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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第一章 邂逅
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2

「もう起きられたんですか?」

 入り口から顔をのぞかせた洋に、銀朱は手元の本から視線をあげた。

 暦は六月を迎えようとしていた。一行は大きな問題に直面することもなく、ほぼ予定通りに行程をこなしていた。数日後には中継地のビリジェに到着する予定である。

 ビリジェはヘリオスとの国境に近い都市国家で、交易で財を成した街だと銀朱は聞いている。ここまで来ると景色にも緑が増え、昼夜の寒暖差もだいぶ穏やかになっていた。そのため、昼間の移動が増え、夜はなるべく休む生活に戻っている。

「ちょっと待っててくださいね。お茶を用意してきますから。何か召し上がりますか?」

「そうね、軽くいただくわ」

 洋が食事の用意に去ると、ふたたび本へ意識を向けた。

 銀朱の手のひらより少し大きいそれは、ヘリオスの聖典だ。とうへ訪れた使節のひとりがくれたものである。

 銀朱を始め、桐からヘリオスへ渡る者は、現地の言葉を覚える必要があった。くわえて、最低限の習慣や常識、立ち居振る舞いも習得しなければならない。

 さいわい使者の中に優秀な識者がいたので、銀朱たちは彼から教わることになった。特にヘリオスの宗教は王族の歴史とも言えるので、聖典を教科書に言葉を覚えたのだ。桐とはまるでちがう宗教観も、ヘリオスで生活していくためには理解しなければならなかった。

 数ページ目を通したところで、洋が朝食を携えて現れた。寝間着の上に、詰め襟の上衣をはおって席に着く。

「もう少しゆっくりしてもいいんですよ? さっき以緒よりつぐと会ったんですけど、もう銀朱様は起きられたのですかって不満そうに言われちゃいました」

「心配しなくても、きちんと休んでいるわ」

「以緒に直接言ってあげてくださいな」

 苦笑してから、銀朱は琥珀色のお茶に口をつけた。茶葉の香ばしい匂いが身体に染みていく。

 食事はパンと豆や野菜を煮込んだスープ、干し果物だ。スープの香辛料がいまいち口にあわないので、干し果物に手を伸ばす。

「何を読んでいらっしゃったんですか?」

「もらった聖典よ。古語はまだ難しくて」

 ああ、と洋がため息をついた。

「わたしには古語までは無理です。現代語でさえ、読むのに一苦労なんですから」

 ヘリオス語は現代と古代では少し文法が異なり、宗教行事ではいまだに古語が使われる。聖典も本来は古語で書かれているものなのだ。古語は貴族の素養として身につけるものであり、王族へ嫁ぐ銀朱にも当然求められた。基礎は教わったが、まだまだ会得したとは言いがたい。

 教師になった男は、講義の最後に必ず銀朱の婚約者の話をした。

 エセルバードという名の王子は、彼によるととても優れた王子らしい。春の木もれ日のような髪に新緑の翠眼、溢れんばかりの気品をそなえた容姿に卓越した頭脳。特に翠眼は、王族の祖であり、ヘリオスの女神の夫であるイシュメル以来のことらしく、生まれたときから敬仰する者が絶えないという。

 そしてそんな素晴らしい王子も、銀朱の美しさを称賛せずにはいられないだろうと、忘れずに言い添える。

 銀朱は、傾国の美姫と謳われた母に似て、麗しい姫だと評されてきた。ぬばたまの黒髪、黒曜石の輝きを持つ瞳、陶器のように滑らかな白肌。漆黒の睫毛に縁取られた双眸とすっきりとした鼻梁は意志の強さを示し、ともあれば勝気に見えるが、ほんのりと色づくくちびるがほどよい艶やかさを添える。

 ――寿春じゅしゅん皇女は、先王に見初められて入内した綺妃きひ様に日毎に似てくる。父王がご存命ならさぞお喜びだろう。

 しかしその言葉の裏に含まれた意味を、銀朱はよく理解している。誰もが銀朱も見て感嘆の息をもらすとともに、ヘリオスから使者が来るまでの十六年間、一度も縁談が来なかったのがいい証拠だ。

「銀朱様?」

 いつの間に物思いに耽っていたのか、洋が訝しげに声をかけた。すっかり止まっていた食事を再開する。

「あとで以緒を呼んできてくれるかしら。少し聞きたいことがあるの」

「わかりました。以緒ならわかるかもしれませんね」

 そうね、と相づちを打った直後、天幕の外から以緒が姿を現した。銀朱や洋の上衣とはちがい、丈が短く動きやすいものを着ている。

 この種の服は長袍と呼ばれ、本来は桐の西北地方に住む遊牧民の衣装であり、普段銀朱たちが身につけている衣装ではない。しかし、幾重にも布を重ね、袖や裾のゆったりした衣装は旅には不向きなので、わざわざ今回のために誂えたのだ。

「おはようございます。お食事中に申し訳ありませんが、少々お時間をいただいてもよろしかったでしょうか」

「何かあったの?」

「先ほどうかがったのですが、ここからビリジェまでの道中に盗賊が出没するようでして」

「……盗賊?」

 はい、と以緒が答える。

「どうやら金品目的だそうですが、いまだに捕らえられていないそうです。銀朱様の御身が危険に晒されることなどあってはなりませんので、ビリジェで待機している兵がこちらに合流し、隊列の人数を増やすことにしたと聞きました」

 銀朱は特に高価な嫁入り道具を持参していない。最低限の衣装と身の回りの物に、あとはせいぜいお茶などの嗜好品程度だ。

 狙ってもそれほど収穫はないが、両国の都合上、看過するわけにはいかないのだろう。なにしろ、銀朱自身が貴重な〈商品〉なのだから。

「大変ね」

 生返事をすると、怯えたと思ったのか、以緒が気遣わしげな表情で言った。

「ご安心ください。何がありましても、私が銀朱様をお守りいたします」

「わかっているわ。けれど、おまえが怪我をするのはいやよ」

「私は守人ですから」

 ためらいなく答える以緒に、銀朱は眉をひそめる。

未良みよしに任せればいいのよ。あれだって守人でしょう?」

「未良には未良の責務がございますから」

 不満も露わに黙りこんだ銀朱に、以緒はわずかに苦笑する。

「私は、銀朱様をお守りするために守人になったのです。どうかそれを念頭に、お側にお置きください」

「……本当に、おまえはそれでいいの?」

「もちろんです」

 以緒の答えは明朗だ。複雑な思いで口を閉ざすと、守人は本題を続けた。

「ビリジェからの兵とは、ここから一日ほど進んだ隊商宿で合流するそうです。できるだけ早く到着するために、ご朝食がお済みしだい、出発したいとのことでした。おそらく日が暮れても止まることはないと思いますが、銀朱様は馬車でお休みください」

「……わかったわ」

 会話が途切れ、沈黙が訪れる。いまさら古語についてたずねる気にもなれない。

 銀朱が干し果物をつまむと、以緒は静かに壁際へ下がった。




 夢の中で、幼い銀朱は母親を探していた。

 銀朱の母は、とても気高く美しかった。透けるような白い肌に、着重ねた衣の雅やかな色彩がよく映えて、子ども心にも母は常人ではないのだと思っていた。

 きっと神さまと同じ、天上の世界の人なのだ。

 だから彼女はいつも美しく、心はここにあらずといった様子で、銀朱のことを見向きもしない。娘が泣いても、彼女は柳眉をひそめ、女官に命じて遠ざけるだけだ。

 母に厭われれば厭われるだけ、銀朱はますます涙を流す。母親のぬくもりを求めて、あちこち探し回る。

 おかあさまぁ、と呼んだ時、ふいに近くのへやで物音がした。おそるおそるのぞいてみると、焦がれつづけたうしろ姿があった。

 このまま駆け寄ってもいいだろうか――多分、母は鬱陶しげに銀朱を振り払い、女官を呼ぶだけだろう。

 立ち竦む銀朱に気づいたのか、ゆっくりと彼女は振り返った。おかあさま、と弱々しい声が床に落ちる。

「……おまえさえいなければ」

 彼女の右手の中で、ぎらりと何かが光った。鋭利な切っ先が、ためらいなく銀朱へと向けられる。

 銀朱の全身が、恐怖に凍りついた。瞳は眦が裂けんばかりに見開かれ、丸い頬から血の気がさぁっと引いていく。

 見たくないのに、目を閉じることができない。逃げたくても、足が震えて使いものにならない。喉は引きつり、ひゅうと息がもれるだけだ。助けを求める術さえない。

 彼女は顔色ひとつ変えず、幼子に狙いを定めた。

 息ができない。瞬きもできない。泣くこともできず、銀朱はただ彼女の牙が振りおろされるのを待つことしかできない――。



「銀朱様」

 はっ、と銀朱は目を覚ました。すぐそばに見慣れた顔があり、にわかに腕を伸ばして掴んだ感触に安堵する。深い碧眼が、銀朱を案じて翳っていた。

「大丈夫ですか?」

「ええ……」

 服を握ったまま、以緒の肩に額を預ける。いつの間にか、うとうととしていたらしい。嫌な夢を見たものだ。

 窓からひどく熟れた夕焼けを見送ったのは覚えている。空が紫に染まり、藍色に転じるとともに星明かりがぽつぽつと灯りだした。すっかり見慣れた銀河の洪水を横目に外套を引きよせて暖を取っているうちに、いつの間にか睡魔の餌食となっていた。

 まだ道のりは長いようだったが、隊商宿に到着したのだろうか。

「もう着いたの?」

「いえ。囲まれました」

 顔をあげると、暗闇の中でも以緒の表情が硬いのがわかった。青い双眸だけが、みずから光を宿しているかのように輝く。

「申し訳ございません、油断しておりました。……今夜は新月なのです」

 銀朱の背中を、ひやりと冷たいものが撫でていく。

「いお、大丈夫なの?」

「ご心配には及びません。未良もおりますし、銀朱様が危険に晒されるようなことは決してございません」

 ちがう、と訴えたかったが、言葉は喉に張りついて音にはならなかった。

 以緒の袖を強く掴むと、銀朱を安心させるためにわずかに表情をゆるめる。

「銀朱様はこちらにおいでください。私が必ずお守りいたします。洋殿、銀朱様をお願いします」

 向かい側に座った洋がこくりとうなずいたのを確認すると、以緒はすばやく扉を閉めた。

 耳を澄ませると、外はそれほど騒がしくはない。だが、ぴんと緊張の糸が張りつめ、誰もが神経をとがらせている。馬車を引いている馬が落ち着かないらしく、馭者が何とか静めようとしているのが小さく聞こえた。

 そのままの状態でどれほど時間が経っただろう。緊張のあまり呼吸さえ浅くなり、耳鳴りがしそうだ。

 新月のため明かりも少なく、馬車の中は暗闇に近い。外を確認したかったが何かを壊してしまう気がして、閉じた窓の方へ視線を移すことさえできなかった。

 緊迫した空気がぴりぴりと肺に痛い。

 息苦しくなり、ふ、と息を吐いたとき、遠くで馬のいななきが轟いた。

 途端、多数の蹄の音が、大波のようにうねりながら近づいてくる。怒号が飛びかい、銀朱が乗った馬車はかけ声とともに急発進した。あやうく洋と額をぶつけそうになりながら壁にしがみつく。

 いつになく急いでいるせいか、揺れがひどい。舌を噛まないように必死で歯を食いしばるのが精一杯だ。

 苛烈な縦揺れに耐え続けていると、今度は急に速度が落ちたため、銀朱は席から前方へと投げ出された。後頭部を壁に強打しながらも、洋が身体を起こすのを手伝ってくれる。

「銀朱様、大丈夫ですか!?」

「ええ……」

 手首をひねったようだが、今はそれどころではない。気づくと周囲には人の気配が増えており、あきらかに隊列の者ではない叫び声が混ざりこんでいる。馬車は完全に止まり、喚声や剣戟の音が銀朱をわななかせた。

 以緒は側にいるのだろうか――姿を確かめたかったが、下手に外をのぞいては自分の首を絞めてしまうかもしれない。

 なるべく気配を殺してじっとしていると、どこからか新たな集団が加わったようだった。喚き声がひときわ大きくなり、聞き覚えのない言葉が飛びかう。

 数えきれない跫音から状況を把握するのは困難でしかない。好転しているのか、悪化しているのか。焦燥に飛び出そうとする身体を、なけなしの理知で従える。

 すると、ふいにすぐ近くで、剣を打ちあう音がした。わずかののち大きなものが倒れこむ音に、銀朱は呼吸を忘れた。

 ただの積荷ならいい――だが状況からして、それは人だ。脳裏で言葉にするとともに、全身から血の気が引いていく。

 ――まさか。

 どちらからともなく互いの手を握ったとき、馬車の扉が前触れもなく開かれた。

 暗闇にひとすじの光が瞬く。白光は弧に閃き、銀朱の眼前で止まった。

 星明かりのもと、ぼんやりと浮かびあがった顔は知らない男のものだった。少なくとも桐人の顔立ちではなく、扉を開いた姿勢のまま微動だにしない。彼の首筋には、鈍く光る直剣が突きつけられていた。

「そのまま下がれ」

 殺意を孕んだ声音で、以緒が命じた。男が素直に数歩下がると、銀朱との間にするりと割りこんでくる。顔を確認し、以緒はおもむろに剣を下ろした。

「失礼した。ヘリオスの方とお見受けするが」

「……そうだ。害意はない」

 以緒の背中越しにうかがうと、男は黒い外套をまとっていた。さきほどの印象では、二十代半ばほどだ。

 彼は以緒から敵意が消えると、銀朱に向かって一礼した。

「大変失礼いたしました。エセルバード・フィッツァラン・ヘリオス王子の騎士を務めております、カリン・レノックスと申します。おそれながら寿春皇女様とお見受けしますが」

 思わぬ人物の名前に、戻りかけた思考が縺れる。なぜ、婚約者であるエセルバードの騎士がこんな場所にいるのか。

 茫然とした銀朱にかわり、以緒が首肯した。

「こちらは寿春皇女殿下であらせられる。エセルバード王子の騎士が、なぜこちらに?」

「申し訳ないが、子細はのちほど。今は寿春様の安全を最優先したい」

 男は銀朱に向きなおり、幾分かていねいな口調で続けた。

「ビリジェの兵が盗賊を追討しておりますが、一刻も早くこの場を立ち去られた方がよろしいでしょう。馬車を捨て、馬で移動をお願いしたいのですが、よろしいですか」

 なんとか頭を動かしながら以緒を見ると、すぐに視線がかち合う。銀朱は無言であごを引いた。

「銀朱様は、私がお連れします」

「では、侍女殿はこちらへ。私が先導します」

 以緒に手を取られて馬車を降りる。周囲に盗賊の姿は見あたらなかったが、遠くではまだ混乱が続いているようだった。慣れない異臭が鼻を突く。その原因を、銀朱は無理やり頭から追い出した。

 毛織りの外套をはおると、以緒に馬の鞍へ押しあげられた。守人の馬は鹿毛の牝馬だ。気性のおとなしい馬で、以緒によく懐いている。

「しっかりとたてがみを掴んで、舌を噛まないようにしてください」

「……怒らないかしら」

 軽やかに鞍へあがった以緒は、銀朱の背後から腕を回して手綱を取った。

夕吹せきすいはおっとりとしておりますから、多少のことでは怒りません。しばらくの間ご辛抱を」

 銀朱がうなずくと、牝馬は以緒の合図に従い、夜の草原へと駆け出した。

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