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黒い袍を身に纏った男が、玉座へと深く頭を垂れた。独特の形をした黒の冠からは同色の布が背中に垂れ、手には威儀を正すための笏を持ち、袍の下に着た衣の裾をうしろに長く引いている。
本来ならば桐の文官は帯剣しているはずだが、儀礼用でも許可は下りなかったらしく、彼の腰に太刀は見当たらない。目の覚めるような深い黒は、華やかな色彩に溢れた玉座の間では異彩を放っていた。
ヘリオスに到着して二か月ほどだが、桐の正装がこれほどめずらしく写ったのには銀朱も驚いた。目にしていないとずいぶん記憶が薄れるようだ。気づかないうちにヘリオスに染まっていたのだと、彼女は初めて自覚した。
対するヘリオス側は、シグリッドを始め、皆煌びやかな正装である。国王夫妻とエセルバードのほかには、枢密院と呼ばれる国王の諮問機関の面々が顔をそろえており、群青のマントをまとった四公爵の姿もあった。銀朱も誂えたばかりのドレスと宝飾品を嫌と言うほど身につけている。
広間の中央あたりには木製の台が出され、絹の反物や陶磁器、絵画など、交易品と思われる品が並べられていた。その台を背中にうなだれていた使者は、顔を上げると最初に桐国国王からの親書を読み上げた。通訳を介して形式どおりの挨拶が交わされ、会談は本題へと進む。
そもそも、サドラとの戦争による援助の礼としてヘリオスは桐の産物を請求したのだが、桐側はそれを銀朱で代用し、本来欲した品は有償で提供するとの内容で両国は合意している。ただし条件として、桐は今まで国外には出さなかった良品をそろえることを約束していた。ただでさえヘリオスでは貴重な品物である。同量の金塊よりよほど値が張るだろう。
使者がまず披露したのは、金銀の糸を惜しげもなく使い織り上げた、錦の反物だった。色は鮮やかな朱、いかにも見映えのする豪華な丸紋を選んだのは、ヘリオスに対する戦略だろう。
「これは……」
どこからともなく、感嘆の吐息がこぼれた。静かな興奮に湧く一同に対し、使者は淡々と説明を述べはじめた。
「この品は、玄燿より十日ほど離れた山里で採取できる、貴重な絹糸を利用して織られた物です。本来ならば宗室の方々にのみ許される門外不出の品ですが、このたびは我が国からの友好の証として、ヘリオス国王陛下へ贈呈させていただきたく持参いたしました」
今度こそ驚愕にざわめく人々の中、王座に座るシグリッドはへぇ、と身を乗り出した。
「それはうれしいなぁ。手にとって見せてくれるかい?」
使者はヘリオス側の従僕に反物を手渡した。朱色の巻物を受け取ったシグリッドは、子どものように目を輝かせて歓声を上げた。
「すごくなめらかで軽いね。それに近くで見ると、紋様の細かいところまで丁寧に織ってあるのがよくわかるよ。桐の技術はやはり素晴らしいねぇ」
「おそれいります。この絹糸は特に細いものでございまして、扱える職人も少なく、桐国内でも非常に稀少価値が高くなっております」
「そんな貴重なものをくれるのかい? うれしいなぁ。ねぇ、本当に素敵だと思わないかい?」
シグリッドが大きく布を広げると、隣に座したディアンはにこりと笑みをほころばせた。
「はい、とても素敵ですわ」
「そうだ。銀朱、聞いてもいいかな?」
いきなり白羽が立ち、銀朱は仰天して玉座を見上げた。シグリッドと目が合うと、榛色の双眸がゆるりと弧を描く。エセルバードと笑い方がそっくりだった。
「これは何に仕立てるといいかな。ローブなんか格好良さそうだけれど、桐ではどうするのかな」
緊張に口内が干上がっていくのを感じながら、銀朱は横目で隣のエセルバードをうかがった。しかし、いくら彼でも口を挟むのは不敬に当たるだろう。助けを求めるのは無理だと判断した銀朱は、目を凝らして錦を見定めた。宮中での立場も弱く、豪奢とは縁遠い生活を送っていたが、父の正妃である英子は銀朱にも等しく反物や調度品を分け与えたため、それなりの審美眼は養われているはずだ。
朱夏の暁を思わせる鮮やかな色に、長年洗練されてきた緻密ながらも威風ある文様。軽やかな布の厚みに反して、国王の正装にも負けない堂々とした存在感。あの朱は、おそらく千年経っても色褪せない。
たった一反の錦に注ぎこまれた技術の精度を把握した瞬間、銀朱は置かれた状況を忘れて感動に浸らずにはいられなかった。皇宮でもめったに目にしない、皇帝や国王にのみ献上される佳品だ。たとえ銀朱がこの品を贈られても、身の丈に合わず持て余してしまう――有り体に言えば、ヘリオス人には宝の持ち腐れでしかない。それを国外に出した国王雅之の決断は、ひたすら驚嘆に値した。
「銀朱?」
エセルバードの声に、銀朱ははっと我に返った。いつのまにかじっくりと魅入っていたようだ。
「も、申し訳ございません。あまりの素晴らしさに、言葉を無くしていました」
慌てて謝罪したが、シグリッドが気分を害した様子はなかった。
「謝る必要はないよ。それよりどうかな、私には少し派手かなぁ。銀朱はどう思う?」
「え……? い、いえ、よくお似合いになるかと……」
「本当に? お義父さん本気にしちゃうよ? 本当にローブにしちゃうからね?」
念を押され、銀朱は思わずうなずいてしまった。錦のローブなど聞いたことがないが、本人が上機嫌なので問題ないだろう。ひそかに胸を撫でおろす銀朱に気づく様子もなく、国王夫妻は和気藹々と会話を弾ませる。
「楽しみですわね、陛下。きっとよくお似合いですわ」
「ありがとう、ディアン。そうだ、せっかくだから君も桐の絹でドレスを作ったらどうかな? おそろいで桐の物を身につけたら素敵じゃないか。ねぇ君、何かドレスに仕立てられるような布はないかな……」
首を伸ばして交易品をのぞくシグリッドに、桐の使者が唖然とした時だった。大きな咳払いの音がして、銀朱は目立たないように音の主を探した。玉座のすぐ下、臣下としてはもっとも上座に、五十ほどの男が険しい表情でシグリッドを睨みつけている。
「陛下。今はディアン陛下のご衣装を選ばれる時間ではございません。お控えください」
痛烈な諫言を発したのは、宰相を務めるリングレン公爵だった。王族や四公爵のようにマントをまとってはいないが、右肩から斜めに掛けている綬や徽章の種類で、身分の高さがうかがえる。枢密院の長であり、国政の補佐を担う公爵に、シグリッドは反物を丸めながら苦笑を返した。
「あー、ついつい興奮してしまってね。でも、本当に美しいんだよ。何か桐にもお礼をしないといけないよね。何がいいかなぁ……ヘリオスのもので気に入ってもらえるものはあるかなぁ?」
「陛下。それは後ほど相談いたしましょう。今は使者殿と品物について協議するということで、よろしいですね?」
「あ、はい。わかりました」
シグリッドは反物を抱えたまま、小さく身体を竦めた。まるで親に叱られた子どものようだ。他国の使者の前で晒された主君の醜態に、各府の大臣と有識者は苛立ちを隠せずにいたが、四公爵は全員が涼しい顔をしていた。そして、ふと銀朱がエセルバードを見上げると、口角がわずかに釣り上がっているのがわかった。――もしかして笑っているのだろうか?
「大変失礼いたしました。それでは品物を拝見してもよろしいでしょうか」
宰相の言葉に、使者はすぐに同意した。桐の官僚らしく、あからさまに感情を面には出さず沈着さを保っている。
「かしこまりました。では、まずはこちらの絹布からご覧ください」
彼が従者に命じて広げたのは、桐では装束によく使われる織物だった。これもなかなかの品で、桐王の衣装に使用しても何ら障りはない。さきほどの錦といい、完全にヘリオス側の関心を惹いている。
絹布の品定めについては、宰相を中心に話が進められた。事前に両国間で幾度と交渉が重ねられているため、交易品の内容の確認が主である。たいした討論が交わされるわけでもなく、協議は淡々と進んでいく。
シグリッドは宰相の問いかけにうなずくのみで、話し合いに横槍を入れることはまったくしなかった。時折、絹布を見てディアンに似合いそうだとか、花鳥図の掛け軸を寝室に飾りたいだとか発言するのみだ。財務府の大臣や、ヘリオスの産業または流通に詳しい者が意見を述べるように、シグリッドが疑問を投げかけることは一切ない。しかし、むしろそれが日常らしく、彼らは王の言葉を適当に聞き流してしまう。
――あまり考えない方がいい。
生まれた疑問が芽を出す前に、銀朱はひっそりと握りつぶした。ヘリオスの内情に深く関わるつもりはない。シグリッドが政治に無関心で、異国の使者を前に私的な好奇心を優先する王だと知っても、銀朱は座視していればいいのだ。
幸か不幸か、リングレン公爵は優れた政治家で、その後の桐との交渉は順調だった。すべての議題が無事に終了したところで、背もたれに身を沈めていたシグリッドがさて、と姿勢を正した。
「銀朱も彼と話したかっただろう? 長く待たせてすまなかったね」
彼、とは桐の使者のことだ。どうやら、シグリッドは本気で銀朱を使者と会話させるために呼んだらしい。しかし同じ桐人と言っても面識があるわけでもなく、共通の話題があるわけでもない。
「……いえ、お気遣いは感謝いたしますが……」
銀朱は言葉を濁した。正直、彼とはあまり接触したくない。どの省に所属し、どういう立場にあるのかは知らないが、相手が銀朱に抱く感情など容易に想像がつく。
彼は目が合うと、黒々とした瞳でまっすぐに返してきた。銀朱が身構える暇もなく言葉の矢を射かけられる。
『――かの御方は何事もなくお過ごしですか』
銀朱は使者を鋭く睨んだ。この場で桐語がわかるのは、桐人と通訳、あとはエセルバードだ。わずかに反応した王子に、使者は納得したように顔を伏せた。
『……なるほど、失礼いたしました。ご健勝なご様子、何よりです』
『おまえと話すことは何もないわ。黙りなさい』
この男は会っていないのだ。だとしたら、以緒は銀朱に嘘をついていなかったのかもしれない。それとも、彼以外の人間とは会っているのかもしれない――ひとつ疑えばすべてが疑わしくなってくる。
『かの御方とは、誰のことかな?』
エセルバードの問いに、銀朱は間髪を容れずにヘリオス語で答えた。
「誰のことでもないわ。あなたが桐の言葉がわかるか、試しただけよ」
「ああ、なるほどね」
幸いにも使者はヘリオス語に通じていない。エセルバードは親しげに微笑むと、流暢な桐語で使者へ語りかけた。
『ご覧のとおり、仲睦まじい関係を築いていると本国へ伝えてくれるかな。銀朱の母上はさぞ胸を痛めておいでだろう』
『……承りました。綺妃様もお喜びになられるかと存じます』
銀朱と母の関係は、皇宮に出仕している者なら誰もが知っている。腹立たしくて奥歯を噛みしめると、ぎり、と不快な音が銀朱のざらついた心を逆撫でた。揶揄するような、男の平然とした態度も気に入らない。一矢報いなければ気が済まないが、安易な言動でみずから窮地に立つことだけは避けたい。
「……何かあったのかな? 大丈夫かい?」
不穏な空気を訝しんだのだろう。シグリッドの声に、銀朱は置かれた状況を思い出した。さっ、と顔をそらして取り繕おうとしたが、その行為自体が怪しく見えたはずだ。しまった、と悔やんだ時にはもう遅かった。
「銀朱?」
周囲の注目が自分に集中するのを感じる。どう説明すれば不自然ではないだろう――何とかして彼らから疑問を拭い取らなければならないのに、すっかり動転してしまい、考えれば考えるほど銀朱の思考は漂白されていく。これではあの男の思惑どおりだ。
その時、突然生じた引力に、銀朱はぐらりと姿勢を崩した。たたらを踏んでなんとか醜態を晒さないように努めるが、一方的な力に抵抗するのは難しかった。眩暈か貧血か――あまりの情けなさに胸を鷲づかみにされ、鋭い痛みが槍のように銀朱を貫く。
衝撃にそなえて目を閉じた銀朱を襲ったのは、予想していたよりもずっと小さな反動だった。何らかの理由で床に倒れるのは免れたようだ。ほっ、と安心したのもつかの間、銀朱は自分を支える物が体温を持っていることに気づいた。人の熱だ。
銀朱の頬が、エセルバードの胸に触れていた。目先に迫る王子の徽章に、肩を掴む大きな手のひら。頬に触れる上衣の生地はやわらかく、布越しに伝わるぬくもりに混ざり、ほのかに甘いエセルバードの匂いがする。
エセルバードの腕の中に収まっている。そのことにようやく気づき、銀朱は慌てて離れようと身じろいだが、もう片方の腕で腰までしっかりと固定されてわずかも抗えなかった。以緒とはまったく異なる、成熟した男の身体だ。背の高さも胸の広さも、銀朱に触れる手つきもちがう。あまりの未知に、緊張と恐怖がこみあげてくる。
『そのままで』
頭の上から落ちてきたささやきに、銀朱はびくりと震えた。かっ、と目元に朱が散り、吐息が触れた耳に熱がともる。いったいエセルバードは何がしたいのか――公衆の面前で、いったい何を考えているのか。
「申し訳ありません、陛下。銀朱は桐を思い出して涙が堪えきれなかったようです」
沈黙を破ったエセルバードの声には、銀朱への哀れみがこめられていた。肩に添えられた手の力が増し、婚約者を気遣うようなそぶりを見せる。
「えっ、大丈夫かい? 悪いことをしてしまったね」
エセルバードの意図をようやく理解し、銀朱はシグリッドから逃げるように顔をそむけた。これ以上ないほどエセルバードと密着するが、耐えるしかない。
「……いいえ、申し訳ありません」
「君が謝る必要はないよ。私の気が回らなかったね。すまないねぇ」
いえ、と短く否定するが、足下を向いていたので声は自然とくぐもった。それを涙声だと勘違いしたのだろう、シグリッドは溢れんばかりの同情を込めて言った。
「エセルバード、銀朱と一緒に下がっていいよ。あたたかいお茶を淹れて、落ち着かせてあげてくれ」
「かしこまりました」
エセルバードに肩を抱かれながら、銀朱は玉座の間を後にした。自室のある棟まで戻ってきたところで、ようやく彼の腕から解放される。しかし身体が離れても、壁を這う蔦のようにエセルバードの熱が絡みついている。銀朱は一度だけ強く頭を振って幻覚を追い払った。
「……ありがとう。助かったわ」
不満はいくらでもあったが、あの場から逃れられたことの方が大きい。あまりにも浅ましいが、銀朱ひとりでは為す術もなかったのだ。胸を蝕む悔しさに顔を歪め、手のひらにみずからの爪を食い込ませる。あの男の顔は二度と見たくない。
「何かあったのかい?」
否定しても、エセルバードは納得しないだろう。道中で銀朱は弁解の言葉を用意していた。
「……桐では、男性が女性の顔を直視するのは失礼なことよ。なのに、彼はためらいもなくわたしを見たわ」
顔を隠す扇も御簾も無いとはいえ、使者が視線を合わせたのは銀朱を軽んじているが故だ。そのことが癇に障らなかったとは言えない。せめて気遣う様子でも示せばいいものを――体面上、最低限の礼儀を尽くしても、彼にとって銀朱は端女かそれ以下なのだ。
「君は普段、そんな素振りを少しも見せないから気づかなかったよ」
「ヘリオスの人に見られるのと、桐人に見られるのではちがうわ。彼は非礼だとわかっているもの」
「かの御方とは?」
銀朱は柳眉をひそめた。これも予想していたことだ。
「言ったでしょう? 彼はあなたが桐語を理解できるか試したのよ。かの御方、と言われても、わたしには何の心当たりはないもの」
本当に推参な男だ。剛胆なのは異国との交渉に有益だろうが、ヘリオスの中枢とも言える場での発言にしては過激すぎた。もしどちらかが迂闊に口を滑らせでもしたら、どう責任を取るつもりだったのか。
「そう。……なかなか面白い人だね」
盗み見たエセルバードの表情から、真意を酌みとることは難しかった。だが、それきり桐の使者について話題に上ることはなかった。