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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第二章 太陽の国
18/52

9

 魚の塩焼きも存分に堪能してから、翌日の午後に銀朱は王宮への帰路に着いた。

 二日後には祭を控えているため、のんびりと旅の疲れを癒す時間はなかったが、体調が回復の兆しを見せたせいかそれとも気分が軽くなったせいか疲れは少なく、王宮を離れていた三日間の空白を埋めるのに以前ほどの労力は必要なかった。

 祭の初日には、さっそく茶会の予定が入っていた。王宮へ集った顔見知りと親交を深める席という名目で、王后のディアンが主催だ。女性だけの会だが銀朱が参加するのは必然である。

 同伴するのはジゼルだけであり、侍女で伯爵令嬢の彼女がそう易々と口を挟めるわけではない。事実上、銀朱はひとりで出席するのだ。

 ジゼルから教えられた会話の受け流し方を頭の中で反芻していると、急に取り次ぎの間が慌ただしくなった。隅に控えた以緒が緊張していないので闖入者ではないようだが、常ならぬ事態なのは確かだろう。

 銀朱がジゼルや洋と顔を見合わせていると、ひとりの女官が姿を現した。

「お騒がせして申し訳ございません。皇女様のご準備はお済みですか?」

「はい。整っておりますけれど……」

 ジゼルが応じると、女官はほんの一瞬ためらったあと、用件を告げた。

「王后陛下がお見えでございます。お通しいたしますが、よろしいでしょうか」

 銀朱は耳を疑ったし、ジゼルもあまりの驚きに絶句した。洋は薄く口を開いたまま固まっている。

「ど、どういうことなの?」

 思わず腰を浮かせた銀朱はジゼルに宥められ、すとんと腰を下ろした。いち早く立ち直ったジゼルが、女官に応対するために扉へ移動する。

「何があったのですか? 陛下とはこの後のお茶会でお目にかかる予定のはずです。こちらまでお出でになるなんて、一切聞いておりません」

「はい。ですが、陛下はお茶会の前に皇女様にお会いしたいと仰いまして……」

 どうやら女官も困惑しているらしい。いつもきびきびと用事を片づける彼女が、これほど動揺しているのを見るのは初めてだった。

「……どういたしましょうか」

 ジゼルも女官に詰め寄るのは哀れだと思ったようだ。整った眉を下げて、様子をうかがってくる。

 明らかに銀朱を嫌っている彼女が、部屋を訪ねてくる理由などあるだろうか――しかもわざわざ茶会の直前に。だがこの場にはエセルバードはいないし、あいにく騎士も不在だ。ディアンの突然の訪問を断れる人間は、ひとりもいない。

 じわじわと湧き上がる暗い感情を抑えるため、銀朱は重い溜息をついた。覚悟を決めるしかないだろう。

「わかったわ。お通しして」

 どうせ茶会では誰の力も借りられず、肩身の狭い思いをするのだ。それがわずかに早まっただけだ。

 銀朱は腹に力をこめて椅子から立ち上がり、ディアンを迎える準備をした。すぐに扉が開き、女官に案内されて金髪の女性が入室してくる。着飾ったディアンは相変わらず実年齢より幼く見えるが、ドレスは銀朱より落ち着いた意匠だ。

 国王の后は礼に則った姿勢で迎えた銀朱に蒼の視線を向けると、年若い乙女のような笑顔を咲かせた。

「ごめんなさいね、急に訪ねてしまって。どうか顔を上げて楽にして」

 親しげな口調に、銀朱は顔を伏せたまま息を呑んだ。ゆっくりと、そして怖々と身体を起こす。彼女は視線が交わると、銀朱へにこりと微笑みかけた。

「お茶会の前に少し話がしたかったの。よかったかしら?」

「……ええ、はい。どうぞおかけください」

「ありがとう。でもすぐにサロンへ行かないといけないから、このままでいいわ。それともまだ具合が悪いのかしら」

「いえ、お気になさらないでください。お気遣いありがとうございます」

「無理をしないでね」

 ひそかに背中を流れる汗を意識しながら、銀朱は動揺を表に出さないように必死だった。ディアンは銀朱が体調を崩しているのを知っていたのだ――顔色はずっと冴えなかったが、なるべく平静に見えるよう心がけていたつもりだった。

「わたくし、あなたに謝らなければと思って来たの」

「――え?」

 突然の申し出に耳を疑う。ディアンはふと笑顔を消し、同情と謝罪をそのかんばせに灯した。

「陛下に怒られてしまったの。あなたは遠い国から見知らぬヘリオスへひとりでやってきたのに、義母になるわたくしが冷たくしてはかわいそうだと仰って……その通りだと思ったわ。本当にごめんなさい。心細かったでしょう?」

「あ……いえ、そんな……」

「これからは仲良くしましょう。実の母親だと思って、ね?」

 これは何かの間違いではないだろうか。ディアンは黒髪が嫌いで、だから銀朱をあれほど疎んでいたのではなかったのか――まるで覚えのない憎悪までぶつけられた気がしたというのに。

 銀朱自身、黒髪が嫌いだというのは単なる名目で、ディアンは桐出身の銀朱を憎んでいるのだととらえていた。それがいとも簡単に覆るだろうか。

「……そうね、とても信じられないわね。わたくし、あなたには悪いことをしたもの」

 返答に窮す銀朱に、ディアンは眉尻を下げた。いいえ、と口にしつつも、狼狽は遠のいていかない。

 これはディアンの演技ではないかと疑わずにはいられなかった。彼女も一国の王后だ。裏で銀朱の想像もつかない思惑を抱いていてもおかしくないだろう。

 ディアンは何度か首を左右に傾げると、やがてやわらかな声音で語り出した。

「わたくし、あなたと同じように他の国から嫁いできたの。知っているかしら」

 はい、とうなずくと、彼女はうれしそうに目を細めた。

「わたくしが生まれたのは、ゼグ・ヴァールというヘリオスの西北部に隣接する国なの。今はもう領土も狭いけれど、大昔には大国と呼ばれたらしいわ。けれどわたくしはとても幼い時にここへ来たから、国のことをほとんど覚えていないの。実の両親の顔も、国王になられた兄のことも」

 ディアンは銀朱との距離を縮めると、身体の前で重ねられていた手をそっと握った。

「あまりにも覚えていないから、寂しいのかさえわからなかったわ。国のことを聞いてもいまだに他人事のようで……。そんなわたくしを、陛下のお母様は実の娘のようにかわいがってくださったの。陛下には申し訳ないけれど、わたくしの方がお母様とは仲が良かったわ」

 湖面のように静かで澄んでいた碧眼が、ゆらりと波立った。それで、よほど母親とは親しかったのだろうと銀朱は察した。

「わたくしがこの王宮で育つことができたのも、陛下のために王后として身を尽くせるのも、すべてお母様のおかげよ。だから、今度はわたくしがお母様のようにあなたを助けてあげないといけないのだわ――だって、わたくしとてもうれしかったの。あなただって味方が多い方がうれしいでしょう?」

 ここで否とはねのけるほど、銀朱も愚かではなかった。ディアンの真の目的を読み取ることができなくても、事を穏便に済ませるにはうなずいた方がいいだろう。茶会後の舞踏会で、さりげなくエセルバードの意見をうかがえばいい。

「……はい。陛下のお力添えをいただけるのは、とても心強く思います」

「まぁ、よかった」

 ぱっ、とディアンは笑うと、握った銀朱の手を胸のあたりまで持ち上げた。

「わたくしたち、仲良くしましょうね。もうひとり娘ができるなんてうれしいわ。ねぇ、わたくしも銀朱と呼んでもいいかしら?」

「え……あ、はい」

 まるで同年代の少女のような行動に、銀朱は面食らう。ふふ、と目を細める彼女がエセルバードの生母とはとうてい思えない。

「わたくしのことはお母様と呼んでね」

「いえ、それは……」

「エセルバードは陛下だなんて呼ぶけれど、ビセンテやシルエラだってお母様と呼ぶのよ。あなたもわたくしの娘なのだから、陛下だなんて他人行儀なことをしないで。……それとも、本当のお母様を思い出してしまうのかしら?」

 その言葉に、銀朱は身を固くした。実の母を最後に呼んだのはいつだろうか――桐を離れる前に一度だけ面会したが、ふたりのあいだに永訣に対する悲しみはなかった。最後まで彼女が娘に手を差し伸べることはなかったのだ。

「……いいえ。そんなことはございません」

 目を伏せて答えた銀朱から郷愁を感じ取ったのか、手を握る力がわずかに強まった。

「お母様のお名前を聞いてもいいかしら?」

紗手さてと申します」

 桐独特の名称については知り得ないと判断し、銀朱は母の名だけを告げた。ディアンのくちびるが、聞き慣れない響きをぎこちなく紡ぎ出す。

「そう、サテ様と仰るのね。一度お会いしてみたいけれど……とても遠いものね。せめてお手紙だけでも送れないかしら。サテ様もあなたの様子が知れたらきっと喜ばれるわ」

 それはあり得ないと胸中で否定しつつ、銀朱は曖昧に言葉を濁した。

「返事が来るまで、最低一年はかかります。途中で紛失するかもしれません」

「あら、サドラの港まで四か月と聞いているわ。海路での流通も始まったもの。わたくしの親書として運ばせれば無事に届くわ」

「サドラの港から玄燿げんようまで、ふた月はかかるそうです。海路は天候に著しく左右されますし……」

「まぁ、そうなの? でも一度出してみる価値はあるわ」

 ね? と念を押されれば、それ以上銀朱には反論できなかった。ディアンの中ではすでに決定事項となっている。

「――ディアン陛下と皇女様。そろそろお時間でございます」

 女官の声に、ディアンは背後を振り返った。

「もうそんな時間? では、一緒にサロンへ行きましょうか」

 ようやく手を解放され、銀朱はほっと肩の力を抜いてうなずいた。侍女を背後に引き連れ、ふたり並んで談話室のある中央棟へと足を進める。

「心配しなくてもいいわ。何かあったらわたくしが手を貸すから、気楽にね?」

 銀朱は丁重に礼を述べた。これ以上にない申し出だというのに、朝よりもずっと心も身体も重い気がしていた。

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