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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第三章 秘め事
28/52

5

 桐までの長旅の支度を調えると、使節団はヘリオスからの書状と贈呈品を携えて帰路へ旅立っていった。

 舞踏会で口論したきり、銀朱が使者と顔を合わせる機会は一度もなかった。はたして彼は以緒から手紙を預かったのか――守人を問い質そうとしても怖気づいてしまい、結局切り出せないまま時間は過ぎていった。

 律儀にもディアンは銀朱の母親へ手紙をしたためた。女性らしい優美な筆跡でヘリオスや銀朱の様子を懇切丁寧に語り、銀朱を育てあげたことへの感謝も述べている。そして、最後は何も心配しなくてもいいと、紗手さてへの気遣いで結んでいた。

 一方の銀朱は、結局白紙の便箋を封筒に入れただけだった。どうせ紗手の手元には届かないので、何ら問題はないだろう。

 使節団が去った数日後、銀朱はめずらしく自分からエセルバードを訪ねた。

 王子の自室は銀朱の住む建物の向かい側、北に面した棟の一階中央あたりにあり、真紅の壁紙と幾枚もの油絵を飾った王宮内では典型的な内装だった。肖像画ではなく風景画が多いのは、エセルバードの趣味だろう。暖炉を備えた広い居間の片隅にはくるみ材の書き物机が置いてあり、そこで処務を行っているのだろうと察せられた。

 事前に騎士を通じて来訪を伝えてあったので、応接用の円卓にはすでに茶と菓子の準備が整っていた。

 エセルバードに迎えられ席に着くと、すぐに女官が茶を注ぐ。温めたミルクや砂糖壺も並んでいたが、エセルバードが使うばかりで銀朱は目もくれない。

「銀朱から訪ねてくるなんてめずらしいね。何かあったのかな」

 ええ、と曖昧に相づちを打ち、銀朱は紅茶で口を湿らせた。

 緊張のせいか、喉がからからに渇いていた。味のしない液体を食道に流しこみ、白磁のカップを机に戻す。

「……大祭の前に連れていってくれた屋敷に、また行きたいの」

 エセルバードは突然の申し出に驚きもせず、カップから口を離すと理由を問うた。銀朱は彼の視線を受け止めながら、なるべく冷静に答えた。

「秋バラが見事だと、以前アーロンから聞いたわ。ちょうど今が時期でしょう?」

「ああ……そうだね。ちょうど見頃かな」

 エセルバードは翠眼をわずかにそらし、記憶をたどる素振りを見せた。あまり興味がないのか、暦を忘れていたのか、反応は薄い。

 銀朱がバラについて知ったのは、夏の祭が終わり桐の使者が来るまでのわずかの間、王宮の庭園を散歩していた時だった。

 宮殿の正面に広がる庭園は宮廷人に開放されているが、裏側の広大な庭や森は王族専用である。周囲の視線に気を遣わずにいられるので、散策は銀朱にとって数少ない娯楽のひとつだ。

 召し抱えられた庭師の手による庭園は、剪定が隅々まで行き届き、理想とする造形からわずかでも逸脱することは許さない。枝葉のひとつも飛び出していない生け垣はまさに執念の賜物だ。

 その技術と費やされる手間は称賛に値した。しかし、今まで養ってきた銀朱の趣味からすると、屋敷の野趣残る庭の方が好ましいのだ。

「静かでとてもいいところだったから、今度はゆっくり滞在して楽しみたいの。……だめかしら?」

 エセルバードはカップを持ったまま思案に暮れていた。快諾すると読んでいた銀朱にとっては思わぬ誤算だった。

「……君があの庭を気に入ってくれたことはうれしいけれど、今の時期に長く王宮を空けるのは難しいかな」

 戸惑う銀朱と目が合い、エセルバードはふと微笑を浮かべた。自然とこぼれ出たような、やわらかい笑みだ。

 最近では、彼が作る表情が建前なのか本音なのか、銀朱は何となくではあるがわかるようになっていた。今は何の仮面も被ってはいない。

「これから新年に向けて、大量の処務をこなさないとならないからね。式典の準備も手間がかかるんだ」

「あなたが忙しいなら、わたしだけでもだめかしら。一度行ったことがあるし、あなたの屋敷なら安心でしょう?」

 食らいつく銀朱に、今度は苦笑がもれる。

「銀朱も新年に向けて多忙だよ。君は初めて年越しの儀式に参加するから、事前に身体を慣らした方がいいだろうしね」

「どういうこと?」

「ちょうど伝えようと思っていたところだ。いい機会だから説明するよ」

 そう言うと、エセルバードはカップを机上へ戻した。空いた両手を胸の前で組み、背もたれに体重を預ける。

「桐と暦は大体同じだと聞いているから君もよく知っているだろうけれど、一年でもっとも日の短い冬至が大晦日にあたる。衰えた太陽が地平線に沈み、ふたたび地上に現れるまで、太陽の復活を願い大聖堂に籠もるのが王族の役目だ。一晩中無言で祈りつづける礼拝のために、数日前から口に入れる物も制限されるし、大聖堂に一歩足を踏み入れた瞬間から水でさえ取ることはできない」

 〈太陽ヘリオス〉を名乗る一族として、衰萎した太陽の復活は極めて重要であり、そのために身を潔斎して礼拝に臨むのが古くからの彼らのしきたりだった。

 沈黙の礼拝とも呼ばれる時間は、火急時以外いっさい物音を立ててはならず、深い沼の底に大聖堂ごと沈んだような静寂は自分の鼓動や呼吸音でさえ耳障りに聞こえてくるほどだ。慣れない者が礼拝の直後に気絶するのは、すでに慣習となっている。

「しかも日の出とともに王宮に戻れるわけではないからね。その後も儀式は続くから、戻ってきて食事や仮眠を取れるのは例年昼頃かな。夜は当然祝宴が行われるし、年が明けてから少なくとも三日はゆっくりと眠れないだろう」

 だから銀朱は心身ともに鍛える必要があると、エセルバードは説いた。話を聞くだけで疲れを覚えるが、約二か月もかけて備えなければならないほど大ごとなのか。

 しかも礼拝の流れやしきたりについて、銀朱はまったく知識を持たない。行事にはつきものだが衣装も誂えなければならないし、エセルバードの言うとおり課題は山とあった。

「あなたの言いたいことはわかったわ。でも、どうしても見たいのよ。戻ってきたら必ず埋め合わせるから、せめて五日間だけでも行かせてくれないかしら」

「五日でも僕としては惜しいかな。銀朱の気持ちは尊重したいけれど、今回は諦めてくれないかな」

 ぐっ、と口紅を差したくちびるに前歯を立てる。腿の上で重ねた手のひらには、すでにじっとりと汗が滲んでいた。

「……わがままを言っているのはよく理解しているわ。それでも、どうしても諦められないの。お願いだから行かせてちょうだい」

 ほんのわずかに触れただけで崩れそうなほど、銀朱の訴えはもろく響いた。しかし、いくら触れようとも崩せない芯が、中心には通っていた。

 上目遣いですがるように見つめる銀朱に、エセルバードは顔から甘やかな色を消す。

「……正直に言うと、君に新年の儀式で倒れられては僕が困るんだ。礼拝中は手助けできないし、何か不測の事態が起きれば、僕の顔にも君の顔にも泥を塗ることになる。お互いのためにもそれは避けたい」

 返す言葉が見つからず、銀朱は口をきつく結ぶしかなかった。

 普段の夜会や晩餐とは話がちがうのだ。いまだ社交に馴染めない銀朱に釘を刺すのは当然だろう。

 だが、銀朱はエセルバードの意見にうなずきはしなかった。同意も反論もせず、ただ頑なにうつむいている。

 まるで子どもが駄々をこねているようだと自覚していても、銀朱にはそれ以外の方法がなかった。彼が垣間見せた素顔に甘えるしかないのだ。

 揺らぐことのない無言の抵抗に、やがてエセルバードが息をついた。軽く首を振ると、前髪も左右にふわりと揺れる。

「来年は必ず見に行こう。約束するよ」

「っ、今でなければ駄目なのよ!!」

 悲鳴のような声が銀朱の喉から迸った。突然の叫びに、しかし室内の誰よりも銀朱が驚いていた。

 すぐに我に返り、瞠目するエセルバードから顔を背ける。銀朱の白いかんばせから血の気が引き、真っ青になっていた。

「……桐の使者と会ってから、様子がおかしいね。何かあったのかい?」

「何でもないわ」

 口早に遮る様子は、どう考えても普通ではない。

 銀朱の拒絶に、翠緑の瞳がかすかに眇められるのを感じた。それでも口を閉ざし、エセルバードの探るような視線と神経を削る沈黙に、拳を握りしめて耐える。

 息が詰まりそうな重苦しい静寂のあと、何かを思いついたかのように、エセルバードがくちびるを動かした。

 だが、舌に音を乗せる前に、彼のものではない声が鼓膜を打った。

「おそれながら、エセルバード殿下」

 一足先に静寂を破ったのは、やはり騎士からひとりだけ離れて控える以緒だった。以前仕立てたヘリオスの服を着ているが、首を締めるタイや身体の線にぴっちりと沿った造りはどこか窮屈そうだ。

 全員の注目を集めた守人は、ただひたりと、エセルバードだけに焦点を結んだ。

「申し上げたいことがございます。おそらく、殿下が疑問を抱かれている点について……」

「いおっ!」

 がたん、と椅子を蹴り飛ばす勢いで立ちあがり、銀朱は以緒を睨んだ。さきほどまで透きとおるほど真っ白だった頬が、すでに怒りで紅潮している。

「だめよ。許さないわ」

「ですが」

「これは命令よ。黙りなさい」

 以緒の顔が苦悩に歪む。何度も口を開こうと努めていたが、憤怒に全身をわななかせる主の命には逆らえなかった。葛藤の末、眉間にしわを刻んだまま顔を伏せると、申し訳ありません、と謝罪だけを紡ぐ。

「以緒。君が僕に何か言いたいのなら、いつでも聞く用意はできているよ」

 エセルバードの申し出にも以緒は首を振った。黒い睫毛が青眸を翳らせる。

「いえ、大変失礼をいたしました」

 すとん、と糸が切れたように、銀朱は椅子に腰を落とした。

 興奮のせいか潤んだ双眸は目的を定めることなく彷徨っていたが、やがてふるりと目元を震わせると、思い出したかのようにエセルバードを見上げた。両目は彼を映しているのに、どこか虚ろとしている。

「……わがままを言ったわ。今年は諦めるから、来年は連れていってちょうだい」

 それだけ言うと、銀朱は返事を待たずにふたたび立ちあがった。

「銀朱?」

「忙しいのに時間を取らせたわ。騒がせてごめんなさい」

「……何を隠しているんだい?」

 かすかに銀朱の肩が震える。匂やかな睫毛を何度かしばたたかせたが、口をついたのはやはり単調な否定だった。

「何もないわ。気にしないで」

 訝しげに眉をひそめるエセルバードを振り返りもせず、銀朱は以緒をつれて自室へと引きあげた。

 早足で居間へ飛びこみ、大きく胸を開くと、縮んでいた肺に大量の空気が雪崩れこむ。驚いた気道がきゅっと絞られ、咳きこみそうになるのを何とか宥めて平静を取り戻すと、ようやく全身の緊張が解けていった。かわりに疲労がどっと押し寄せる。

 倒れこむようにソファに身を委ねると、銀朱は守人を恨みがましく睨んだ。だが、しおらしく顔をうつむける以緒を見れば、それ以上は責めるつもりになれなかった。

 ――何か他の手を考えなければ。

 肘置きに頭を伏せ、銀朱は荒れたくちびるに新たな傷を刻んだ。

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