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いざ気合いを入れて臨んだはいいものの、八人目となったエルー公爵と挨拶をする頃には、銀朱は本当に具合が悪くなっていた。締めつけた下着もだが、大広間に集まった人々の香水や脂粉、または酒や食べ物の匂いが混ざりあい、悪臭となって銀朱を打ちのめしたのだ。夜風を求めて窓際へ移動したが、結局エセルバードに支えられながら自室へと引き上げてきた。
「銀朱様」
ほとんどエセルバードに寄りかかるようにして戻った主を見て、以緒はさっと顔を蒼くした。足早に近づき、銀朱の腕に手を添える。
「銀朱様、大丈夫ですか」
切迫した声に、銀朱は守人の姿を探した。宝玉よりも美しいひと揃いの青が、すぐ近くで自分を写している。
「いお……」
「はい」
エセルバードから逃れ、以緒へ腕を伸ばす。薫物を使ってきた身として香水に対する抵抗はあまり無いが、普段気にならないエセルバードのものでさえ今は鼻につくのだ。守人は銀朱を受け止めると、そのままソファまで移動した。
「何があったのですか?」
以緒の問いに答えたのは、銀朱ではなくエセルバードだった。洋が用意した水を銀朱に差し出す。
「人に酔ったのだろうね。慣れない場での緊張もあるだろう」
「……そうですか」
腑に落ちない響きだったが、以緒がそれ以上追及することはなかった。銀朱は水を受け取ることなく、ソファの肘掛けを枕に身体を横たえた。
人に酔ったのは事実だ。だが、起因となったのはやはり周囲の驕慢な態度だろう。
予想どおり、マデュークは挨拶は交わしたもののそれ以上の会話は一切なく、エセルバードと二言三言話しただけですぐに立ち去った。四公爵や宰相とは何事もなく穏便かつ簡潔に終わったが、ジラとクラウスは悲惨だった。
ジラは口数少なく、クラウスはどちらかというと銀朱に友好的だったのだが、周りの人間が不躾に会話に割りこみ、値踏みするように銀朱の全身をくまなく検分したのだ。中にはあきらかに胸元を凝視する男もおり、あまりの屈辱に眩暈がした。エセルバードが早々に庇ってくれたからいいものの、あと少し遅かったなら銀朱は扇子でその男を殴っていただろう。
さすがに、桐では娼婦まがいの扱いを受けることはなかった。思い出すと吐き気がする。
「お休みになられますか?」
以緒の提案に、銀朱はあごを引いた。桐の茶を飲みたかったが、それよりも早く休みたかった。
「手を貸そうか?」
エセルバードの申し出を無視して、銀朱は以緒の手を掴んだ。失礼だとは思ったが、彼に気遣う余裕はない。以緒の側にいた方が安心するのは揺るがない事実だ。
「おそれいります。ですが、エセルバード殿下のお手を煩わせるまではございません」
以緒がやんわりと断ると、エセルバードの双眸がかすかに眇められた。長く繊細な睫毛が、新緑に金の影を差す。
「君が寝台まで連れていくのかい?」
「そうですが……何か?」
「いや? 君の体格ではいささか力不足ではないかと思ってね」
「お気遣いありがとうございます。これでも守人として日々鍛錬を重ねておりますので、ご心配にはおよびません」
彼は以緒を見下ろし、ふ、と笑った。その行動の意味を、銀朱が理解することはなかった。
「余計な世話だったようだね。それでは僕はこれで失礼するよ。お大事に、銀朱」
「……ええ。お休みなさい」
何とか顔を上げて答えると、エセルバードは騎士とともに自室へ戻っていった。彼らの姿が消えた途端に、泥のような疲労が全身を襲う。
以緒の手を借りて寝室へ移ると、窮屈なドレスと下着を脱ぎ捨てて寝台へと潜りこんだ。灯りが消される前に銀朱はまぶたを閉じたがなかなか寝つけず、ようやくもたらされたのは浅い眠りだけだった。
「銀朱様、おはようございます」
まぶたの裏まで、容赦のない光の矢に襲われる。白くぼんやりとした視界に涙が滲み、銀朱は寝返りを打って抵抗を示した。
「銀朱様?」
耳に慣れた明るく弾む声――洋だ。朝から元気なものだと、彼女は寝具の中からそれを聞いた。
連日の夜会で、銀朱の疲労は蓄積していた。慣れない環境のせいか熟睡することもできず、朝になっても疲れを引きずり一日を過ごしている。
癒えることなく心身を酷使するので、夜会から戻ると何もせずに寝台へ直行した。それでも訪れるのはうつらうつらとした浅い眠りでしかなく、意味のない夢を見ては目を覚ます。しかし昼まで寝室にいても、決して熟睡できるわけではなかった。
「銀朱様、起きられますか?」
「……ええ」
諦めて、銀朱はのろのろと重い身体を起こした。わずかに寝乱れた襟元を整えて寝台を降りる。
用意された盥で洗顔を済ませ、洋とともに身繕いを整えた。寝間着は桐のものを使っているが、部屋着は身体を慣らすためにヘリオス式だ。居間にはすでに朝食が用意されており、並べられた食器からは湯気が立ち上っていた。
「銀朱様、おはようございます」
以緒の挨拶に曖昧に返事をし、食卓に着く。焼きたてのパンに卵料理、豆のスープが並んでいたが、どの料理にも食欲が疼く気配はない。むしろ卵やスープの匂いに気が滅入ってくる。
到着した当初は意外にも口に合うと思った食事だったが、日が経つにつれて独特の調理法や味付けに、銀朱の胃腸は拒否反応を示していた。それに加え、連日に渡る夜更けまでの社交で身体は悲鳴を上げている。食べなければ体力が持たないが、食べても腹痛に襲われるので、どうしても口に入れる気にはなれなかった。
「……お顔の色が優れませんね」
以緒の顔が曇る。虚勢を張る気力も無かった。
「侍医を呼びましょう」
「いらないわ。疲れているだけだもの」
「ですが」
「お願い、放っておいて。知らない人間に穿鑿されるのは嫌なのよ」
事情を察したのだろう。以緒はそれ以上、医師について口にしなかった。
「なにか召し上がりたいものはございますか? ジゼル様にお願いして、ご用意いたします」
「……わからないわ……」
何か食べなければ――ちらりと食卓に視線をやったが、どれもが単なる固形物でしかなく、とても料理とは認識できない。せめて果物はどうだろうかと思ったが、常ならば瑞々しい果皮も絵の具をどっぷりと塗りつけたようにしか見えなかった。
今夜も晩餐の予定が入っている。王族のみの席だが、欠席するわけにはいかなかった。そもそも銀朱に出欠の選択権はなく、与えられた予定を必死でこなすしかないのだ。
こんなことで身を削るわけにはいかないのに――そう考えれば考えるほど、胃臓はきりりと締めつけられる。
「銀朱様、どうかお休みください」
かたわらに膝を着いた以緒が、銀朱の冷えた手を取った。
「私からエセルバード殿下に申しあげます。社交など、銀朱様のお身体に比べれば些事に過ぎません。お心を裂かれる必要などどこにあるのですか」
「……そうね、くだらないわ。でも、そういうわけにはいかないのよ」
エセルバードにはエセルバードの立場や思惑がある。彼は、銀朱をおのれの意志で選んだと話した。イシュメルと同じ瞳を持つ唯一の子孫が、太陽神の子孫と結ばれる――エセルバードはこの優位性を誇示し、他の王子との格差を知らしめたいのだ。
そのためには、彼は銀朱をさまざまな場所に連れ出して、貴族に存在を印象づけなければならない。社交は嫌だと突っぱねても、聞き入れられるとはとても考えられない。
「馬鹿だと思うわ。けれど、ここで弾かれるわけにはいかないのよ……」
握られた以緒の手を見つめ、銀朱は乾いたくちびるに歯を立てた。
節の目立つ守人の手は、昔はやわな肌に覆われていた。だが剣を持つと決めて以来、それは永久に失われてしまった。以緒自身が選択したことだが、それが銀朱にはどうしようもなく悲しかった。何度も血を流して鍛え上げられた皮ふは、銀朱を安堵させるとともに罪の意識を掻きたてる。
「……お側におります」
「嘘つき」
「本当です」
以緒は銀朱の想いも理解しているのだろう。それを宥めるように、以緒の表情は真摯でやさしい。
「せめて、もう少しお休みください。お身体を壊されては何の意味もございません。冷えていらっしゃるようですから白湯を一杯だけお召しになって、それから寝台に移りましょう」
銀朱は言われたままに白湯を流し込み、ふたたび寝室へと戻った。
旅路にあった頃は寝台で眠れるだけで喜ばしかったのに、今はその魅力も消え失せてしまった。鉛のように全身は重く、常に頭蓋全体に鈍痛があるのに、意識だけは覚醒して神経をすり減らしていく。
闇の中、持てあました時間には、しまいこんだ記憶が意図せず掘り起こされた。それがまた煩わしい。
喘ぐように浅く呼吸をしたとき、懐かしい香りが鼻先をくすぐった。銀朱が最も慣れ親しんできた香りだ。
「お邪魔ですか?」
見ると、寝台のかたわらに座った以緒の手に、錦の匂い袋があった。正装を納めた櫃に入れてあったものだ。銀朱の好みに合わせて配合した香であり、桐では好んで使っていた。
「……いいえ、かまわないわ」
寝台の袖机に匂い袋が置かれる。寝返りを打ち、銀朱は守人の顔を観察した。以緒は自分の美醜にまったく関心がないが、銀朱はすっきりと整った顔立ちが好きだった。
「昔はよく一緒に寝たわね」
銀朱が母親にかまわれずに泣いていると、以緒はいつの間にか側にいて慰めてくれた。真夜中に寝所から抜け出してきたことも間々ある。小さな子どもの熱があたたかくて、以緒と布団に入ると銀朱は安心して眠れた。
「昔のようにご一緒するわけにはまいりませんが……」
守人の生真面目な物言いに、銀朱は苦笑した。
「一緒に寝てほしいって言っているわけじゃないのよ? ただ懐かしくなって……」
寂しくて泣いてばかりいたが、あの頃はあの頃で幸せだったのかもしれない。銀朱を取り巻く世界は冷たかったけれども、以緒という小さなぬくもりがあって、それで世界は満たされていた。あのまま世界が広がらずに成長していれば、銀朱はひっそりと桐の皇宮で人生を終えていただろう。それ以上のものを望むなど想像したこともなかったのだ。
「銀朱様、お休みになられた方がよろしいかと……。目を瞑るだけでもちがいます」
「……そうね」
銀朱は寝具を顔まで引きよせると、目だけを出して以緒を見上げた。
「そこにいてくれる?」
「いつでもお側におります」
返ってきた穏やかな微笑みにうなずき、銀朱はまぶたを閉じた。香の雅やかな匂いと以緒の気配がする――それだけで緊張した心が解される。
結局銀朱が得たのはまどろみ程度だったが、ふたたび寝室から出る頃には不愉快な頭痛も軽くなっていた。