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食後の茶まで楽しんでから礼拝堂へ戻ると、大司教らは険悪な面持ちでふたりを待っていた。金糸の刺繍を施した法衣はそれだけで重厚感があり、祭壇を背に座る姿は巌のように頑なである。
銀朱は彼らがどれほどの権力を持つか詳しくないが、聖地と崇められる大聖堂を担う大司教の位に就くために、数多くの困難を乗り越え障害を排除してきたはずだ。顔に刻まれたしわは、軍人の刀傷に匹敵する。
入ると同時に向けられた十の瞳に銀朱は怯んだが、エセルバードは意にも介さずに彼女を誘導した。並んで席に着き、先ほどと顔ぶれの異なる五人の大司教へ質問を投げる。
「それで、審議は終わったのかな」
審議とは、問答の内容から改宗を認めるか否か話し合うことである。そうして初めて、銀朱は次の段階へ進めるのだ。
中央に座る年嵩の者は鋭い眼光でエセルバードを射ると、どこか嘆かわしげに息をついた。
「――国王陛下が、いまだに戻らないエセルバード殿下と皇女様を気にしておられると、宰相閣下から使者が参りました」
「……それで?」
「次の儀式に移ります。殿下は後方にご移動願います」
エセルバードは満足げに笑い、あごを引いた。ようやくあの質問攻めから解放されるのかと思うと、銀朱の口からも自然と安堵の吐息がもれる。どのような経緯で宰相に話が伝わったのかはわからないが、夜会で形式的な挨拶を交わしたことのある彼に感謝せずにはいられなかった。
大司教は渋面で、不満も露わだ。しかしエセルバードが席を移ると、彼らはゆっくりと立ち上がり、法服の懐から聖典を取り出した。革表紙の本は老いた手にしっくりと馴染んでおり、手慣れた動作で素早く頁を捲っていく。
「それでは、主シェリカの新たなる信徒を迎えるための儀式を開始します」
よく磨かれた声が、大きな鐘の音のように堂内に響きわたった。無意識に気が引き締められる声音だ。居住まいを正した銀朱を一瞥してから、彼は厳かに聖典の一節を読みあげる。
「闇は光を掩蔽し、光は闇を払拭する。光は天つ女神の恩寵であり、我らは地の星斗である。我々は女神に奉ずる者である。女神に祈り、女神の慈悲に感謝し、女神の安寧を常しえに願う者である」
言葉は音楽だった。優美な旋律や調和はないが、長い時間をかけ鍛えられた声帯が妙なる楽器となり、女神に捧げる音楽を奏でた。紙面では単なる文章でしかない聖句に、大司教の声と見事な抑揚が重みと神聖さを吹き込んでいく。外見から老齢の域と思われたが、年齢を感じさせない張りのある声が堂内の空気を震わせ、真冬の早朝のような冴え渡る霊気を生み出した。
一節ごとに交替して、彼らは聖典を詠誦した。異教の文化で育った銀朱にも、それは聖なる行為に思われた。銀朱はけっして女神を軽視したことはないが、今まで信仰心を抱いたこともない。だがこの瞬間、初めて女神に対する崇敬と信仰を理解した。
「――今、ここに新たな星斗が誕生する」
事前に聞かされていたとおりに銀朱は立ち上がり、正面の大司教の前に膝を着いた。膝蓋骨から床の冷たさが伝わってくるが、わずかの間だと我慢する。しおらしくうなだれていると、老齢の大司教は用意された小箱から首飾りを取り出し、畏まったしぐさで銀朱の首へかけた。
ヘリオスでは、女神の信者を星に喩える。身につける護符は金属の円板であり、その輝きをもって女神への信仰心を示すのだ。銀朱の護符はシグリッドが用意したもので、金の鎖の先には同じく金の円板が下がっていた。片面は鏡のようだが、もう片面には小粒の金剛石が散りばめられている。これも王侯貴族がよく使う手法で、金剛石で星を表現しているという。
「主よ、どうかこの幼き星の誕生を祝福し、道に迷わぬようお導きください。この者に主の偉大なる光のご加護がありますよう(テイクン・イル・ユ・ルークス)」
彼に倣い、銀朱は両手を組んで祈りの常套句を唱えた。身を包む環境に、または自分自身に何らかの変化があるのではとわずかに期待したが、五感は平常しか報せない。じんと痺れてきた足で立ち上がり、祭壇を仰ぐと、そこに座する女神の像は冷ややかな視線で銀朱を見下ろしていた。
すべての儀式が終了したのは、秋の日が落ちて間もない頃だった。夏が過ぎ去り秋が王都に腰を据えると、日は急かされるようにどんどん短くなっていく。大聖堂から王宮までの大通りに並んだ建物にも明かりが入り、城門をくぐる頃にはすっかり暗くなっていた。
昼食から戻ったのはすでに夕方に近かった。どれだけ問答に無駄な時間を費やしたのかは明白だ。
銀朱が肌寒さに身を縮めながら自室へ戻ると、待機していた以緒と洋が飛び出さんばかりの勢いで迎えた。
「お帰りなさいませ! すぐにお茶を淹れますね!」
ふたりの歓迎ぶりに驚きながらソファに座ると、以緒がかたわらに膝を着いた。憂えた顔で銀朱の白い手をそっと取る。
「……冷えていらっしゃいますね。暖炉に火をいれましょう」
「いらないわよ。お茶を飲めばあたたまるわ」
「ですが、お風邪を召してはなりません」
「逆に汗をかいて風邪をひくわよ」
苦笑しながら宥めると、以緒は渋々とうなずいた。しかし納得はいかないようで、茶が入るまで銀朱の冷えた手を自分の両手であたためることにしたらしい。あまりの過保護に銀朱は呆れたが、文句は言わなかった。
「お帰りが遅かったですが、何かございましたか」
銀朱の隣に腰掛けたエセルバードが、瞳の色を深める。
「少々段取りに手間取っただけだよ。君が気にする必要はない」
やわらかな物言いだったが、以緒の問いを拒む返答だ。だが、正直に大聖堂での出来事を伝えて、以緒が不機嫌になるのは銀朱も避けたい。
「気にするほどのことじゃないわ。無事に終わったもの」
ふたりの言葉に、守人はそうですか、と呆気なく引き下がった。ちょうど紅茶が入り、洋が円卓に茶器を並べると、以緒は立ち上がって銀朱の側を離れた。
白い湯気を上げる紅茶のぬくもりが、内側からじんわりと身体をあたためていく。香料やハーブを使っていない味気ない茶葉だったが、銀朱の好みには合っていた。
明日には早朝と夕方に王宮の礼拝堂で祈りを捧げなければならない。毎月、月の満ち欠けに合わせてくりかえす礼拝が銀朱に課せられた義務だ。改宗したといっても特に信仰心に目覚めたわけでもないので、苦行にしかならないだろう。
「僕はこれで失礼するよ。カリンが押しかけてくる前に戻らないとね」
エセルバードのカップの中身はそれほど減っていなかった。彼は銀朱のように暇ではない。帰りが遅れた分、予定も押しているはずだった。
「迷惑をかけたわ。ごめんなさい」
「君のせいではないよ。――ああ、そうだ。銀朱に伝えなければならないことがあるんだ」
腰を上げた銀朱と向かい合い、エセルバードはどこか観察するかのように目を細めた。
「桐からの使者が、昨日到着したよ。近い内に交易品に関する会談が開かれる。それに銀朱も参加してほしいと、陛下からの要望があってね。よかったかな?」
全身を巡っていた血が、一瞬ですべて凍りつく。しかし、悟られるわけにはいかなかった。細やかに揃ったまつげをゆっくりと瞬かせるあいだに、銀朱は慎重に言葉を選び出した。
「……わたしがその場にいても、役に立てるとは思わないわ」
「君も桐の使者に会いたいのではと、陛下はおっしゃっていた。気構える必要はないよ」
銀朱はエセルバードの整った顔を見上げた。――彼は自分の動揺に気づいているだろうか。合わせた視線の奥から、隠したものの存在を感づかれないだろうか。しかしその可能性に怯えても、みずから目を反らすのは不自然でしかない。ぴたりとエセルバードを見つめたまま、銀朱は首肯した。
「……わかったわ」
「明日にでも日程を知らせるよ。では、お休み」
「……お休みなさい」
エセルバードが立ち去り、余韻が夜の空気に消えても、銀朱はしばらく無言で佇んでいた。不審に思った以緒が細い背中に声をかける。
「銀朱様、どうかなさいましたか?」
「……以緒とふたりきりにして」
居室には守人のほかに、洋と女官が数人いる。ジゼルは朝から一日中銀朱に付き添っていたので、王宮へ戻ってきた時にすでに自室に下がっていた。
「以緒以外は下がって」
銀朱の有無を言わせない口調に、洋と女官は速やかに退出した。シャンデリアの灯りの元で、ふたりは無言で佇む。
「いかがなさいましたか?」
先に口を開いたのは以緒だった。手が震えそうになるのを片手で抑えながら、銀朱は守人にたずねた。
「会ったの?」
主人の問いに、以緒は首を傾げた。無邪気なまでのしぐさに腹立たしさを覚える。
「誰にでしょうか?」
「とぼけないで。桐からの使者よ。正確には、永隆からの」
その名に、守人は碧眼を細めた。目元や口元に浮かぶのは、自然と湧いて出る純粋な喜びだった。
「いいえ。会っておりません。私も今、初めて知りました」
銀朱と以緒は長いつきあいだ。それこそ、物心ついた時から側にいた。だから以緒が嘘をついても見抜ける自信がある。しかし今、銀朱には以緒の真意がわからなかった。まるで霧に覆われたかのように何も見えない。
「……絶対に会わせないわ。わかったわね」
「はい」
「絶対よ。誰にもおまえをやらないわ」
「わかっております。……ですからどうか、力を抜いてください。肌が傷ついてしまいます」
以緒が銀朱の手を取り、腕に食い込んだ指をゆっくりと開いた。自分でも気づかないうちに爪を立てていたらしい。白くきめ細やかな肌には赤い爪痕が五つ、くっきりと刻まれている。それを慈しむように、以緒はそっと銀朱の腕を撫でた。固い指先が傷の端をひとつひとつなぞっていく。
「……どうか、ご自分を大切になさってください」
銀朱は歯を食いしばり、胸の奥からこみあげてきた奔流を堪えた。瞳が火に炙られたように熱い。目にともった熱は鼻を伝って喉へと広がり、銀朱のなけなしの冷静を蝋のようにほろほろと溶かしていく。
「馬鹿よ。それはいおのことだわ」
雫がこぼれおちる前に、彼女は守人の肩に顔を押しつけた。空いた方の手を以緒の背中に回し、きつく上着を握りしめる。
「……お願い。ずっと側にいてちょうだい」
以緒の腕が銀朱を抱きしめることはなかった。痕のついた腕を握ったまま、嗚咽に耐える銀朱の肩へ視線を落とす。やがて震え出した身体に以緒は眉間にしわを刻むと、苦しげにまぶたを伏せた。
「ずっとお側におります。だから――どうか、泣かないでください」
それは、哀切を帯びて銀朱の耳殻をかすめていった。




