずだ――たとえ兄弟の血にまみれても、と。

 ビセンテが王位を望んでいると知った時、両親は困惑したが、最終的には本人の意思を尊重した。始祖と同じ翠眼を授かった兄を持とうが、ビセンテにも王になる権利はあるのだ。

「そうだろう。それが当然だ」

 ビセンテの応えにうなずいたマデュークは、紙を握りつぶすかのようにみるみると顔を歪め、軽蔑と憤懣をもってクラウスを睨めつけた。

 兄弟の中で最も完璧主義であり理想主義者である彼も、虚弱な自分の肉体を呪い、血反吐を吐きながら病を克服した身だ。明かされた弟の不義に腹を立てても何ら不思議ではなかった。

「だがクラウス、おまえは違ったと言うのか? おまえは女神に偽りの誓いを立てたと認めるのか?」

「――はい。私は女神に虚偽の誓いを立てました」

 がつ、と骨が砕けるような不快な音に、エセルバードは片目を眇めた。音のした方を見れば、マデュークが肘置きに拳を載せて、ぶるぶると憤怒に震えている。おそらくさきほどのは拳を振りおろした音だろう。それでも収まらない激情は、硬い拳をさらに白くする。

「……クラウス。私にしたように、正直にすべてを話してごらん」

 シグリッドの提案にクラウスが首肯した。彼を責める苦い空気の中で、低音だが明瞭な声音でクラウスは語り出した。

「情けない話ですが……、私は母と祖父の期待に応えたかったのです」

 やはり、とエセルバードは自分の仮説が正しかったことを確信した。クラウスはおのれの意志ではなく、祖父を始めとした後見や支持者によって担ぎ上げられたのだ。

 もともとクラウスの生母ジラは、舞踏会で偶然シグリッドに見初められた侯爵令嬢だった。内気な娘の嫁ぎ先に頭を悩ませていた侯爵は、国王からの申し出に二つ返事でジラを嫁がせた。

 そしてジラに息子が生まれると、侯爵さえ知り得なかったひそやかな野望に、小さな灯火がついたのだ――田舎者と呼ばれる自分でも、第二のコルトサード侯爵になれるのではないか、と。

 ジラはシグリッドの妃の中では、最も出自が低い。だからこそ、クラウスへの期待も大きかった。

 肩身の狭いジラのためにもと、母想いの少年は勉学に励んだ。努力が結実し、少年が優秀だと噂が広まれば、それだけ支援者が集いジラの地位も安定した。同時に、侯爵の野心も肥えていった。

 すべては母親のためと自覚があろうとも、祖父の成長した功名心と母の境遇を鑑みると、クラウスは王太子候補に加わることを拒絶できなかったのだ――それがどれほどの裏切りであるか理解していても。

「ですが、これ以上偽り続けるのは不可能です。私自身が王にふさわしくないと考えていても、選出者がどのような基準で王太子を選ぶかは明確にされていない……万が一私が王太子に選ばれたら、恐ろしくてとうてい耐えられません。私はこの中で誰よりも国のために動いていないのですから」

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