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ある日、トーマスが部屋を訪ねると、アーロンは窓辺で外を眺めていた。風はまだひやりとしているが、空はやさしい青色に滲んでいる。傷跡は残ったがアーロンは完全に回復し、恵まれた食事のおかげで遅い成長期を迎えていた。ようやく同年の少年と並べそうだ。
「やぁ、調子はどうだい?」
たずねると、アーロンは視線を外へ向けたまま答えた。
「おっさん暇なの?」
「なぜだい?」
「いっつも家にいるから」
最近ではふたりの会話は少しずつ増えていた。他愛ない内容でアーロンの返答は素っ気なかったが、打ち解けてきた証拠だとトーマスは捉えていた。時間さえあれば頻繁に足を運んで、お茶を楽しんでいる。妻を所領の屋敷に残してきた彼には、年の離れた少年であっても話し相手ができたことがうれしかったのだ。
にこにこと満面の笑みを浮かべるトーマスへ、少年はようやく視線を移した。白髪の目立つ頭から足のつま先まで、じろじろと睨め回す。
「……おっさんってさぁ、人売りじゃないなら何やってんの? お貴族サマ?」
意外な質問にトーマスは瞠目した。てっきりアーロンも把握していると思いこんでいたのだ。だが、トーマス自身が子爵だと名乗ったことはなく、孤児の少年が貴族かどうか見分ける知識を持つはずがない。
「そうだよ。昔は国軍に所属していた」
「兵隊ってこと?」
「まぁ、そうだね。正確には、兵隊を指揮する側かな」
「ふぅん?」
女中の淹れた紅茶が机に並べられる。トーマスが茶器を取ると、アーロンも窓際に置いた椅子からソファに飛び乗り、受け皿ごと茶器を手に取った。
「本当は屋敷でのんびり過ごしたいのだけれどね。まだ引退するには早いと、上官が退職願を受け取ってくれないんだよ。妻は必要とされているなら国に奉仕すべきだって言うけれど、私としては所領に引き上げたくてねぇ……」
聞かれてもいないことを、トーマスは饒舌に語った。自分の生い立ちや昔の武功、王宮での人間関係や妻との馴れ初めなど、普段のアーロンならばとっくに興味が失せて居眠りを始める内容だったが、めずらしく少年は適当ながらも相づちを打っていた。これも自分たちの関係が良好に築かれている証だろう――アーロンが自分に興味を持ってくれたことが、トーマスには喜ばしくてならなかった。
しかし彼が延々と愛妻の素晴らしさについて語っていると、いいかげん飽きてきたのか、少年は茶器を机に置いて胡座をかいた。こんがりと黄金色に焼かれた菓子を、ぽいと口に放り入れる。
アーロンはお世辞にも行儀がいいとは言えない。だが、トーマスはなぜか小さな疑問を抱いた。この種の正体の掴めない違和感は初めてではない。時折棘のようにひっかかるのだが、彼には何が気になるのかわからないのだ。
「……君の出身はどこだい?」
初めてトーマスはアーロンに出自をたずねた。アーロンはぽいぽい、と菓子を口に入れながら応じた。
「忘れた」
トーマスはがっくりと項垂れた。凄惨な経験に、故郷のことなど忘れてしまったのだろうか。それとも思い出したくないのか、心を開いていないのか。
寂しく思いながら空になった茶器を置くと、女中が新しく紅茶を注いだ。アーロンのものにも注がれると、少年はもうひとつ菓子を頬張ってから紅茶を飲む。
無作法な少年に女中は眉をひそめていたが、トーマスは苦笑を浮かべて彼女をなだめた。それから自分も受け皿に手を伸ばし――そこでようやく違和感の正体に気づいた。
胡座をかいたまま紅茶を啜るアーロンを見やる。たしかに、少年の片手にはカップの受け皿がある。
「……君、本当は裕福な家の出身じゃないかい?」
カップを持ったアーロンの動きが、一瞬止まった。しかしそれはトーマスの見間違いかと疑うほどのわずかの間で、少年は口元から食器を離すと嘲笑に顔を歪めた。
「おっさん、何言ってんの? 馬鹿じゃない?」
しかし、トーマスには確信があった。
「それなら、なぜ君は受け皿ごと茶器を持っているんだい? 誰かに教えられていない限り、ただの孤児が貴族の行儀作法を知っているはずがないよ」
思い返せばいくらでもあるのだ。彼は行儀は悪いが何種類もある食器を苦もなく扱ったし、他人に世話されることに警戒しても慣れていない様子ではなかった。貴族の屋敷を物珍しく眺める素振りも見たことがない。トーマスが孤児と接するのはアーロンが初めてだが、普通の孤児がどのような反応を示すかは想像に容易い。
――アーロンは、貴族の生活を以前にも経験したことがあるのだ。しかも、無意識に根付く程度に。
「……だったら、何?」
少年の瞳に炎が灯った。目を覚ました夜に燃えていた憎悪の炎だ。眠っていた獅子が目覚めようとしている。
「いや……深い意味はないよ。ただ、私に隠す必要はないんだ。私は君の味方だから」
そう、味方だ――すでに彼は少年に愛着を抱いている。道端で拾った『動物』ではなく、トーマスと同じ世界に生きる『人間』としてだ。
しかし、彼は自分の考えが浅はかだったことに気づいた。まだ十三にしかならないアーロンが、素性を隠しているのだ。隠したいのではなく、隠さなくてはならない事情があるのだろう。
「勘違いもほどほどにしたら? おれはおっさんを真似しただけだ」
アーロンが受け皿をひらりと持ち上げた。それでも、トーマスは自分の仮説に自信があった。
少年は上流階級の出身に間違いない。そして何らかの理由で、孤児に身を窶さなければならなかった。
トーマスのこともとっくの昔に貴族だと気づいていたはずだ。だが詳細な情報を得るために、無知のふりをして彼の口から引き出した。だというのに、アーロン自身については名前と年齢以外いっさいもらしていない。
たいしたものだとトーマスはひっそりと舌を巻いた。十三歳の少年にうまく使われてしまったのだ。
「……苦労したんだろうね」
アーロンをここまで狡猾にさせた環境を思うと、自然と胸が痛んだ。しかしそれは、少年の逆鱗に触れただけだった。
「だったら、何? おっさんに何か関係あるの?」
地を這うような声だった。何度も他人から殺意を向けられたことのあるトーマスでさえ、寒気を覚える響きだ。
「そうだね……関係ないのかもしれない。けれど、今後関係してくるかもしれない」
トーマスは抱いた恐怖を悟られないように、笑みを浮かべてそれを隠した。その胸の内には、確信とともにひとつの決意が芽生えていた。
「君、私の養子にならないかい?」
獅子の目が、一瞬少年の瞳に戻る。アーロンは瞠目すると、眉間にくっきりとしわを刻んだ。
「……おっさん、やっぱり頭おかしいんじゃない?」
「おかしくないよ。ずっと前から考えていたんだ」
それでも今まで決心がつかなかったのは、自分にこの少年を育てられる自信がなかったからだろう。ずっと子どもが欲しいとトーマスは望んでいたが、生活環境がまったく異なる少年の親になるには覚悟が足りなかったのだ。
――この先、アーロンをどうやって貴族社会に溶けこませるのか。彼の人生に責任を持てるのか。
だが、少年は上流階級の出身だ。たとえそうでなくても、彼には人の上に立つ素質がある。たった十三歳の無学の頭脳で大人を手玉に取る能力は、貴重な才能だろう。そして何よりも彼の飼う獅子が、トーマスには王者のごとく威厳に満ちて見えるのだ。
窓からの逆光に、アーロンの輪郭が燦爛と輝いている。ついこの間まで、アストルクスの裏道で残飯を漁っていたというのに、少年はたしかに王者としてそこに座っていた。ここでもっとも誇り高く存在しているのは、トーマスではなくアーロンだった。
この稀有な才能を潰してしまうのは、あまりにも惨すぎるのではないか――伸ばせばきっと国のために役立つにちがいない。
「私の息子として、君にできる限りの教育を与えよう。爵位は継げないけれど、君の努力次第で新たな領地や官位ももらえるかもしれない。君にはその才能も価値もある。――どうかな?」
トーマスの問いに、少年はすぐには答えなかった。底の見えない双眸でトーマスを値踏みしている。
春の麗らかな陽射しのもとで、彼は辛抱強く返答を待った。アーロンは自分を検分して、何を思索し分析しているのだろう――。
穏やかかつ緊張した沈黙ののち、光を纏った若い獅子はゆっくりと口を開いた。
「……まだ聞いてなかったけど、おっさんってなんでおれを拾ったの?」
「え?」
アーロンは茶器を手に持ったまま、まだ骨の目立つ肩を大きく竦めた。
「だってさぁ、あんなごみみたいなヤツを拾うなんて、やっぱりどうにかしてるよ。ヤるためでもなく売るためでもないなら、なんで拾ったの?」
「あぁ……深い意味はなかったんだ。ただ気になっただけなんだよ」
トーマスは、アーロンを見つけてから抱いた感情や考えを正直に語った。またうまく利用されている気がしたが、信頼を得るためにはしかたない。
少年は頬杖をついて退屈げにそれを聞いていた。そうしてトーマスの話が終わると、机に茶器を置いて悠々と足を組んだ。
「で、おっさんはそれだけの理由でおれを養子にするっていうの? 本気で?」
「ああ。いけないかな」
「いけないかなんておれの知ったことじゃないよ。……ただ、どこの馬の骨か知れない孤児を、簡単に養子にするなんて言わない方がいいだろうね。トーマス・アマル子爵」
それは、少年が初めてトーマスの名を呼んだ瞬間だった。驚きを覚えながら、アーロンに応じる。
「もしかして、心配してくれているのかい?」
「あんたは馬鹿だって言ってんだよ」
アーロンは彼を罵倒した口で、美しい微笑を生み出した。それは、とても少年とは思えない類のものだった。
「正直、あんな生活はこりごりだ。だから、あんたの養子になるよ」
そうか、とトーマスは安堵に息をついた。数瞬遅れて、あたたかい喜びがじわりと全身に広がっていく。
「私は君を拾ったことを後悔していないし、何があろうとこれからもするつもりはない。それだけは覚えておいてほしい」
トーマスは椅子から立ち上がり、アーロンに向かって右手を差し出した。
「ありがとう。これからよろしく、アーロン」
「こちらこそありがとう。アマル子爵」
笑顔で握りかえした少年に、トーマスも朗らかに笑顔を返した。
「気にすることはないよ。さて、さっそくだけど父上と呼んでくれないかな?」
「……は?」
「子どもができたら父上と呼ばせるのが夢でね。叶えてくれないかな」
「誰が呼ぶかよおっさん」
先ほどの笑顔は霧散し、アーロンは嫌悪にぐしゃりと顔を歪めた。虫でも追うかのように手を振り払う。
だが、長く悩んできた問題がようやく解決したトーマスには、少年の態度は羽虫ほどにも気に障らなかった。夢だった息子もできて上機嫌である。
「おっさんはいただけないよ。貴族になるなら尚更ね」
「おっさんで充分だろおっさん。それとも変態の方がいい?」
「ああ、そうか恥ずかしいんだね。すまないね、私もお父さん初心者だから大目に見てくれないかな」
「気色わる……」
アーロンの罵言はすでにトーマスには届いていない。笑顔のままひとりで話を続けていく。
「何から準備すればいいかな。そうだな、まずは君の部屋を決めないとね。家具も揃えないといけないし、服も誂えないと。さっそく明日お針子を呼ぼう。それから教師も呼ばないといけないし……そうそう、妻にも挨拶しにいかないと! 彼女もきっと君を気に入るよ」
彼のあまりの浮かれように、アーロンは口を挟むのを諦めた。片膝を立てたまま無言で菓子を食べはじめる。
そうしてとある春の昼下がりに、ごみに埋もれていた少年はトーマス・アマル子爵の養子に迎えられた。
アーロンの学習能力は、ひたすら驚愕に値した。
少年はもともと字を書けたので、単語の綴りを覚えることから勉強は始まった。だが彼はあっという間に聖典をすらすらと書き写すほどに言葉を覚え、暗唱すら軽々とこなす始末だった。
王宮で使われる正統なヘリオス語に始まり、文学や歴史や地理や政治に経済、数学に生物学に物理学などあらゆる分野において、少年の興味は尽きなかった。やがて古語まで完璧に使いこなすようになり、古代の聖典まで流行小説のようにあっけなく読み終えた。
トーマスの用意した教師も少年の聡明さには絶句するばかりで、月日が経つにつれ彼らは屋敷を訪れなくなった。教師の知識をアーロンはすべて吸い取ってしまったのだ。
まるで飢えた犬のように、アーロンは貪欲だった。行儀作法も生まれた時から躾けられてきたかのごとく身に染みこませたので、宮廷に疎遠な田舎貴族よりよほど様になっている。恵まれた顔立ちも相まって、どこからどう見ても子爵家の一人息子だ。
そんなアーロンを、トーマスの妻は歓迎した。彼女は自分が子どもを宿せないことを責めていたので、夫の決断に不満など言えないと判断したのかもしれない。彼らの仲は親子というほどではなかったが、知り合いの『子爵夫人』と『令息』としては良好だった。
――きっとアーロンは優秀な文官になるだろう。稀代の宰相と、歴史書に名を残すのも夢ではないかもしれない。
トーマスが妄想に胸を躍らせていると、アーロンは軍人になりたいと言い出した。意外な申し出に理由を問うと、少年は王都の警備隊に憧れていたという。
女神と始祖の都を守る警備隊は、国軍の中でも優秀な者が配属される花形のひとつだ。孤児時代に、その華やかな制服姿を何度も見かけたのだろう。子どもらしい理由にトーマスはどこか安堵しながら、アーロンの願いを聞き入れた。
豊かな食事や睡眠を享受できる生活のおかげで、アーロンの剣の上達は早かった。充分な身長としなやかな筋肉を身につけ、それを最大限に生かす技術を少年は習得していった。トーマスも軍人だったので剣の相手を務めたが、アーロンとの試合に手こずるのは時間の問題だった。
やはり彼は女神から才能を授けられていたのだ。あの道端でなぜか心惹かれたのも、女神の天啓に間違いない。
トーマスはめまぐるしい養子の成長に幸福を噛みしめながら、一方でひそかに出自を調べていた。
少年が素性を隠そうとした経緯を鑑みるに、彼は没落した家の出身なのかもしれない。一族の誰かが罪を犯し、その咎で帰る家も家族も失ったのだとしたら、アーロンが身分を明かすことは死に繋がる。
または誘拐の可能性も消せなかった。アーロンは誘拐犯から逃走し、見つかるのを恐れているのかもしれない。
どちらにしろ、少年に罪は無かった。後者なら実の両親の元に帰すのが道理だし、もし前者ならトーマスは養父としてアーロンを守る必要がある。軽率な行動が少年の死を招かないように、わずかな情報でも手に入れたかったのだ。
伝手を頼ってありとあらゆる事件を調べたが、アーロンらしき少年の記録はどこにもなかった。唯一の鍵である黒髪も、トーマスの助けにはならなかった。
トーマスが何の情報も得られないまま歳月は過ぎ去り、拾われてから二年後の秋に、アーロンは訓練兵として国軍に入隊した。十五歳になったかつての孤児は、どこに出しても恥ずかしくない――むしろアマル家の自慢ともいえる見事な若者に成長していた。
◇◇◇
不安と寂寞に翳る養父の顔を、彼はどこか呆れ気味に見やった。
二年前、トーマス・アマルに拾われた時、彼は本気で自分の命を危ぶんだ。この大怪我では、危害を加えられても抵抗できない。ここでついに果てるのだと彼は悟ったが、意外にも世界は彼を裏切った。
トーマス・アマルは彼が欲していたものをすべて与えてくれた。豊かな生活に最高水準の教育、強固な牙とそれを振るう肉体。養父は軍に所属していたので、彼が入隊を希望するとすんなりと受け入れられた。
橋の近くで拾った孤児を養子に迎えた子爵の奇行に、知り合いは眉をひそめたらしいが、もともとお人好しで通っていたのでしかたないと思われたようだ。孤児だった過去を理由に、理不尽な言いがかりをつけてくる人間がいるのではと養父は危惧していたが、あまりに幼稚で彼は歯牙にもかけていない。
「怪我にだけは気をつけるんだよ」
平凡な台詞に、彼は思わず嘲笑をこぼした。しかし、顔に浮かぶのはにこやかな笑顔だ。
「無用な心配ですよ、子爵」
「……その言葉遣い、あいかわらず他人行儀に聞こえるね」
「何、やっぱりおっさんって呼んでほしいわけ?」
「どうして君は両極端なんだい?」
肩を落とす養父を、彼は横目で流す。
国軍の訓練場は王宮から離れた場所に位置していた。宮殿とは目と鼻の先だが、訓練兵は王宮には立ち入れない。ここで今までとは比べものにならない厳しい修練を積み、上官の推薦と試験に合格すれば、彼の第一の目標は達成される。
「寂しくなるね」
ぽつりとこぼした養父の悲愴は、彼の心に響かなかった。ただ、二年の生活で本心だとは理解していた。
「子爵」
彼が呼ぶと、トーマス・アマルは眉尻を下げたまま返事をした。
「改めて子爵には感謝を。今までありがとうございました」
養父の顔が感情の波に揺れる。
「礼を言う必要はないよ。まるで今生の別れみたいじゃないか。ここでも顔を合わせるだろうし……君は私の息子なんだから、いつでも帰ってこればいいんだよ?」
「いいえ。子爵には本当に感謝しているのです。女神などいないと思っていた――けれど今はちがう。女神はやはり存在した」
どれほど手を伸ばしても、女神は彼に応えてはくれなかった。祈っても、泣き叫んでも、女神は彼の声を無視しつづけた。
しかしようやく女神は彼に微笑んでくれたのだ。これが女神の示した道でないのなら、いったい何だというのか。
「……いつでも女神は君の側にいる。主はいつだって君にやさしい」
彼は微笑んだ。今度は喜びに由来するものだった。
「今度屋敷に戻る時には、吉報を携えていきます。楽しみにしていてください」
「吉報?」
「はい。吉報です」
では、と簡潔に挨拶を済ませると、彼は訓練場の門をくぐった。運は自分に向いている――喝采に全身がわなないていた。




