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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第二章 太陽の国
16/52

7

 平穏で牧歌的な風景が、窓の向こうに続いている。夏空に浮かぶ雲の影が、緑に輝く大地にまだら模様を描き、涼風に乗ってゆったりと移動していた。綿毛に覆われた羊はのんびりと草を食み、燦々と陽射しを浴びた小麦の合間で人々は精を出す。

 太陽の恵みを最も授かる季節、その祭が近づくにつれて人々の顔は明るく陽気になったが、銀朱は寒風に晒されたような青白い顔をしていた。馬車の揺れに、ともすれば吐き気を催しそうになる。

 エセルバードが突如外出を提案したのは、昨日のことだ。言われるがまま銀朱は用意された馬車に乗り込み、アストルクスの王宮を離れて三時間が経とうとしていた。銀朱の体調を慮り、揺れの少ない最新鋭の車体が手配されたというが、舗装されていない田舎道では揺れが低減されているのかどうかわからない。外の風に当たれば多少は気分も紛れるだろうが、馬に乗るのだけは経験上頑なに拒んだ。

 車輪の軋む音と馬の蹄が地面を蹴る音に、ぼんやりと耳を澄ませていると、隣に座ったエセルバードが窓の外を示した。

「ごらん、もうすぐ着くよ。あれが目的地だ」

 彼の指さした先には、こぢんまりとした館がぽつりと建っていた。小さいと言っても、一貴族の屋敷ほどはあるだろう。離宮と同じ蜂蜜色の石で造られており、外観の装飾はこれといって見られず、均等に窓が並んでいる。

 ほどなく馬車は館の正面へ寄せられた。当然のように銀朱は以緒の手を借りようとしたが、先に降りたエセルバードがその役を引き受けていた。何となく残念に思いながら下車し、守人の顔を確かめてから建物を見上げる。質素な造りは、まるで巨大な箱のようだ。

 迎えに出た人々の中に、屋敷の主らしき人物は見当たらなかった。使用人の長である男と簡単な挨拶を済ませ、銀朱はエセルバードとともに屋敷内へ入る。中の装飾も華美ではなく、全体的に木を基調にした落ち着いた雰囲気だ。

 二階の日当たりのよい部屋へ案内されると、すぐさまあたたかいお茶が用意された。花や果物の香りづけがされていない茶葉だ。

 ひっそりと胸中で安堵しながら、いったいここは何なのだろうと銀朱は思考を巡らせた。王家の持つ屋敷のひとつだろうか。それならば、使用人がエセルバードに従っているのにもうなずけるし、主が不在なのも納得がいく。では、彼が銀朱をここへ連れてきた目的は何か――はたしてここで何をさせられるのか。

 今は夏の祭の準備で忙しい時期だ。よほどの用事なのだろうと紅茶で口を湿らせていると、いつの間にか姿を消していたカリンが現れ、エセルバードに何かを報告した。彼は鬱陶しげにカリンを追い払ったが、冷ややかな視線についには折れたようだった。ひとつ嘆息して椅子から立ち上がる。

「すまない、銀朱。僕は君とゆっくり話したいのだけれど、無粋で空気の読めないカリンが仕事をしろとうるさくてね。席を外させてもらうよ」

 散々貶されても、カリンはまったく気にした様子を見せなかった。むしろ早くしろと無言の圧力をかけている。銀朱としてもエセルバードとの会話にそれほど執着はないので、そう、とだけうなずき、肝心なことを尋ねた。

「わたしは何をすればいいのかしら」

 エセルバードは銀朱を見つめ、にこりと笑った。

「君の好きなことをすればいいよ」

「好きなこと……?」

 銀朱は、エセルバードの婚約者としてすべきことを尋ねたつもりだった。特に今は祭の件がある。未熟な銀朱には成すべき事が山積しているはずだ。

「どういう意味かしら」

 答えが導き出せずに銀朱が問うと、エセルバードは笑みを浮かべたまま応じた。

「そのままの意味だよ。読書をしてもいいし、ジゼルや洋と会話に興じてもいいし、庭を散歩してもいい。騎士のどちらかをつけてくれれば、敷地内は自由に出歩いてもかまわない。今はいい季節だから、僕は散歩をお薦めするかな」

「……つまり、わたしは何をしに来たのかしら」

 まさか、ただ単にぼうっと過ごせと言うわけでもあるまい――この忙しい時期にだ。しかし、エセルバードは銀朱の予想を裏切った。

「何も。強いて言うならば、休暇かな」

 休暇、とくりかえし、自分の翻訳が間違っていないか何度も確かめる。だが、それほど難しい言葉でもないので誤訳のしようがない。

「王宮は堅苦しくて猥雑だからね。反面、ここは人も少なくてのんびりと過ごせるから、僕もよく羽を伸ばしに来るんだ。明後日の午後には戻るけれど、それまでゆっくりと銀朱の好きなように過ごせばいいよ」

 呆然とする銀朱の手にくちづけを残し、エセルバードはカリンと立ち去った。覚えのある感触が右手に残る。

 銀朱がぼんやりと視線を彷徨わせると、隅に控えた以緒とかちあった。守人の青い瞳がわずかに揺らいだ。

「銀朱様?」

「よくわからないわ……」

 ヘリオスへの婚嫁が決まってから二年、銀朱は毎日習得すべき課題に追われ続けてきた。空白の時間を与えられてもどうすればいいのかわからない。

 しかしよくよく考えてみれば、それ以前はやることもなく自室で無意味に時間を浪費していたのだ。二年は飛ぶように過ぎ去ったというのに、具体的に何をしていたのかはまったく思い出せなかった。

「よろしかったら、庭をご案内いたしましょうか?」

 扉の近くにいたアーロンが、優美に目を細めて申し出た。未良の眉間にしわが刻まれたが、銀朱は気づかなかった。

「……いいえ、遠慮するわ」

 のんきに散歩するより、この身体の不調をどうにかしたい。何もしなくていいのなら、それが最優先だ。

「お休みになられますか?」

 察した以緒の言葉に、銀朱は素直にうなずいた。まだ陽は高いが、ゆったりとした服に着替えて横になるだけでずいぶんと楽になるはずだ。

 居室は王宮と同様の造りで、扉で寝室に繋がっていた。窮屈なドレスから部屋着に着替え寝台へ入ると、袖机に匂い袋が置かれる。多少は眠れる気がするので、枕元に置くのがすっかり習慣になっている。

 天蓋の帳が閉じられ、ほの暗い空間の中まぶたを下ろす。目が覚めたときにはこの不快さが少しでも軽減しているといい――そう願いながら、銀朱は身体を丸めた。 




 水面からすいと顔を出すかのように、銀朱の意識は覚醒した。すぐに暗闇に目が慣れ、どこにいるかを思い出す。帳の向こうから人の気配はせず、寝室はしんと静寂に沈んでいた。

 身体を起こして外をうかがうと、窓からは少しの明かりも射し込んではいなかった。どうやらだいぶ眠ってしまったらしい。時間を確かめたくて月を確認したが、銀朱が見られる範囲に月は昇っていなかった。

「――以緒」

 そっと、羽根を宙に浮かせるかのように、音を大気に委ねる。気づくはずがないと思いつつ寝台に腰かけて待っていると、しばらくののち居間に続く扉が叩かれ、守人が顔を出した。

「遅くなりました」

「聞こえたのね」

「気にかけておりましたから」

 苦笑する銀朱に微笑みかえし、以緒はろうそくに火を灯した。灯心の燃える音と匂いに伴い、橙色の炎が現れる。

「ご気分はいかがですか?」

「だいぶいいみたいだわ。どれくらい眠っていたのかしら」

「あと一時間ほどで夜明けでしょうか」

 夏の夜明けが早いとはいえ、銀朱は一日近く眠っていたようだ。始めはまったく寝つけずに寝返りばかり打っていたが、いつの頃からか舟を漕ぐようになったのは覚えている。だが、それからほんのわずかしか経っていないはずだった。

「起こしてくれればよかったのに……」

「よく眠っていらっしゃいましたから。エセルバード殿下も安堵しておられたようです」

「まさか、寝室に入れていないわよね?」

「ご安心ください。銀朱様の許可無くお入れすることはございません」

 そう、と銀朱は胸を撫でおろした。いくら将来の夫といえど、知らない間に寝顔を見られるなど論外だ。そのあたりは、桐でもヘリオスでも同じらしい。

 以緒の用意した水を飲み、ようやく喉が渇いていたことに気がつく。じわりと水が胃に染みこむと、思い出したかのように空腹を覚えた。眠る前は紅茶を飲んだだけなので、朝食から食べ物を口にしていないのだ。

 久しぶりの純粋な空腹感に、銀朱はほのかな喜びを抱いた。すると銀朱の感情に反応してか、胃腸が小さく声を上げた。

「何か召しあがりますか?」

「大丈夫よ。朝食まで我慢できるわ」

 立ったままの以緒を手招き、寝台に並んで腰かける。こうして身体の不調を引きずることなく以緒と会話するのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。わずかに空いた隙間を銀朱が埋めると、以緒はやんわりと目を細める。

「昨晩、洋殿が厨房の料理人と魚の塩焼きを作ったのです。ただ単に塩で焼いただけですから、銀朱様も召しあがれるのではないかと」

「塩焼き?」

「はい。私もいただきましたが、白身の魚でとてもおいしかったです」

 ヘリオスの料理は、全体的に技巧が凝らしてあるものが多い。魚でも焼いたものにソースをかけたり、または野菜や調味料と煮込んだりする料理法が主流だ。王宮ならではの贅沢だったが、そのソースや煮込みが銀朱にとって厄介だった。とにかく胃にもたれるのだ。

 銀朱の生まれ育った玄燿げんよう、特に皇宮では、濃い味付けの料理は嫌われた。素材の味を生かし、薄くさっぱりとした味を楽しむのが皇宮での習慣である。玄燿から離れればその土地ならではの料理法が発達しており、桐全域を一概には括れないが、旅の道中でも銀朱はとにかく薄味のものばかりを選んできた。

 当初はめずらしかったヘリオスの料理も、ひと月近く経つとさすがに倦んでくる。しかも贅を凝らしたものばかりなので、薄い味付けの料理にはなかなか出会えない。

「おいしそうね」

 以緒の口に合うのなら、銀朱も食べられるだろう。守人も彼女と同じく、玄燿の料理で育ったのだから。

「あと、野菜で出汁を取った鶏肉のスープも作っていました。こちらもなかなか食べやすくて、銀朱様もお気に召すかと思います。一晩寝かせると味が調うそうですから、朝食に召しあがれるかもしれません」

 そう、と銀朱はうなずいた。以緒の肩に頭を預けて問いかける。

「……でも、そんなに食べて大丈夫なの?」

「ほんのひとくち頂いただけですから。それに、最近はあまり摂っていませんでしたし」

 銀朱は顔を上げ、以緒をぎろりと睨めつけた。

「やっぱり。食べていないのね? 目を離すとすぐにこれだわ」

 以緒が目に見えてたじろぐ。身を引こうとする守人の腕を、銀朱はしっかりと捕まえた。

「いえ……その、多少は」

「きちんと食べなければだめよ? 未良は食べなくていいって言いそうだけれど、言うことを聞いていたら身体が持たないわ」

「もともと、あまり食べなくてもいい質ですから」

「だめよ。しっかり食べなさい。これは命令よ」

 命令という言葉に、以緒はうろたえたようだった。しかし、律儀にも承諾の返事が返ってきたので、銀朱は怒りを収めた。

「……そう言っても、きっと食べられないものばかりよね。わたしでさえ食べられないのだもの……特に香草が苦手だわ」

 毎食、魚の塩焼きが食卓に並べばいいのだが、そうわがままは言えない。王宮で饗される食事の献立は宮内府や厨房を預かる料理長の担当であり、銀朱ひとりの嗜好に合わせて簡単に左右されるものではないのだ。

 しかしここは王宮ではないので、厨房に指示を出しやすいのだろう――そこまで考え、ようやく銀朱はエセルバードの思惑を理解した。

「ここでは、香草をのぞくこともできます」

 銀朱の心を読んだかのような言葉に、ゆっくりと顔をあげる。守人の表情は穏やかだった。

「エセルバード殿下が銀朱様をここへお連れになった理由は、もうおわかりでしょう?」

 銀朱はくちびるを尖らせた。素直にうなずきたくない気分だった。

「殿下はおそらく、銀朱様が食事が合わないことを以前から理解されていたのでしょう。洋殿を厨房へ呼ばれたのも殿下です。毎日お越しになるのは私たちの動向をうかがう面もあるでしょうが、やはり銀朱様を気遣っての部分もあるのだと思います」

「……そうかしら」

「今は祭の準備で忙しい時です。王宮を離れる時間は惜しいかと」

 以緒が何を言いたいのか、銀朱には理解できない。エセルバードの気遣いも単なる演技なのかもしれない――彼は銀朱を利用するつもりなのだから。

「私は、エセルバード王子は話が通じるお方だと思います。ですから……どうか我慢なさらないでください」

「我慢?」

 思わぬ単語に、銀朱は問い返す。守人の瞳はどこまでも深く澄んでいた。

「嫌なことは嫌だと――国が異なりますから叶わないことも多いでしょうが、銀朱様はご自分の意見を仰っていいのです。すべてを抱えこんでしまわれて、お身体を壊されては意味がございません」

 戸惑いと罪悪感を覚え、銀朱は以緒の青から逃げた。以緒に甘えまいと決めていたのに、とうの昔に見透かされていたのだ。

「……わたしは、何かを言える立場にはないわ。それに、何かを期待しているわけではないもの」

「皇女としてのお立場を申しているのではありません。銀朱様個人として、殿下にお伝えすればいいのです。たとえば、いつも入っている香草は苦手だとか」

「そんなことをエセルバードに言って、何か意味があるの?」

 それでは単なる不満ではないか、と銀朱は思った。しかし以緒はあごを引く。

「伝えることが大切なのです」

 納得できず、銀朱は黙りこんだ。膝の上で自分の手を弄びながら、以緒の言葉の意味を考える。銀朱が口を閉ざすと、以緒もそれ以上は続けなかった。

 夜明け前の心地よい静けさの中、灯心の焦げる音と互いの呼吸がかすかにしじまを震わす。すべてが静に還る時間だからこそ、唯一存在するぬくもりが事実だった。自分と以緒は何も変わらない――等しい人間なのだと、改めて噛みしめる。

 銀朱はまぶたを閉じると、ふたたび以緒の肩へ寄りかかった。下ろしたままの髪がはらりはらりと背中を滑る。

「……考えてみるわ」

 はい、と答えた以緒の声は、白み始めた暁闇に溶けていった。

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