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季節はずれの星座が昇りはじめる頃、銀朱は地上に赤い光を見た。ぽつぽつと灯るそれは、事前に隊商宿で待機していた者が用意したものだろう。小さな集落の中、高い塀に囲まれた敷地に入ると、数え切れないほどのたいまつが煌々と燃え盛っていた。
「お疲れ様でございました」
先に下馬した以緒が、鞍から降りるのを手伝う。だがとっさに足に力が入らず、銀朱はへたりと地面に座りこんだ。驚いた以緒が隣に膝を着く。
「銀朱様、いかがなさいましたか!?」
「大丈夫よ。少し疲れたみたい」
長い時間、馬に乗ったのは初めてだ。手を借りて立ちあがろうと奮闘するが、足腰はねじのはずれた人形のように使いものにならなかった。
「立てますか?」
「……無理みたいだわ」
何事かと、周囲の視線が集まる。羞恥と惨めさに、銀朱は顔を伏せた。しかし、両足はがくがくと震えて主を嘲るだけだ。とうてい立ちあがれそうにない。
「失礼いたします」
え、と思った時には、銀朱は以緒に抱えあげられていた。視線がいつもよりだいぶ高い。慣れない浮遊感に、あわてて以緒の首にすがりつく。
「お部屋までお連れします」
「……重いでしょうに」
「まさか。ご心配にはおよびません」
言葉どおり、以緒は軽々と銀朱を抱えて階段を上った。
この細い身体のどこにそんな力があるのだろう――不思議に思いながらも、自分の情けなさに顔が熱くなってくる。腕を回した首はすらりとしていたが、肩は細身ながらもしなやかな筋肉に覆われていて、あきらかにちがうのだと改めて思い知らされた。
案内された部屋は、寝台が二台に小さな机と椅子があるだけの簡素なものだった。前もって準備してあったのか、部屋は適度に暖かく、ランプにも明かりが灯っている。
椅子に下ろされて少しすると、洋がエセルバードの騎士を名乗った男の手を借りて部屋へ入ってきた。どうやら、彼女はなんとか自分の足で立てたらしい。
「水をお持ちいたしましょうか?」
騎士の質問に、銀朱はこくりとあごを引いた。洋を椅子へ座らせると、彼は慇懃に一礼してから退室する。
「おふたりとも、大事はありませんか?」
以緒の言葉に、銀朱は馬車の中で手首をひねったのを思い出した。途端に左手が痛み出したが、今まで忘れていたのだからたいしたことはないだろう。
「わたしは大丈夫よ。洋は?」
「わたしも大丈夫です」
「洋殿は頭をぶつけられていましたし、銀朱様は左手を痛められたようですが?」
「いお!」
ぎょっとして、銀朱は以緒を振り仰いだ。
「そんなことまでわかるの?」
「近くにおりましたから。隠さずにお見せください」
嘆息してから、銀朱は素直に袖をまくった。白くほっそりとした腕が、ランプの明かりの下に晒される。見た目には変化はないが、動かすとつきりと痛みが走った。
「騎士殿にお願いして、何か冷やす物を用意してもらいましょう。洋殿も腫れてはいないようですが、しばらく安静にしてください」
「いおは大丈夫なの?」
明るいところで見ると、以緒の衣服には点々と赤黒いものが散っていた。量からして本人のものではないだろうが、万が一ということもある。
「ありがとうございます。私は何ともございません」
何かあってもごまかす可能性が高いので、銀朱は慎重に守人の表情をうかがった。しかし騎士が戻ってきたために、それ以上探ることはできなかった。
「失礼いたします。お待たせいたしました」
盆には金属製の水差しと茶碗が載っており、彼は給仕のように水を注ぎ机へと置いた。腰に帯びた剣が、どこか不釣り合いに見える。
彼は水差しを置くと、銀朱の正面で流れるように両膝を着いた。ヘリオス式の最敬礼だ。
「さきほどは無礼を働きまして、大変申し訳ありませんでした。寿春様のご無事を確認するために、あのような行為に及んだまでです。決して他意はございません」
銀朱は、騎士が流暢な桐語を操っていることに気づいた。思い返せば、以緒が誰何した時から桐語だったかもしれない。あまりの緊張に気づかなかったのだ。
「……少し驚いたけれど、こうして隊商宿まで無事に連れてきてくださったのだから、咎めるつもりはありません。おかげで助かりました」
悩んだが、銀朱も桐語で返す。
「ご温情、感謝いたします」
騎士が深く頭を垂れる。栗色の髪がこめかみからこぼれた。
「改めまして、エセルバード・フィッツァラン王子の騎士を拝命しております、カリン・レノックスと申します。このたびは寿春皇女様のお目にかかれ、恐悦至極に存じます」
二度も名乗られ、こうして身を守ってくれたのだから、疑う必要もないだろう。エセルバードの騎士が遣わされると銀朱は耳にしていないが、以緒がヘリオスの者と判断したのなら間違いはない。
「どうぞ立ってください。レノックス卿は、どうしてここへ?」
カリンは恐れいります、と断ってから立ちあがった。ひとつひとつの動作に無駄がなく、よく洗練されている。よほどいい家柄の出なのだろう。整った顔立ちからは誠実そうな印象を受けた。
「カリンとお呼びください。私はエセルバード殿下の臣下でございますから、殿下に嫁がれる寿春様にもお仕えする立場です。どうぞ、普段どおりにお話しください」
騎士は守人のような存在で、ヘリオスの王族はたいてい一人はつき従えている。唯一異なる点は、彼らは王族の護衛だけでなく、補佐も務めるということだ。ただの従者である守人とはちがい、王宮内でもそれなりの地位を確立している。それだけ重要な存在なだけに、銀朱はどう対応すればいいのか判断しかねていたので、カリン自身が申し出てくれたのはありがたかった。
「では、カリンはどうしてここへ?」
「エセルバード殿下に命じられて、寿春様のお迎えに参じました。ビリジェで拝謁を賜るつもりだったのですが、盗賊の話を聞きまして兵とともに駆けつけた次第です。ご無事で安堵いたしました」
「そう……改めて礼を言うわ」
「もったいないお言葉です」
もし、ビリジェの兵が合流していなければ、こうも簡単に宿まで辿りつけなかっただろう。以緒の腕は確かだが、カリンが馬車に近づけたということは、以緒が側を離れる必要があったということだ。手首をひねるだけで済んだのは幸運だったのかもしれない。
「不躾を承知でうかがいますが、そちらの方々は……」
カリンの問いに、銀朱は無意識に押さえていた左手首から、さりげなく手を離した。彼の目は、銀朱の背後に控えた以緒へと向けられている。
「桐から連れてきた侍女の洋に、守人の以緒よ。……守人はもうひとりいるのだけれど、まだ追いついていないようね」
姿を見かけないが、未良もそう簡単に力尽きる質ではない。すでに四十路近いが、剣の腕は皇太子にも一目置かれるほどである。主が渦中にいないのを知ったならば、すぐに戦地を離れて追いかけてくるだろう。
すると、今まで口を閉ざしていた以緒が、深々と頭を下げた。
「先ほどは、大変失礼いたしました。夜目は利くつもりなのですが、星明かりだけでは賊と判別がつかずあのようなことを」
「いえ、守人として当然の行いだと思います。見事な太刀筋でした」
以緒は確実に首を狙っていた。ほんのわずか、手元が狂えば命を奪われていたかもしれないのに、カリンは責めることなく笑みを浮かべただけだった。
「頭を上げてください。それより、どうして私がヘリオスの者だとわかったのですか」
以緒は顔をあげると、淡々と質問に答えた。
「隊列のヘリオスの方々と同じ種類の服を着ていらっしゃいますし、徽章が見えましたので、おそらくそうだろうと判断しました」
カリンは黒い外套をはおっていたが、その下は筒袖の上着に細身のズボンという、銀朱もよく知るヘリオス風の服装である。言われてみれば、左胸には太陽と月を象った金の徽章がつけられていた。細工からして模造品ではないのが見て取れる。
なるほどと、カリンは納得したようにうなずいた。
「瞳が青いのですね。桐の方々は一様に髪も瞳も黒いと聞いておりましたが……」
「たまに、私のような者が生まれる家系なのです」
以緒がそっけなく返す。今度はカリンが謝罪する番だった。
「不快に思われたのなら申し訳ない」
「いえ、事実を申したまでです。ところで、お尋ねしたいことがあるのですが」
「何でしょうか?」
「銀朱様と洋殿がお怪我をなさったのですが、ここには何か冷やすものがありますか」
カリンは灰色の双眸をわずかに瞠った。
「それは気づかず、失礼いたしました。大事はありませんか?」
「ええ。軽くひねっただけよ」
痛みはまだ続いているが、激痛というほどでもない。銀朱としてはこのまま放っておいてもいいのだが、以緒やカリンにとってはそうはいかないようだった。
「ここには医師や薬師はおりませんが、多少の医術の心得を持つ者はおります。すぐに準備してまいりますので、もう少々お待ちください」
そう告げると、カリンは素早く退室していった。銀朱は守人の顔を見上げた。
「本当に大丈夫よ」
「そうはまいりません。大切なお身体ですから」
気遣わしげに眉尻を下げる様子は、無表情だった今までとは別人だ。以緒は、銀朱に対してはいつも物腰やわらかに振る舞う。洋や未良とも古い知りあいなので冷たく当たることはないが、それ以外の他人となると冷淡である。性格というより、他人に興味がないといった方が近いかもしれない。
銀朱は喉に生じたつかえを水で流しこんだ。時間が経ってしまったせいか、すでに生ぬるい。
その時、階下から蹄の音と馬のいななきが聞こえてきた。何人か新たに到着したらしい。まもなく部屋の扉が叩かれ、壮年の男が現れる。未良は主の顔を確認すると、肩から大きく息をついた。
「ご無事のようで。お姿が見えず、肝を冷やしました」
よほど動転したのか、埃に汚れた表情はまだ硬い。その背後にはルッツが続いていて、銀朱と視線が合うと微笑をこぼした。
「ご無事でなによりです。カリン殿からお怪我をなさったとうかがいましたが、ご容体はいかがですか」
ルッツのうしろには、盥を持った兵とカリンが待機していた。なにやら大事になってしまい、銀朱の胸に苦いものが広がる。
「たいしたことはないわ。手をひねっただけで、腫れてもいないわ」
「万が一のことがございます。満足な薬もございませんが、治療をお受けください」
ルッツにうながされ、銀朱はしぶしぶ左手を兵に見せた。
あらゆる方向へ曲げたり回転させたりした末、筋を痛めただけだろうと兵は診断した。洋も気分が悪い様子はなく、おたがい患部を冷やす程度で済む。だが、以緒が重傷人のように処置をしてくるので、銀朱は大げさだと言ってやりたくなった。
「賊の追討は順調に進んでおります。すでに壊滅的な被害を与えておりますので、じきに捕縛が完了するでしょう。お荷物もすみやかに回収しておりますのでご安心ください」
ルッツの報告に、そう、と銀朱は相づちを打った。
荷に執着はないが、正装だけは失っては困る。国王や王子の前に進み出るときに、埃まみれの長袍を着るわけにはいかないのだから。
「馬車も無事に回収できると思います。特に不備がなければ、今後もお使いください」
「わかったわ。ありがとう」
馬車が使えるのはとても助かる。馬から降りるたびにへたりこんでいては、ヘリオスに着くまでに銀朱の自尊心は持たないだろう。
銀朱がひそかに胸を撫でおろした時、ルッツはさっと素早く膝を着いた。背後でカリンと兵がそれに倣う。
「このたびは、大変申し訳ありませんでした。ひとえに我々の危機管理不足が招いた事態です。どのようなお叱りも受ける覚悟でございます」
叱るも何も、と銀朱は内心思う。自分はそんな立場にはないし、権限も持たない。
たとえ銀朱がルッツに責任を求めても、彼はヘリオス国王から与えられた仕事をまっとうするだけだろう。国王に訴えれば彼の首は飛ぶかもしれないが、そんな悪趣味を銀朱は持たない。
「……さっきカリンにも言ったけれど、あなたたちを咎めるつもりはないわ。盗賊には警戒していたのだし、こうして無事にここまで辿りつけたのだから、こちらが礼を言う立場よ。これからも、ヘリオスまでよろしく頼むわ」
――そうだ。彼らの手を借りなければ、自分はヘリオスに行くことさえできないのだ。
「もったいないお言葉です。我が身を賭しましても、必ずやアストルクスへお連れいたします」
銀朱の胸中に気づくはずもなく、彼らはさもありがたそうに頭を垂れた。
無意識に、左手に添えられた守人の手を掴む。水に濡れたせいか、ひやりとした手が銀朱の心をいくばくか落ち着かせた。
「……おそれながら、銀朱様はお疲れのようです。明日はいかがなさるのですか?」
以緒の問いに、ルッツが顔をあげて応じた。
「夜もだいぶ更けておりますし、荷の回収がございますので、明日はこちらに留まることになるかと思います。どうぞごゆっくりお休みください」
失礼いたしました、と詫びてから、彼らは静かに辞去した。扉が閉まると同時に、銀朱の肩からどっと力が抜ける。
「銀朱様、大丈夫ですか」
銀朱は小さくうなずいた。このまま眠りこけたい気分だった。
「……私の落ち度でございます。申し訳ございませんでした」
「何が?」
隣に屈んだ以緒の頬を、朱色の光がてらりと滑る。銀朱の目線より低いため、影が濃く落ちて見えた。
「銀朱様のお側を離れました。騎士殿だからよかったものの……あれが賊だったらと思うと生きた心地がいたしません」
「以緒」
名を呼ぶと、守人は伏せていた顔をはっと上げた。
「わたしは誰かを責めたいわけじゃないのよ。盗賊なんて不可抗力でしょう。無事だったのだからいいじゃない」
「ですが……!」
「もう終わりよ。休むわ」
そう告げれば、忠実な守人が反論するわけがなかった。布を水に浸し直して銀朱に手渡すと、慇懃に挨拶をして未良とともに立ち去る。ふたりの気配が遠のいてから、銀朱は大きくため息をついた。
「銀朱様、痛みますか?」
「ちがうわ。気にしないで」
傷が痛むわけでも、身を襲った恐ろしさに戦いているわけでもない。たしかに恐怖を味わったが、いつまでも引きずっていては前には進めない。
ただ、あまりの無力さをまざまざと見せつけられた気がしたのだ。自分で決意して桐を出たのに、結局は周囲の力に頼って生きている。以緒の助けが無ければ、馬という移動手段でさえ使えず、洋がいなければ自分の世話も覚束ない。行程はすべてルッツが管理しているので、銀朱はおおよその予定を聞かされるだけで、用意された流れに乗るだけでいいのだ。
思いあがっていたわけではない。ちっぽけな人間だということは理解している。だが、改めて突きつけられると生傷を抉られるようだった。
「……洋も疲れたでしょう? もう休みましょう」
ええ、と洋が首肯する。埃に汚れた上着を脱いで、ふたりは寝具へ潜りこんだ。
ランプの明かりが消えると、視界は漆黒に満たされる。何も無い虚空を睨みながら、銀朱はくちびるに歯を立てた。
――それでも、いまさら後悔も感傷にひたることもできないのだ。自分はもう引き返せないところまで来たのだから。