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晩餐は、王の食堂で行われた。銀朱の住む棟の北側にあり、エセルバードなど王子も住まう建物の一室である。二階の国王の居住区へは初めて立ち入ったが、すべての間が絢爛豪華で、他人の部屋ならともかく、銀朱自身はとうてい馴染めないだろう。
広い室内の壁には、豊かな森に実る果実や鳥獣が描かれており、蜜蝋の甘やかな灯りにぼんやりと照らされている。
銀朱の席はエセルバードとビセンテの間に用意されていた。しきたりどおりならば、エセルバードとは向かい合って座らなければならないので、たしかに配慮されているようだ。シルエラの姿もあったが、向かい側なので直接会話をする機会はないだろう。
晩餐の直前に顔を合わせたジュール――コンスタンツァの二男はそっけなく名乗っただけで、不機嫌甚だしかった。つくづく似た親子だと、銀朱は思った。
料理はすべて贅を凝らしたもので、内陸にも関わらず海の幸まで食卓に上った。桐でも皇宮では海のものが食べられていたのでそれほどめずらしくはなかったが、とても貴重なことは銀朱も知っている。
それでも、食欲の減退した銀朱にとっては何の魅力もない。次々に運ばれてくる料理をいかにして口に入れるか――完食せずとも手をつけなければ礼儀に悖るのだ。
食卓は、近く行われる夏の大祭で話が盛り上がっていた。普段社交には参加できないシルエラも特別に参加できるとあって、ドレス選びに余念がないようだ。
夏の祭は幾日にも渡り、毎夜舞踏会や晩餐会が盛大に開かれるという。社交の最盛期である夏の最後を飾るため、大勢の人間が王宮へ上り宴に興じるのだ。
――現状でさえ悲鳴を上げているというのに、はたして身体が持つだろうか。
陰鬱としながら、銀朱は料理と格闘した。蒸し焼きにした魚に添えられたソースが口に合わず、胸焼けがする。
「早くシルエラのドレスが見たいなぁ」
父親の言葉に、シルエラは目を輝かせながら答えた。
「わたくしも早くお父様に見ていただきたいわ。でも、当日までは秘密の方が楽しみでしょう? だからまだ見せられないの」
「お母様と相談して決めたのだろう?」
「そう、だからお兄様も知らないの。あっ、お母様にこっそり聞いてはだめよ? お父様にびっくりしていただかないといけないもの!」
「大丈夫だよ。ディアンはきっと教えてくれないからね」
唯一の王女だからか、シグリッドはシルエラに特に目をかけているようだった。相好を崩して娘の話に耳を傾けている様子は、銀朱から見ても和やかである。
「ディアンたちの衣装は用意できているかな」
「はい。コンスタンツァ様とジラ様も、何かお困りなことはございませんか?」
ディアンの問いにまず答えたのは、コンスタンツァだった。
「不躾を承知で申しあげますと、宝物庫にございますルビーの指輪をお借りしたいのです。誂えたものに似合う指輪が、どうしても手元には無くて……」
「あぁ、いいよ。コンスタンツァにあげよう。指輪も倉庫に眠っているより君にしてもらった方がうれしいだろうからね」
「ありがとうございます、陛下」
「ジラは? 何か困っていないかい?」
コンスタンツァの隣に座ったジラは、いえ、と細い声で応じた。
「ございません、陛下」
「ジラ様は古色な物がお好みでございますからね。陛下から頂いたものも、あまりお召しではありませんし」
どこかねっとりとした響きを伴い、コンスタンツァが言葉を挟む。彼女に比べ、ジラは柔順な印象だ。コンスタンツァの華美な気配に押され、今にもひっそりと消えてしまいそうである。
「ジラ様がお持ちの装飾品は、みな素晴らしい物ばかりでございますからね。大切に使われていらっしゃいますわ」
ディアンが笑みを浮かべる。ありがとうございます、と返ったジラの声は小さかった。
「銀朱はどうかな? もう着るものは決まった?」
シグリッドに話を振られ、銀朱は魚をつついていた手を止めた。しんと静まりかえった中、皿から顔を上げると、数多の冷ややかな視線が突き刺さる。しかし、銀朱が鈍った頭で返答に窮しているあいだに彼らの興味は失せたらしく、はらはらと食器の触れあう音がさざめきだした。
銀朱はエセルバードをちらりとうかがってから、ひとりにこやかな表情のシグリッドに応じた。
「はい。整っております」
「それはよかった。楽しみだねぇ、バード?」
「はい、とても」
満面の笑みを浮かべるエセルバードは、艶やかと表現していい。生まれてくる性別を間違えたのではないかと、銀朱でさえ疑念を抱く。
「夜だけでなく、昼間もサロンでお茶会があるからねぇ。その準備もできているかな」
銀朱は耳を疑った。しかし、エセルバードは隣で平然と答えた。
「ご心配なく、陛下」
「銀朱はわからないことだらけだろうから、君がきちんと教えてあげるんだよ?」
「わかっております」
聞いていない、と銀朱は喚きたくなった。日中も社交に明け暮れるなど、とうてい身体が持つはずがない。
だがエセルバードは当然把握していたし、おそらくジゼルもそのためにすべて手配を済ませているだろう。あまりの驚愕に、怒りよりも脱力が勝る。
「シルエラ、君もお義姉様を助けてあげるんだよ? 女性だけのお茶会もあるだろうからね」
シルエラは父親の言葉にはっと顔を上げると、くちびるを尖らせてそっぽを向いた。
「シルエラ?」
「わたくし、まだ子どもだからよくわからないもの。おしゃべり上手なコンスタンツァ様の方が向いていらっしゃると思うわ」
まぁ、と嘆息とともにコンスタンツァが反論する。
「わたくしのような者が、大切な姫君のお世話をするなんて……とてもではございませんが、力不足でございますわ。やはり、ここはお義母君になられるディアン様がご助力なさるのがよろしいのでは? サロンもディアン様が主催なさるでしょうし、主人の助けがあれば姫君もお心強いでしょう」
最も上座に近い席に着いていたディアンは、伏せていた顔をゆるゆると上げると、向かい側のコンスタンツァへふわりと微笑んだ。肩から金の髪がはらりとこぼれる。
「ええ、そうですわね」
柔和な笑みを浮かべたまま、ディアンは食事を再開する。コンスタンツァは呆気としていたが、興をそがれたのかやがて料理へと視線を落とした。
「……不慣れなこともあるでしょうが、どうかご無理をなさらずに。お疲れでしたらすべての会に出なくてもいいのですよ」
気遣わしげな声は、銀朱の右斜め向かいに座ったクラウスのものだった。周囲の印象は惨憺たるものだったが、クラウス自身は初対面から銀朱に紳士的である。今も心の底から銀朱を気遣っているように見えた。
「そうだよ、銀朱。無理は禁物だよ。エセルバードはいろいろな場所に顔を出すのが大好きだから、つきあっているととても体力が持たないからね。遠慮しないで、嫌なときは嫌だって言えばいいんだ」
それは可能だろうかと、銀朱はぼんやりと思考を巡らせた。茶会の件を知らされていなかったことといい、どこまでエセルバードを信用していいのか。
そもそも彼の目的からして、銀朱が部屋へ閉じこもるのを好まないだろう。可能な限り、公の場へ連れ出したいはずだ。
「エセルバードもわかったかな? 銀朱に無理をさせてはいけないよ?」
「存じております。銀朱の苦しみは私の苦しみですから」
わずかも悪びれない響きは、銀朱の頭上を虚しくかすめただけだった。てらりと脂をまとった白身魚を見下ろし、ひとかけらだけ何とか咀嚼する。食道の中央あたりでひっかかり吐き気がしたが、湯割りのぶどう酒で無理やり流しこんだ。
余計なことは考えない方がいい。今はただ、この場を乗り切ることに専念すべきだ。
うたた寝で癒えたはずの頭痛は、とっくに銀朱の頭部に居座っていた。
闇に沈む廊下に、黒い影が四つ踊る。灯火に頬を赤く染める横顔は、いつにも増して険しい。
それも当然だろうと、カリンは以緒の様子をうかがいながら考えた。銀朱の心労は目に見えて募っており、可能ならば晩餐に参加せずに休ませた方がいいだろう。
しかしこちらにもこちらの都合があるため、銀朱の都合にばかりかまけてはいられない。青ざめた表情の皇女を見ながら、それでも泣き言を漏らさないだけたいしたものだと感心していた。
主人に辞去を告げ、自室へ戻る途中である。カリンはエセルバードの近くに自室を与えられているが、以緒や未良は大広間がある中央棟まで戻らなければならない。王族の居住区に部屋を持てるのは騎士の特権であり、シグリッドの騎士ともなれば国王の書斎にも自由に出入りができた。
「銀朱様が心配かい?」
人の目の届かない頃合いを見計らい、アーロンがたずねかけた。前を歩いていた以緒と未良が振り返る。守人の双眸は、炎に照らされても青く澄んでいた。
「……守人として、主人を思いやるのは当然です」
「君は従者の鑑だねぇ」
くっ、とアーロンが喉の奥で笑った。未良の表情がわずかに険しくなる。
長いつきあいになるのだから敬語を使うのは煩雑だと言ったのは、アーロンだった。いつまでも畏まって接するのはカリンも面倒に感じていたので賛成したが、以緒や未良は態度を変えなかった。呼び捨てでも何でもかまわないが、こちらは変えるつもりはないと頑なだった。
そうだ、と思いついたようにアーロンが腕を組む。
「君もアストルクスに来てからは王宮に籠もりきりで、鬱憤が溜まっているだろう。今度、街へ遊びに行かないかい? いい知り合いがいてね、親交の証として僕がおごるよ」
カリンはぎょっとして、同僚の足を蹴った。しかし、蹴られた本人は気にも掛けない。以緒は意味がわからないようで、かすかに眉根を寄せて考えあぐねていた。
「どういう意味でしょうか」
「ああ、つまり――」
アーロンは親切にも桐語で続けた。
『女を買いにいかないかい、と誘っているんだ』
『な……っ!』
未良が憤慨に肩をわななかせる。以緒は瞠目して固まっていた。
『貴様は何を考えている! 無礼にもほどが……!!』
『未良』
凪いだ声が、男の怒声をたしなめた。遮られた未良は、鬼のように目を吊りあげて反論する。
『ですが、この者の発言はあまりに無礼です。以緒様に何ということを』
『騒がないでくれ。気を遣ってくださっただけだ』
以緒の驚きはすでに過ぎ去っており、静かな表情でアーロンに対峙した。
「お気遣い感謝いたします。ですが、あいにく興味がございませんので、お気持ちだけいただきます」
「遠慮しなくてもいいんだよ?」
「いえ。無粋で申し訳ありませんが」
大仰に肩を竦めた騎士に対し、以緒は丁寧に礼をした。
「それでは、失礼させていただきます」
いまだに怒りを燻らせる未良を連れて、以緒は中央棟へと姿を消した。橙の光が消えるのを見送り、ふたりは無言で廊下を引き返す。壁にある扉を開けるとその先にも廊下が続いており、面した部屋が騎士の自室だった。
居間に置かれた椅子に腰かけたアーロンは、軍服の詰襟をゆるめると悠然と足を組んだ。
「阿呆だな、おまえは」
手燭の火を燭台へ移しながらカリンが罵る。だが、彼は愉快げに口元を歪めただけだ。
「なかなか変わった反応だったねぇ。未良の方が面白かったな」
「あれが当然だろう。おまえがおかしいんだ」
「ということは、腹を立てなかった以緒もおかしいと?」
にやにやしながら見上げてくるアーロンを睥睨し、カリンはどかりとソファに身体を沈めた。
「以緒の方が冷静だということだろう」
「いくつだったかな。十八?」
「と聞いている。銀朱様と同い年だ」
「十八の年頃の男が、あんな反応をすると思うかい?」
カリンは深く嘆息した。
「誰もがおまえのように本能に忠実に生きているわけじゃない。自分を基準に考えるな」
「嫌だなぁ。性欲は生物の基本的な本能だよ。ましてや、十八の少年が顔も赤らめないだなんて、よほど老成しているか枯れているかのどちらかだろう?」
頭が痛いが、アーロンの言にも一理あるとカリンは思った。未良が以緒の反応をするならわかるが、実際には逆だった。
以緒は常時銀朱の側に控えているが、未良は与えられた部屋に籠もっていることが多く、早朝か夜にしか顔を出さない。未良の方が年上だというのに以緒に謙っているあたり、いまいち腑に落ちない点が多い。
「しかしねぇ……本当に男なのかなぁ」
「は?」
アーロンの呟きに、カリンの眉間にしわが寄る。
「馬鹿か、おまえは。採寸の際に男だったと、女官が報告しただろう」
「まぁね、体格はどう見ても男だね。声変わりは遅いようだけれど。まったく、嘆かわしいよ」
以緒は十八歳の鍛えられた男にしては細く、声も高い。顔立ちも中性的で、どちらの性を言われても納得してしまうような危うさだ。
そのため、わざわざ息のかかった女官を使い以緒の性別を確かめたのだが、どうやら単なる見識の違いだったらしい。全体的に桐人は背が低く顔の彫りも浅いため、どうしても幼く見えてしまう傾向がある。
「銀朱様に操を立てているのかな。だとしたら一途だねぇ」
「下衆な想像はやめろ」
「僕は可能性を述べているだけだよ。そもそも君が言い出したんじゃないか」
カリンが報告せずともいずれ知れたことだったが――銀朱と以緒の関係が主従以上のものではないかという疑念は、やはり捨てきれなかった。エセルバードは銀朱と接しながらふたりの様子をうかがい、騎士も以緒の動向を注視している。しかし、以緒が感情を動かすのはもっぱら銀朱にとって不愉快な事柄だけで、以緒個人の執着が垣間見られることはなかった。
「……たしかにそうだが、やはり俺には恋仲には見えない。もしそうだとしたら、どちらかが殿下に嫌悪感を抱くはずだ」
「そうだなぁ。たしかにそのあたりは割り切りがいいね。実らないと諦めているのかな」
どちらにしろ、はっきりさせないことには厄介だった。エセルバードと銀朱のあいだに恋情や愛情は必要ないが、銀朱がエセルバード以外に関心を寄せるのは好ましくない。以緒との関係性によって処遇が決まってくるのだ。
ふたりの婚姻は国同士の話であり、彼らの仲の良し悪しは二国間の国交に影響が出てくる。火種は早々に排除すべきだった。
「実らない恋ねぇ……。ジゼル嬢といい、涙ぐましいじゃないか」
カリンは思考を打ち切り、アーロンを睨めつけた。女性ならば誰もが惹かれると噂される笑みを、アーロンは惜しげもなく披露した。
「やはり彼女は君にまだ未練があるようだね。わざわざ殿下の招喚に応じたのも、君の側で働けるからだろう」
「おまえと殿下が仕組んだことだろう。ジゼルで遊ぶな」
「ちがうよ。僕たちはジゼル嬢の恋路を応援しているだけだ。堅物な元婚約者が改心してくれないかといまだに君に想いを馳せている、か弱く純粋な女性の味方なんだよ」
「無理に決まっているだろう。いくら娘想いの伯爵でも許すわけがないし、そもそも俺に結婚の意思がない」
「君こそ枯れているねぇ。友人として心配になるよ。今度僕のおごりで遊びに行くかい?」
「知るか」
乱雑に言い捨て、カリンはソファから立ち上がった。いつまでもアーロンと会話していると、頭痛と胃痛の原因が増えるだけだ。
「とにかく、ジゼルに必要以上に関わるな。わかったな」
「心配せずとも、寝取ったりしないよ」
「舌を切れば少しは黙るのか?」
怖いなぁ、と両手を上げるアーロンを無視して、カリンは隣の自室へと戻った。造りはアーロンの部屋とほぼ同じで、私物の量が異なる程度だ。軍服の上衣を脱ぎ剣を帯からはずすと、カリンはソファに身をゆだねた。
ジゼルのことも頭が痛い。なぜわざわざ厄介ごとに足を踏み入れてきたのか――エセルバードに直に依頼されても、桐の皇女の侍女など断る者がほとんどだろう。
事前に銀朱が侍女を連れてくるのは把握していたし、王宮勤めに慣れた女官を適宜あてがうのが無難だろうと、カリンがビリジェへ出立する前は意見が一致していた。しかし留守中にエセルバードがジゼルへ使いを出し、彼女はそれを引き受けた。
人選は的確だが、エセルバードの出来心が含まれていることを忘れてはならない。皇女の侍女になることで評判が下がれば、ジゼルのためにもならないのだ。
考え始めるときりがなく、諦めてカリンは寝ることにした。今はとにかく、銀朱のことが最優先である。おそらくエセルバードは何か策を練っているだろうが、本人から聞くまで内容の予測はつかなかった。




