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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第三章 秘め事
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4

 毎夜のごとく訪ねてくる男に、以緒よりつぐは正直呆れていた。長旅の末、ようやくヘリオスまで辿り着き寝床でゆっくり休めるというのに、男は任務を果たすために貴重な睡眠時間を削っている。以緒も同じ道を辿った身として、酔狂としか思えなかった。

寿春じゅしゅん様にはお伝えくださいましたでしょうか」

 男の声に、以緒は窓へ向けていた顔を室内へ戻した。初日に皇太子からの手紙を受け取った部屋で、使者と名乗った男ともうひとりの桐人が、床に手をついた姿勢で応えを待っている。新たに加わった男の方が正式なヘリオスとの交渉役らしく、初めに会った男は単に手紙を携えてきただけのようだ。

 二人とも男盛りの年頃であり、使節に加われるだけの官位と実力を備えているのだろうと、伏せた頭部を見ながら以緒は思考を巡らせる。実際、彼らの正装は高官にしか許されない色を使用していた。

 彼らがアストルクスに到着してから、すでに二十日近く経っている。交渉は順調に進み、交易品は無事にヘリオス側へ渡された。半年をかけて運ばれた逸品にしては良心的な価格だったので、ヘリオスが得る利益は計りしれない。援助の礼は、確実に支払われたはずだ。

 その一方で、交渉役の男は頻繁に以緒を呼び出した。用件はすでに伝わったので見過ごしてもよかったのだが、皇太子の名を持ち出されるかぎり、以緒は従うほかない。希求される返答をのらりくらりと延ばしてきたが、それもそろそろ限界だった。

「もはや時間がございません。お話ししづらいのでしたら、私から寿春様にお伝えいたしますが」

「余計なことはしなくていい」

 低めに叱責すると、ふたりの肩がわずかに跳ねた。それを無感動に観察する。

「おそれながら、みてくら様。我々は私情からこうして奏上しているのではございません。我々は皇太子陛下のご命令で、申し上げているのです」

 さすがに交渉役に選ばれるだけあり、男は強硬だった。もうひとりは初日以来、ひとことも発せずただ頭を垂れているだけだ。彼も命を負っているため、相手に任せて投げ出すわけにはいかないのだろう。今も恐れが隠せず、指先が白い。以緒は細く息をつくと、静夜を乱さないよう平淡に故郷の言葉を紡いだ。

「……陛下への書状を用意する。それを持ち帰ってくれ」

「幣様!?」

「それが答えだ。用意できたら知らせる」

 驚きに男たちは以緒を見上げた。疑問の視線を受けつつも以緒は動じない。漆黒の袖の下で、男が両手をきつく握った。

「……いくら幣様のご意志といえど、従うことはできません。不本意ながら命に背かせていただき……」

「貴殿に、それができるのか?」

 以緒が使者の男を睥睨する。青と黒がはっきりと交わると、彼は恐怖に全身をわななかせて叩頭した。ごつ、と額を打つ鈍い音が闇の中に聞こえた。

「……大変失礼をいたしました」

 目隠しをしてくるべきだったか、と以緒は後悔した。以緒の視線を受け止められるのは、桐ではほんの一握りにすぎない。青く透きとおる双眸を綺麗だと慕ってくれるのは銀朱だけで、ほかの人間は少なからず頬や口角に畏怖が残る。それを理解しながら、今は彼らを虐げているのだが。

 床に前頭骨を擦りつける男たちに憐憫を覚え、以緒はふたたび視線を窓の外へと移した。今夜は長雨で星は見えない。かわりに、窓ガラスを濡らす雨粒が、煙水晶のように墨色に光っている。十月の声を聞き、アストルクスの夜長は遠いはずの冬の香りをまとっていた。

「……私は、桐を見捨てない」

 遠い故郷へ続く雨空を映すと、以緒の瞳に淡い光が宿った。玄燿げんようは豊かな四季に愛された神の都だ。今の時期なら、夕焼けのすすき野がいっとう美しい。湿った土と枯れ草の匂いに、秋告げ鳥の賑やかなさえずり。田圃の稲は重たげに首を垂れ、豊かな稔りに人々は笑顔を咲かせているだろう。そこへ想いを馳せるだけで、以緒の細胞があまねく揺さぶられる。

「必ず役目は果たす。それが私の存在意義だ、貴殿らの期待は裏切らない。……だが、申し訳ないが今回は帰ってくれ」

 叩頭する彼らの不安がちりちりと肌を刺した。それを宥めるように、以緒はひとつひとつの言葉を丁寧に伝えた。

「私は陛下と桐のために存在する。それ以上でもそれ以下でもない。本来なら天関いわくらに収まっているはずを、私のわがままで国を離れ、貴殿らにいらぬ心労をかけてしまい申し訳なく思っている。貴殿らの忠心には必ず応えると約束しよう」

 ゆっくりと視線をずらすと、彼らは額ずいたまま口を閉ざしていた。心の動揺や葛藤が目に見えるようだ。以緒は自分が言葉足らずだと自覚していたが、それ以上はうまい言葉が思い浮かばず諦めるしかなかった。

「桐への旅路は長い。出立までゆっくり休んでくれ」

「……御意にございます」

 ふたりの桐人は顔を伏せたまま、静かに夜闇へと姿を消した。ぼんやりと残像を追っていると、かたわらに控えていた未良みよしが初めて口を開いた。

「あまり彼らを苛めないでやってください」

 ふ、と以緒のくちびるが苦笑に歪む。

「わかっている。すまない」

 もうあまり時間がないのだ――誰も彼もが焦燥を隠せずにいる。涼しい顔をした未良が本当は気が気でないのは知っているし、銀朱が毎日神経を削っているのも骨身に沁みるほど理解している。以緒も例外ではなく、時が満ちれば満ちるほど自分の浅ましさと無力さに項垂れずにはいられない。

「……戻ろう。陛下への書状をしたためなければ」

 以緒が踵を返すと、未良は無言で従った。彼の胸の内の苦悶も、まるで自分の痛みのように感じられた。




 エセルバードの演出のせいかシグリッドが気を遣い、あれきり銀朱が呼び出されることはなかった。その間、銀朱はひたすら以緒の動向を気に掛けていたが、守人はいつもどおり朝から晩まで側に侍り、役目を果たしている。未良は相変わらず部屋に閉じこもっているので、動向はまったくわからなかった。

 交易品の受け渡しが済み、次の品についての協議が終決を迎える頃には秋も熟れて、冬が到来する前に使者はアストルクスを発つことになった。玄燿より年間を通して涼しいアストルクスは、冬が訪れるのも早い。午を過ぎれば瞬く間に訪れる黄昏に、銀朱は秋の隆盛と冬の気配を感じた。

 二度と顔を合わせたくないと願っていた相手だったが、銀朱の願いは叶わなかった。舞踏会に彼らが出席したので、否応なく対峙するはめになってしまったのだ。

 桐の衣装を着たままの使者は大広間で完全に浮いており、声をかける者はいなかった。宰相のリングレン公が接待を請け負っていたが、反応の薄い使者との間に会話はない。だが、彼はエセルバードに連れられた銀朱の姿を見つけると臆することなく近づいてきた。

『僭越ながら、皇女殿下とふたりきりでお話ししたいことがございます』

 使者の申し出に、銀朱はほぞを噛んだ。一方エセルバードは両目をぱちりと見開くと、面白そうに笑った。

『私はかまわない。桐人同士、弾む話もあるだろうからね』

『嫌よ』

 銀朱は鋭い語調で拒んだ。使者が切れ長の目をさらに眇める。

『私はこの場でお話ししても何らかまいませんが、寿春様の方がお困りになられるのでは?』

 きつくくちびるを噛むと、ぷつりと皮膚が裂けて口紅と鉄の味がした。睨めつけても男が引き下がる様子はない。まるで恐喝だ。

『……わかったわ』

 銀朱は苦々しく同意するしかなかった。エセルバードに見送られながら、ふたりは人目につかない大広間の隅へと移動する。柱の陰に入るや否や、使者はいきなり腰を折り銀朱へと訴えた。

『切にお願い申し上げます。どうか、寿春様から幣様をご説得ください』

 会ったのだ、と理解したとたん、目の前が真っ暗になると同時に、腹の底で火が噴いた。轟々と燃え盛る怒りの炎を隠しもせずに、銀朱は使者の願いを切り捨てる。

『それはわたしの役目ではないわ。おまえたちが以緒を説得できなかったというなら、おのれの無力さを嘆きなさい。わたしは決して桐に荷担しない』

『あなたは、桐の皇女でございましょう』

『それが、何?』

 男の表情がわずかに気色ばむ。

『我々にはあの方が必要なのです。寿春様個人の都合で振り回してよい御方ではございません。あの方の成すべきことは、あなたもよくご存じでしょう』

 くだらない、と銀朱は吐き捨てた。激昂のせいか、滑らかな頬が紅潮している。

『それこそ、おまえたちの勝手な都合だわ。人ひとりを思いのままに動かせると思ったら大間違いよ』

『寿春様おひとりと桐を同列に扱われるのですか』

『おのれの身の安全しか頭にない愚者と、同類にされたくないわ』

 かっ、と使者の怒気が脳天を突き、爆発を予感した銀朱の肩がびくりと跳ねる。皇女の怯えをとらえた彼は我に返ると、自分の中で渦巻く激情が静まるまでじっと堪えていた。常に冷静沈着を理想に掲げる桐の高官らしいふるまいだった。

『……以緒は、何と答えたの?』

 男の怒りが沈静化したころ、銀朱はそっとたずねた。彼に怯えてしまったのは癪だったが、ふたたび怒りを買うような過ちは犯したくなかった。

『陛下への御文を届けるようにと、拝命いたしました』

『そう……』

 銀朱がか細く答えたあと、ふたりはしばらく沈黙に浸った。さきほどまで激しく噴いていた銀朱の炎もいまや鎮火し、白い灰がはらはらと粉雪のように降っている。このままでは銀朱は雪に埋もれて窒息するにちがいない。

『……我らの力が及ばなかったのは認めます。どうか、皇女様のお力をお貸しください。桐の命運がかかっているのです』

 皇宮で軽んじられてきた銀朱に高官の男が頭を下げる行為が、どれほど彼の自尊心を傷つけているのか。深く考えずとも明白だ。たとえ皇女と呼ばれても銀朱の地位など埃より軽く、ヘリオスへ貢ぎ物のように嫁がされても誰も気に留めない。産んだ母でさえそうなのだから、赤の他人が敬意を払うわけがないのだ。

 しかし、男に哀れみを覚えることはなかった。銀朱は胸に降り積もる灰を取り除けないまま、静かに答えた。

『わたしは桐に荷担しないわ。諦めなさい』

『そうですか。……大変無念でございます』

 男は深々と腰を折ると、そのまま銀朱の元を立ち去った。するといくらもしないうちに、離れて様子をうかがっていたエセルバードが姿を現す。その洗練された立ち姿に、銀朱はなぜか安堵と虚しさを覚えた。

「何か揉めていたようだけれど、大丈夫かい?」

「何でもないわ……」

 勘の鋭いエセルバードは、銀朱の嘘などとうに見抜いているだろう。それでも何とかして繕わなければならないのに、うまい言葉が見つからない。気休めでもいいから彼の疑念を拭いたいのに――銀朱から溢れたのは言葉ではなく嗚咽だった。

「銀朱?」

「……ごめんなさい。疲れたみたいだわ……」

「何か悲しいことでも?」

 エセルバードの声はやさしく耳に浸みた。じわじわと全身に広がる甘い響きを感じなから、銀朱は呼吸を整える。

「そうね……なぜだかすごく悲しいわ」

 エセルバードは理由を問うことはしなかった。ただ穏やかな微笑を浮かべながら、おのれの左腕を差し出した。

 ――桐では男性と腕を組むなど考えられなかったのに。

 絡ませた手のひらから伝わる筋肉の硬さや熱に、銀朱は出所のわからない安心感を抱いた。いつから不快に思わなくなったのか。もう覚えていない。

「隣でお茶を飲もうか。だいぶ冷えてきたし、あたたまると気分も落ち着くだろう」

 素直にうなずき、銀朱は王子とともに隣室へと足を向けた。楽隊の奏でる華やかな音楽が、やけに虚しく背中を追いかけてくる。人々のさざめきも、天井から降る水晶の火明かりも、踏みしめる絨毯のやわらかさも、しだいに遠くなっていく。銀朱は青白いまぶたを伏せると、息苦しさに喘ぐかわりに指先に力を込めた。

 やがて、軽やかな旋律は霧のように淡く消滅した。

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