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そんなのひどいわ、とシルエラが愛らしいくちびるをつんと尖らせた。白金色の巻き毛が風に揺れ、星屑のようにきらきらと光が瞬く。
「お兄様ったら、そういうところは頭がお堅いのよね。五日ぐらい出かけても問題ないのに」
予想以上の怒りを示した王女に、銀朱は微苦笑で答えた。シルエラはそうとう不満らしく、菓子にも手をつけずに兄への文句を連ねている。
「シルエラ、あまり怒ってばかりいてはだめよ。お兄様にはお兄様の考えがあるのだから」
紅茶で満たされたカップを手に、ディアンが娘をたしなめた。それでも王后の顔に浮かぶのは愛娘に対する純粋な愛情だけだ。
夏の祭でシルエラが提案した三人での茶会に、銀朱は招かれていた。銀朱も住まう棟の東側に連結して建つ、石造りの塔の一室である。この建物は国王と王后しか自由に立ち入れない私的空間で、塔にいる間はふたりは公人の立場から解放されるのだ。
それほどの奥部に招かれたことに、銀朱は畏縮せずにはいられなかったが、ディアンは誰にも邪魔されなくていいと機嫌よくふたりを部屋へ連れこんだのだった。
意外なことに内装は表に比べると質素で、壁を埋める絵画のかわりに毛織りのタペストリーが一枚飾られているだけだ。銀朱が圧迫感を覚える天井画も、どこか落ち着かない豪華な家具もなく、木を多用した内装にぬるい安心感を覚える。庭園で摘んできたのか、暖炉の上の花が清楚な彩りを添えていた。
「……でも、お姉様がかわいそうだわ。今年のバラは今年だけだもの」
母親に諫められて身体を竦ませつつも、シルエラは銀朱への同情を続けた。彼女は頻繁にこの部屋を訪れているらしく、身内だけなのもあってすっかりくつろいでいる。
「たしかに新年の儀式は大切だし、とても疲れるけれど、それでもまだふた月半はあるもの。お姉様ならきっと問題なくお役目をはたせるはずなのに」
「……ありがとう。でも、殿下が決めたことだもの。しかたがないわ」
銀朱はそっと睫毛を伏せ、物憂げな表情を作った。シルエラの視線は感じていたが、悄然としているのをわざと隠さずに顔をうつむける。
――うまく繕えているだろうか。
不安は両手で抱えるほどあるのに、自信は爪の先ほどもなかった。ふたりの様子を少しでも感知しようと、神経が針のように鋭く尖っていく。耳のうしろあたりの皮膚がぴりぴりとして痛いほどだ。
ゆっくりと、何度も銀朱は瞬いた。焦りが隠せず、つい自分の指先を撫でてしまう。
やがて重い沈黙に銀朱が後悔を覚えはじめた時、シルエラがずいっと身を乗り出した。
「お姉様!」
いきなり鼓膜を叩いた少女の声に、銀朱は飛び上がりそうになった。実際、わずかに尻が座面から浮いたが、何層にも重ねた布のふくらみに隠れて誰も気づかなかっただろう。
銀朱の両手を握りしめ、膝がぶつかるぐらい接近してくる王女は、榛の瞳を夏の小川のように輝かせていた。少女らしいまろやかな頬はバラ色に染まり、今にも興奮が身体の内側から弾けそうだ。
「お姉様、わたくしと一緒に離宮へ行きましょう!」
「――離宮?」
「そう。お姉様がアストルクスに入る前にお泊まりになったところよ。あそこの庭もとても素敵なの」
どうやらシルエラは、銀朱への同情と義妹としての使命感を覚えたようだった。
離宮と言われても、銀朱の記憶にはひたすら続く広大な敷地しか残っていない。王宮入りの身支度と緊張で、造りを気にする余裕などなかったからだ。
しかしシルエラによると、建物の裏には噴水を設けた庭園があり、少し離れた場所には生け垣で迷路が造ってあるという。森へ向かえば黄葉が始まっているはずだ。
「たしか、あそこにも蔦バラの隧道があったわ。迷路も楽しいの。お姉様、迷路で遊んだことはある?」
いいえ、と銀朱は首を振った。迷路自体が銀朱には未知のものだ。
「それなら一緒に入ればいいわ! わたくし、あそこの迷路は何度も遊んだことがあるから自信があるの。安心して、お姉様!」
息巻く王女に気圧されつつも、銀朱はあごを引いて同意を示した。しかし、興奮するシルエラを宥めるように、落ち着いた女性の声が水を差す。
「シルエラ、勝手に決めてはいけないわ。お兄様におうかがいしないとだめよ」
少女はわずかに頬をふくらませながら、ディアンの方を振り向いた。
「でも、お兄様に言ったらきっと反対するわ。ご自分のお屋敷でもだめなんだもの」
「けれど、ねぇ……」
「ねえ、お母様。お母様がお許しくださったら、きっとお兄様も反対なさらないわ。お願いお母様、お姉様と一緒に離宮へ行かせて?」
ディアンはたおやかな手を頬に添え、細くため息をついた。事のなりゆきに戸惑っている素振りを見せながら、銀朱は彼女の様子を注視する。
シルエラに助勢した方がいいだろうかと考えたが、何かをねだる行為に銀朱は慣れていなかった。エセルバードに対しても失敗したのだから、黙っていた方が賢明だ。ただひたすら平静を装い、暴れる心臓の鼓動を悟られないよう願うしかない。
「お母様、お願い」
娘の何度目かの懇願に、ディアンはふたたびため息をついた。しかたがないわね、と軽く首を傾げながらつぶやく。
「エセルバードにはわたくしから話すわ。ふたりで楽しんでいらっしゃい」
「ありがとう、お母様!!」
シルエラは歓声を上げながらディアンに抱きつき、感謝の接吻を贈った。その行為に瞠目する銀朱へも満面の笑みを向けてくる。
「一緒に庭を散歩しましょうね! すごく楽しみだわ!!」
ええ、とうなずき返してからディアンをうかがえば、彼女もなごやかに微笑んでいた。純粋に、シルエラのために許したと判断していいだろう。
銀朱の視線に気づいたのか、ディアンと目が合い、彼女は気まずげに目を伏せた。
「ありがとうございます。わがままを言って申し訳ありません」
「あら、いいのよ。シルエラもとても喜んでいるし、エセルバードはわたくしがうまく説得するから、気にせずにゆっくりしてくるといいわ。銀朱はヘリオスへ来てからずっとがんばっているもの。たまには休暇が必要よ」
「そうよ、お姉様も遊ばないとだめよ」
自分の席に戻りながらシルエラが呼応する。水を得た魚のように生き生きとしている少女に曖昧な笑みを返しながら、銀朱はそろりと全身の緊張をほどいた。ひとまず、第一の目標は達成できたようだ。
「ありがとう。それと……もうひとつ、わがままを言ってもいいかしら」
シルエラが小鳥のように首を傾げる。
「桐から連れてきた従者にも庭園を見せたいの。はるばるヘリオスまでついてきてくれた忠義者だから、たまにはそれに応えないと――」
「もちろん、連れていきましょう!」
銀朱がすべてを言い終わる前に、少女は賛同の声を上げた。つぶらな瞳にはいつのまにか銀朱への敬愛が滲んでいる。ころころと変化する表情に、こちらが眩暈を覚えそうだ。
「お姉様、従者にまで気を配るなんてご立派だわ。なんて素晴らしいのかしら! お姉様みたいな素敵な方がわたくしの家族になってくださるなんて、シェリカ様に感謝しないといけないわね」
慣れない賛辞に頬が引きつったが、銀朱はなんとか微笑を保った。物心ついた時から愛想というものを知らなかったため、すでに顔の筋肉は限界に近い。しかし、その分成果を得られたので満足もしていた。
エセルバードにすげなく断られた後、代案として銀朱が思いついたのがシルエラとの外出だった。ちょうど茶会の誘いがあったのを思い出したのだ。罪悪感がないわけではなかったが、他の方法はひとつも浮かばなかった。
この機会を逃したら二度目はないだろう――その焦りが昨日から熱病のように銀朱を苛んでいたが、ようやく全身が軽くなる。
「でも、なるべく早く行かないといけないわね。のんびりしていたらそれこそ儀式に差し障ってしまうでしょうし……来月の礼拝はいつだったかしら?」
ディアンの問いに、銀朱は記憶を探った。
すでに二回役目を終えているので、次は三日月――暦で言えば来月五日が礼拝の日だ。まだ半月はあるが、それを過ぎてしまうと本格的に忙しくなり身動きが取れなくなるだろう。
「それなら、今月中に行きましょう? のんびりしていたらバラも終わってしまうもの」
シルエラは嬉々としながら計画を立て始めた。まるで新しい玩具を手に入れた子どものように、やりたいことを無邪気に列挙していく。
銀朱はそれに適当に相づちを打ちながら思索に耽った。あとは、ディアンがうまくエセルバードを説得してくれるのを祈るだけだ。
国の管理下にある離宮の警備は厳重だろうが、あれだけ広大な敷地ならばどこかに抜け穴があるはずだ。夜陰に紛れて姿を消せばそう簡単に足取りは追えないだろう。馬は苦手だが文句を言っている余裕はない。我慢して以緒に同乗するしか――。
「お姉様。帰ってきたら今度は新年のドレスを決めましょうね!」
はっ、と沈んでいた思考が浮上する。シルエラの屈託のない笑顔に、なぜか胸のあたりがつきりと痛んだ。
――わたしはこの少女を騙すのだ。
騙す、と明確に言葉にしたとたん、銀朱の足下から罪悪感が寒気となって這いあがってきた。
シルエラだけではない、エセルバードもだ。彼がもし銀朱の裏切りを知れば、おそらく瞋恚の炎に燃えるだろう。とうてい銀朱に鎮められるはずがない。
――許してもらう必要など、どこにもないのに?
どうして許してもらおうなどと考えているのか。二度と関わらない相手の怒りを買っても、銀朱には何ら問題はないはずだ。なのになぜ、自分はエセルバードの怒りを恐れているのだろう?
馬鹿げている、と銀朱はおのれへの問いを無理やり追い払った。たとえ相手の厚意を理解していても、出会ってまだ三か月ほどの他人に何の情を抱くというのか。
「……ええ、そうね」
銀朱はうなずいたが、おそらくその日は来ないだろうと思った。
むしろ来てもらっては困る――離宮に滞在している間に、銀朱は以緒とともに出奔するのだから。計画が破綻するなど、決してあってはならないのだ。
からからに渇いた喉を湿らせるための水分を求めて、銀朱が手を伸ばした時だった。女官が来客を告げ、すぐに扉の影から剣を帯びた男性が現れた。
灰色の軍服は騎士のもので、撫でつけた髪には白髪がちらほらと混ざっている。背は中背で、シグリッドと同じぐらいの年齢だろうか。
どこかで見たことがある気がしたが、銀朱には思い出せなかった。男は数歩進むと、片手を胸に添えて恭しく頭を垂れた。
「ラナド、お父様とお仕事ではなかったの?」
シルエラの問いかけに顔を上げた男の表情は、柔和という表現がぴったりだった。軍人にしては線が細く、文官か芸術家の方が似合いそうな風貌だ。シルエラに注ぐまなざしには愛情がこもっており、まるで親類のような近しさがある。
「はい。今日も陛下のお守りです」
「お守りだなんて、お父様はもう立派な大人よ?」
「ああ見えても、中身は子どものままなのですよ。私が側にいないと寂しいと泣くんですからね」
男の冗談に、シルエラがころころと笑声を上げる。
ふたりの会話に、銀朱は男の正体を思い出した。シグリッドの騎士、ラナド・スニエクスだ。
国王の騎士ならば、王宮の最奥部とも言えるこの建物にも難なく足を踏み入れられるのも、シルエラと冗談を交わすほど親しいのも納得がいく。彼はシルエラが生まれた時から、当然のように側にいたのだ。
ラナドは銀朱の視線に気づくと、にこりと笑みを返してきた。訳もなく気まずかったが、目を逸らすのも不自然なのでそのままラナドを観察する。
「ご無沙汰しております、銀朱様。こちらの生活には馴染まれましたか?」
「ええ……おかげさまで……」
「それは安心しました」
朗らかな笑みは人好きのするものだった。しかし銀朱には苦手な類だったので、わずかに怯んでしまう。あけすけな好意を向けられるのは慣れていないのだ。
「ラナド、何か用があったのではないの?」
ディアンの問いに、ラナドは用事を思い出したようだった。解放された銀朱は影でそっと息をついた。
「そうでした。陛下からディアン様に、言づてを預かってまいりました」
「わたくしに?」
「はい。失礼いたします」
ラナドはディアンのかたわらに歩み寄ると、小さな耳殻に口を寄せて何かを囁いた。
短い伝言が終わるとともにディアンの目元がふるりと震える。時間の流れが停滞してしまったかのように、彼女はゆっくりと睫毛を持ち上げた。金糸の影にあった双眸は、いつか銀朱が見た真冬の湖水に変化している。
「……それは本当?」
はい、とラナドが首肯する。
「お母様?」
シルエラが呼んでも、ディアンは難しげに眉根を寄せて黙していた。何があったのか銀朱も気になるが、声をかけるのさえためらわれる。
彼女は口元に手を添えてしばらく沈潜していたが、やがてかすかに朱唇を開いた。
――残念だわ、と音もなく呟いたような気がした。




