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媛君が希うこと  作者: 佳耶
幕間 wexelod canase
22/52

1

 ぼんやりとした意識の中、彼は全身を灼熱に苛まれていた。

 痛覚はとうに失われ、ただ火をつけられたように熱い。だというのに歯は噛みあわずにかちかちと小さな音を立てていて、とても煩わしかった。

 抑えようとしても彼の意識の範疇にはないようで、耳障りな音は鳴り止まない。鼻からはすえた臭気が侵入し、口の中はとろりとした液体で満たされていた。

 ――失敗した。

 それだけが脳裏に浮かんだ。失敗した、ともう一度、今度はおのれを罵るようにくりかえす。

 空腹に耐えかねて盗みを働いた。だがすでに体力は尽きていたようで、逃走する余力も残っていなかった。激怒した店員にぼろのようになるまで暴力を振るわれ、ごみの溢れた裏道に彼もごみのように捨て置かれている。このまま動かずにいたら、朝を待たずに自分は真実ごみに成り果てるだろう――しかし、彼にはもう指一本も動かせなかった。

 口内を満たす温かく甘い液体を啜っても、空腹が満たされるわけではなかった。生臭いそれは彼自身の命で、ともすれば鉄の味にむせる。肋骨の浮いた胸を上下させるのさえつらい。

 とうとうここで尽きるのだろうか。こんな汚い場所で、塵芥にまみれて。

 それぐらいなら、あの時死んでいればよかったのだと、彼は思った。本来死ぬはずだった時に逆らい、すべてを捨ててただ命だけを抱いて生きてきた。生き延びるためならば、盗みも働いたし身体も売った。必要に迫られれば人を殺めた。

 そうまでして生き延びてきたのは、ひとえに恨みを晴らすためだ。だというのに叶わずにこんなところで死ぬのなら、あの時死んでおけばよかったのだ。そうすれば、自分は本来持っていただろう誇りを携えて死を迎えられた。

 ――死ぬわけにはいかない。

 必死であがこうとしたが、やはり彼の身体はぴくりとも動かなかった。ぼやけた視界に入る黒い土の粒子の先、光に溢れる表通りを睨みつける。

 ――こんなところで、死ぬわけにはいかない。

 彼はなんとかして全身を蠕動させようとした。鉛を詰めこまれた腕を、なけなしの力で伸ばした。

 しかし爪は地面を引っ掻いただけで、指先からは絶望のような冷たさが這い上がってくる。炎に焼かれていた身体は急激に冷め、彼の視界から光が消えた。

 ――まだ死ぬわけにはいかない。死にたくない。

 意識が闇に落ちてもなお、彼は呪詛のようにくりかえしていた。



  ◇◇◇


 トーマス・アマルがそれを初めて見たのは、鈍色の天蓋に覆われた王都を流れる、エウリア川の橋の近くだった。

 エウリア川はアストルクスの北西にある丘陵地帯から流れ、蛇行して街道沿いを南へと抜ける。川の北側、大聖堂や王宮を含む地域は貴族や上流階級の人間が住まう場所で、橋を渡り南側は一般市民が住む地域だった。その中でも厳密に階級分けがされており、王都をぐるりと巡る城壁に近づけば近づくほど、生活は質素になっていく。

 繁栄とともに巨大化した王都は城壁内には収まらず、外部へも街を広げ続けていた。そうすると、また人々の生活の質は一気に下がる。

 いくら大国ヘリオスの都といえど、貧民は確実に存在していた。城壁付近には孤児がたくさんいるし、犯罪も横行している。そのため、たいていの貴族は自分の身を案じて北側の城門を利用するか、安全な街道を選ぶのが常である。

 トーマスも用事がないかぎり、あまり橋向こうへ近づかない。だから橋のこちら側でそれを見かけたとき、めずらしいと思った。

 いくら川が近くてもやはり貴族が居を構える地域なので、彼らは流れてきた孤児や乞食をすぐに排除する。まだ王都の警備隊に見つかる前なのだろうと、トーマスは感慨も抱かずにそう結論づけた。

 彼は退役軍人で、本来は退職金や年金で悠々自適に余生を過ごすつもりだったのだが、上官や同僚にまだ四十代で引退するのは早いとずるずると引き留められていた。実際に剣を取ることは無いが、事務処理や新兵の訓練のためにいまだに王宮で働いている。その日も、自宅から王宮へ上る道中だった。

 そして黄昏時に彼が帰路に着いた時も、それは細い路地に捨て置かれていた。すでに闇が満ち始めている路地に、トーマスは足を踏み入れた。なぜかいたく興味が湧いたのだ。

 かろうじて服と言えるぼろ布からは、折れそうな手足が伸びている。近づくと臭気が鼻をついたが、単にそれの悪臭だけではないようだ。よくよく目を凝らすと、垢にまみれた皮ふには完治していない傷跡やまだ新しい血の跡がうかがえる。固くまぶたの閉ざされた顔にも暴行の形跡があり、誰かに一方的な暴力を受けたのがわかった。

 盗みを働いて失敗したのか、それとも虫の居所の悪い人間のはけ口にされたのか。

 顔にかかる栗毛を避けて口元に手を近づけると、かすかな呼気が指先に触れた。細いがまだ息はある――だがこのまま放っておけば、近い将来命を落とすだろう。霜が降りて久しい時季に、この状態で朝を迎えられる可能性は大人でも低い。

 哀れみを覚え、彼は自分の外套でそれをくるむと地面から抱え上げた。想像していたよりずっと軽かった。

 ――ここで二度も見かけたのも何かの縁だろう。

 たったそれだけの理由で、トーマス・アマル子爵は彼を道端から拾い上げた。



 それが目を覚ましたのは、トーマスが拾ってから丸三日の過ぎた夜半のことだった。

 医師の手当てと女中によるきめ細やかな看護を受けたそれはだいぶ容体が回復してきており、トーマスが見ても顔色はよくなっていた。毎晩様子が気になって足を運んでいるが、今夜はいつもに増して寝顔が穏やかだ。近いうちに目を覚ますだろう。

 額に置いた熱冷ましの布を替えてやろうと、腕を伸ばした時だった。固く閉ざされていたはずのまぶたがカッと見開かれ、まるで本能のように素早くトーマスの腕を叩き落とした。揺らいでいた双眸がはっきりとトーマスの上に焦点を結ぶ。

 それは瞬時に状況を把握すると、ふ、と鼻で嗤った。

「何? タダでヤれると思ってるわけ?」

 飢餓にくぼんだ眼孔に嵌っている瞳は、ヘリオスではめずらしい漆黒だった。しかし怪我か栄養失調のせいか、黄色く濁って充血している。

「おれは高いんだよ、おっさん。怪我の手当代を差し引いてもチャラにはならないほどにね」

「……何のことだい?」

 注意深くトーマスは答えた。刺激するのはよくない――だが言葉の意味が理解できない。

「あんた、本気で言ってんの?」

 顔に浮かんだ笑みがさらに軽蔑に歪む。トーマスはそれの顔立ちがとても整っていることに気づいた。

「おれとヤりたいんだろ? じゃなきゃ、あんなところに転がってる屑を誰が拾うんだ?」

 これは――トーマスが拾ってきた孤児の少年は、自分を夜伽の相手として拾ったのだろうと言っているのだ。トーマスはぽかんとしてから、込みあげてくる笑いをこらえきれずに吹き出した。

「い、いや、まさか! いくらなんでもそれは……っ!!」

 腹が引き攣って痛い。笑いをこらえようとすればするほど腹筋が痙攣して、トーマスは腹を抱えた。

 ひとしきり爆笑してようやく笑いが収まると、少年は呆気とした顔でトーマスを見ていた。まるで奇怪な動物でも目撃したような表情だった。

「……あんた、頭おかしいんじゃない?」

「まさか。至って普通だよ。君がおかしなことを言うからだよ」

「頭のおかしい人間が自分はおかしいですって認めるわけないだろ」

 少年の表情が不快感に歪んでいく。こんな奴の相手をするのか――そう顔には書かれていた。

「いや、まずは誤解を解こうか。私は君の言うような特殊な性的嗜好の持ち主じゃないし、もしくは嗜虐趣味でもない。君を害するつもりはないよ」

 証明するために、両手のひらを少年へ向けた。悪意はないという主張だったが、彼から疑念が拭い取られることはない。手負いの獣同然だ。

「……じゃあ、なんで拾ったんだ?」

「怪我をしていただろう? 気になってね」

 少年がトーマスの言葉を信じた様子は見られなかった。注意深く、濁った双眼で目の前の敵を観察している。

 しばらくの沈黙ののち、少年は何の情報を得たのか、ゆったりと身体を起こして寝台を降りようとした。

「……じゃあ、もう用済みだね。一応礼だけ言っとくよ。ありがと、おっさん」

「え? いや、まだ動いたらいけないよ。熱もまだ下がっていない……」

 トーマスとは反対側に降りた少年の姿が、突如床に沈む。慌てて寝台を回りこむと、彼は横腹を抱えて苦悶に喘いでいた。ようやく血の気の戻りはじめた顔が、みるみるうちに土気色になっていく。

「君、誰かに蹴られたんだろう? 肋骨にひびが入っているんだ。それにまだ熱があるし、安静にしていないと……」

「触るな!!」

 少年の細い肩に伸ばしかけた手を、トーマスは反射的にひっこめた。それは脂汗を流しながらも、黒い目をぎらぎらさせてトーマスを睨んでくる。

「おれに触るな」

 そこにあるのは恐怖ではなく、純粋なまでの憎悪だった。漆黒の炎に燃えさかる双眸と、そこから立ち上る気迫が、苦痛に震えるみすぼらしい少年を獅子のごとく凶暴にさせる。あとほんの少し彼の機嫌を損ねれば、喉笛を噛みちぎられるかもしれない――そう想像して、トーマスの肝がすっと冷えた。

「……私は君に危害を加えるつもりはない。本当だ。君を売って家計の足しにするつもりもない」

 おそらく少年はトーマスを人売りだと思ったのだろう。彼の言うとおり、少年を愛する人間がいるのも事実であり、特に裕福な者だと自分専用に家に囲う者もいた。または公には認められていないが、奴隷としての人身売買も裏では存在している。少年はそれを危惧したのだ。

 それでも少年が自分の牙を収めることはなかった。痩せこけた頬を、汗がつっと伝う。

「そのままでは身体に障る。悪いことは言わないから寝台に戻るんだ」

「……うるさい」

「たとえ私が人売りだとしても、今の状態の君を売っても端金にしかならない。治療を済ませ、健康な状態にしてから売った方が高値がつく。そうだろう?」

 少年の炎がわずかに揺らいだ。その隙を見て、トーマスは畳みかける。

「少なくとも君は怪我が治るまで安全だ。ここにいればあたたかい寝床もあるし治療も受けられる。食事を探して彷徨い歩く必要もない。……どうかな?」

 大きく炎が揺らめいた。しかしそれは心が動かされたというより、少年の体力が尽きたせいだった。

 彼はそのままうめき声をもらし、身体を繭のように丸めてしまう。トーマスは腹をくくって少年を抱え上げたが、喉笛を狙われるどころか意識も朦朧としているようだ。

「医者を呼んでこよう。おとなしくしているんだよ」

 荒い呼吸をくりかえす少年を寝具へと戻し、トーマスはゆっくりと言い聞かせた。力を振り絞って上体を起こそうとする少年の肩を掴み、寝台へ押し戻す。

ラスミアに誓おう。私は君の味方だ」

 く、と少年が喉の奥で嗤った。すでにトーマスの姿はとらえていない。

女神サユルなんてどこにもいない」

 いるわけがない、と呟き、それきり少年は青白いまぶたを下ろした。



 ふたたび少年が意識を取り戻したのは、それから二日経った昼間のことだった。熱も引き、医者からも骨以外は大丈夫だろうと保証をもらい、トーマスはようやく肩の力を抜くことができた。

 少年は諦めがついたのか、医者に言われたとおりおとなしく横になっている。少量の小麦粉と糖蜜を加えたかゆを与えると、初めは警戒していたが最終的には完食した。食事を取り始めると回復は早くなり、そのことにトーマスは喜んだ。

「紹介が遅れたね。私はトーマス・アマルというんだ。君の名前は?」

 体力がつき全身を綺麗に洗った少年は、トーマスが認識していた以上に美しい顔立ちをしていた。トーマスを少年嗜好だと勘違いした理由も納得できる。彼は何度もそういう人間に出会ってきたのだろう。

 少年は上体を枕に預け、生気を灯し出した目でトーマスを睨めつけた。

「それ、おっさんに関係あんの?」

「呼ぶときに困るだろう?」

「別に」

 すげない返答に、トーマスは肩を落とした。

「……じゃあ、勝手に呼び名を考えてもいいかな。君には少し派手な名前の方が似合いそうだね。そうだな……たとえばマクシミリアンとかどうかな? それとも堅い感じでジークハルトとか……。そうだ、建国の英雄から頂いてバジリウスとかは」

「アーロン」

 少年が吐き捨てるように言葉を遮る。トーマスはにこりと微笑んだ。

「アーロンか。いい名前だね」

 少年――アーロンはトーマスを鬱陶しげに睨んだだけだった。白い寝間着に覆われた体は骨と皮しかなかったが、苦労して聞き出した情報によるとアーロンは十三歳になるという。十三ともなれば発育目覚ましい年頃だが、少年が成長期を迎えたとはとても思えない。

 それでも子爵邸で療養をするうちに栄養がつき、アーロンの体格は多少は見られるほどに肥えていった。そして驚くことに少年は快復に向かうほどに髪の色が濃くなり、最終的には瞳と同じ闇色に染まったのだ。栗毛だと思っていたのは、単なる栄養失調の影響だった。

 本来の容姿を取り戻した彼の処遇に、必然トーマスは頭を悩ませなければならなかった。幸か不幸かトーマスには子どもがいなかったので、アーロンからもたらされる影響を恐れる必要はない。だが、当然ながら家人は主人の奇行の行く末を気にかけていたし、彼自身どう決着をつけるべきなのかなかなか心が決まらない。

 少年は、トーマスの出方を注意深く監視していた。めずらしい黒髪に見映えのする彼は高く売れる――それをアーロンは熟知している。もしトーマスが少しでも怪しい動きを見せたら、彼はすぐさま姿を消すにちがいない。

 だが、いまだに出ていこうとしないのは、ここで享受できる環境が惜しいからだ。ふたたび明日の食事を求めて盗みを働くか、綱渡りのような富裕にしがみつくか。少年の中で、静かな問答がくりひろげられている。

 そんな少年を見捨てられるほど、トーマスは非情にはなれなかった。友人に相談すれば、「元の場所に返せ」とすげなく言われるだろう。怪我をした動物を拾い治癒したならば、また放すのが道理だとでもいうように。

 貴族にとって、下層民とは愛玩動物よりも下だ。トーマスもちらりと一度見かけただけならば、アーロンの存在を無視したのだから。

 浅はかなことをしてしまったと、トーマスは女神に懺悔した。そうこう悩んでいるうちに初雪が降り、寒空の下でアーロンが凍える姿を想像して引き留めているとあっという間に年も明け、気づくとアストルクスには春の足音が聞こえていた。

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