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媛君が希うこと  作者: 佳耶
第一章 邂逅
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1

 砂の混じる風が、顔を覆う布からこぼれた髪をさらっていった。

 彼女はひとり、丘の上にたたずんでいた。地平線まで広がる大地は、一面淡い小麦色に覆われている。空には雲ひとつなく、強い日光を遮るものもない。彼女の落とした影が、ぽつりと黒い染みを作るのみだ。

 太陽を避けて頭上を振り仰ぐと、雄大な青空が大地をやさしく包みこんでいた。あまりにも深く、冷厳なほどの鮮やかさであるのに、なぜか惹かれずにはいられない茫漠とした蒼穹。乾いた風に髪を遊ばせながら、やはり綺麗だと彼女は思った。

 それでも空気にはまったくの湿り気もなく、金色に映える大地も、よく見れば砂の混ざる枯れかけた草むらだ。雨に乏しいこの地では、植物は自身を緑に染めることも難しい。こうして陽射しから肌を守るために外套を身につけなければ、瞬く間に火傷してしまうだろう。

 ――これほど厳しい場所なのに、なぜこんなにも美しいのか。

 竹笛のような甲高い音に、彼女は我に返り、青空の中に小さな影を見つけて微笑を浮かべた。厚く布の巻かれた右腕をあげると、影はくるりと旋回してから、彼女を目がけて降りてくる。近づくにつれ、それが人の身長ほどある大鷲であることが見てとれた。両翼を広げると、軽く大人ひとりは隠れてしまうだろう。

 鷲は、黒茶の翼を羽ばたかせて彼女の目の前に降り立った。鋭利なくちばしに恐れることなく、彼女は翼へ手を伸ばす。やわらかい羽毛を撫でながら弧を描いていた目元は、やがて憂いをおびて伏せられた。

「……そろそろだな」

 彼女がすらりとした首に腕を回しても、大鷲はおとなしかった。小さな鳴き声が、まるで心配しているようにも聞こえる。

 額を羽毛に埋めて、彼女はまぶたを下ろした。風とともに、草のかすれあう音が鼓膜をくすぐっていった。


◇◇◇


 鳥の鳴き声がする――まるで誰かを呼んでいるような。

 銀朱ぎんしゅは陽射し避けの外套の影から、そっと空を仰いだ。晴れやかな青空には天高く太陽が君臨するだけで、綿雲ひとつさえ見当たらない。ただどこまでも深い青が続くのみだ。

 地平の果てから吹きつける風に紛れ、ふたたび鳥の声がする。煽られる髪を押さえながら首を巡らせると、北の空にぽつりと黒い影が見えた。

「……鷹?」

「大きさからすると、鷲、でしょうか」

 隣で同じように影を観察する人影が答えた。青い双眸を凝らし、鷲の行く先を見守る。影は遠くを何度か旋回していたが、こちらへ近づいてくる気配は見せなかった。

「めずらしいわね」

 この乾燥した白い草原に足を踏み入れて以来、生物の気配を感じることはめっきりと減った。太陽は一日中燦々と照りつけ、大気に雨の気配はない。たまに地平線近くで羊の群れのような雲が連なることもあったが、慈雨を呼ぶことはなかった。水場以外で鳥を見かけたことなど、五指にも満たないだろう。

 なんとなく追い続けていると、強烈な光に視界が白く灼けてしまい、銀朱は影の行方を諦めた。

「おそらく、近くに水場があるのでしょう。まだ遠いですが、こちらへ向かってくると危険です。戻りましょう」

 そうね、と小さく応じ、頭から滑り落ちそうなフードを深くかぶり直す。

 ――ここは、あまりにもちがう。

 長い旅をしてきたが、生まれた国と似通った環境には出会っていない。行程を進めるたびに驚かされてばかりだ。そして目的地に着く頃には、この景色も記憶の中のものになっているのだろう。行く先の話は何度も聞いたが、彼女にはいまいち想像が追いつかなかった。

 長い睫毛に縁取られた漆黒の双眸が、西の地平線へと向けられる。何かをたぐりよせるように注がれていた視線は、やがて気が済んだのか、ゆっくりと背後を振り返った。

「……戻るわ」

 青空と同じ色の瞳をとらえてから、銀朱は陣営へと引き返した。かすかな鳥の声が、みたび鼓膜を震わせた。


 大陸の東方に君臨するとうに、西方のヘリオスから使者が遣わされたのは、二年前の春だった。

 百年以上国交が途絶えていた国からの使節は、桐の皇宮を騒がせるのに充分な事件だった。特に両国の関係に変化が見られたわけでもない。本来ならば問答無用で追い返されるはずだが、幸運に恵まれたヘリオス国王からの書状は朝廷へと届けられ、桐の王へと手渡された。それが自分の未来を変えるきっかけになるとは、当時の銀朱は知るよしもなかった。

 異国からの書状は、両国の国交再開を願うものだった。そもそもヘリオスと桐は祀りあげる神の相違から、互いの心証がよくない。現在のヘリオス王族は神の末裔であり、彼らが王位に就いたおよそ百年前を最後に、関係が途絶えたのだ。

 それを解消しようと申し出てくる確固たる理由があり、それは桐にとっても有益だったのだろう。ひと月の後、使者は皇都玄燿げんようへと迎え入れられた。

 桐は、大陸の東に位置する豊かな国である。西は天をも貫く山脈により他国からの侵入を阻んでおり、同時に大河の源流をいくつも抱えている。山脈から流れ出た河川は国内を流れ、流域は肥沃な大地に恵まれていた。北へ向かえば厳しくなるが、気候も比較的安定しており、資源にも富んでいる。

 そのため、山脈より西の地域と率先して交易をする必要もなく、ヘリオスとの交流が途絶えてからは人の流れも乏しい。ましてや国の中央である皇都の人間にとって、髪や瞳の色が異なるヘリオス人は珍奇な存在に映り、皇宮内では後宮にいたるまで彼らの噂で持ちきりになった。

 そして、山々の木々が錦を織りなす頃、銀朱は異母兄である皇太子に呼び出され、友好の証としてヘリオスへ嫁ぐように命じられたのだ。

 その日は見事な秋晴れだったと、銀朱は記憶している。どこから吹かれてきたのか、回廊には楓の葉がいくつか舞い落ちていた。

 見知らぬ国へ嫁げと言われても、銀朱は特に失望することはなかった。人々が夢中で噂するほど、ヘリオスに興味を抱いていなかったのもある。ついこの間まで、名しか知らなかった国を卑下するほどの知識は銀朱にはなく、同時に生国への愛着も持っていなかった。

 初めてヘリオスの使者と面会した時、彼らが流暢な桐語を操ることに、銀朱は驚いた。蛮族には言葉は通じない――それが通釈だったのだ。彼らは丁寧に礼を取り、銀朱の婚嫁に対して感謝の意を示した。

 野蛮なのは、この国の方かもしれない。

 心の片隅で、彼女はそう思った。


 天幕へ戻ると、ふわりと甘い匂いが鼻孔を満たした。慣れた香りに銀朱がほっと息をつくと同時に、茶器を手にしたようが笑顔を浮かべる。

「おかえりなさい。ちょうど、お茶が入りましたよ」

 ありがとう、と答えてから、銀朱は外套を脱ぎ、背後の人物へ手渡した。背は銀朱より頭半分ほど高く、年は同じ頃で、腰ほどまである黒髪をひとつにまとめている。双眸はガラス玉のように蒼く澄んでいて、同じものを持つ桐人はおそらくいないだろう。

 その背後に現れた人物は、銀朱と同じ黒髪に黒眼の壮年の男である。二人とも腰に剣を帯びているのは、守人もりびとと呼ばれる護衛だからだ。

 幕内の中央に設けられた席に着き、銀朱は茶碗に口をつけた。さわやかな花の香りと、茶の渋みがちょうどいい。桐から持参した品だ。

「おいしいわ」

「ありがとうございます。外は暑いですから、喉が渇いてると思って」

 答えた少女は、桐から唯一連れてきた銀朱の侍女である。得体の知れない遠国に赴くのを厭わなかったのは、彼女だけだったのだ。道中、洋ひとりで銀朱の世話をしていると言っても過言ではない。長いつきあいなので、銀朱の性格や好みも把握しており、細かなことにもよく気が利いた。

「失礼いたします」

 外からの声に、守人の片方が応対する。姿を現したのは、この行列をまとめるヘリオスの人間だった。名はルッツといい、明るい茶色の髪は桐では見かけない。三十に届くか届かないかの男で、日よけの外套を脱ぐと銀朱に一礼した。

「今後の予定についてお話があり、うかがいました」

 続きをうながすと、彼は申し訳なさそうに続けた。

「ご存じのとおり、昼間は暑さのためになかなか移動がかなわず、早朝や日没後に進んでまいりましたが、若干行程が遅れておりまして……。お疲れのところ申し訳ないのですが、今日は日没前に出立したいと思います」

「そう。あとどれくらいで発つのかしら?」

「日が傾きはじめたらと考えておりますので……あと三時間ほどでしょうか」

「わかったわ」

 ありがとうございます、と男は頭を下げた。

「順調に進めば、明け方には町に入れるでしょう。明日はゆっくり休めますので、どうか今日のところはご辛抱ください」

 町に入れるということは、宿で休めるということだ。まともな寝台で寝られるのはありがたい。

 ルッツは用を済ませると、ふたたび一礼をして天幕を出ていった。よかったですね、と洋が声を弾ませる。

「出立までまだ少々時間がございます。少しお休みください」

「大丈夫よ、以緒よりつぐ

 以緒と呼ばれた碧眼の守人は、わずかに表情を曇らせた。

「馬車の中では、充分にお休みにはなれないはずです。お身体のためにも、どうぞお休みください」

「うたたねぐらいはできるのよ。それより、以緒の方が疲れているのではない? 馬に乗りながら寝るわけにはいかないでしょう?」

「私は大丈夫です」

 ゆるく笑んだ顔には、たしかに疲労は浮かんでいない。もともとあまり眠らなくても平気な質なのは知っているのが、以緒の性格上、疲れていても銀朱には勘づかせないだろう。わずかに思案したあと、銀朱は提案を受け入れることにした。

「わかったわ。わたしも休むから、おまえも休みなさい」

「お気遣いはとてもうれしいのですが……」

「これは命令よ」

 侍女は洋ひとりしかいないが、銀朱の護衛はヘリオス側の協力もある。以緒はためらったが、命令という言葉に負けたのかしぶしぶとうなずいた。

「……それでは、しばらく下がらせていただきます。未良みよしはここに残らせますので」

「未良もいいわ。下がりなさい」

「……はい」

 うしろ髪をひかれながら、以緒は未良と呼ばれた壮年の守人と退出した。その背中を見送り、茶器を片づける洋に告げる。

「洋も休んだ方がいいわ。朝まで長いわよ」

「そうですね。これを片づけたら、休ませてもらいます」

 ええ、と返事をして、銀朱は天幕の隅に設けられた寝所へ移動した。寝所と言っても寝具を敷いただけのもので、申し訳程度に目隠しの布が下げられているだけだ。だいぶ慣れたが、寝心地はよくない。

 それでも横になると、すぐにうつらうつらと眠気が襲ってきて、銀朱はまぶたを下ろした。


 くちびるからこぼれる息が白い。毛織りの外套をひきよせ、銀朱は夜空を見上げた。

 夜を徹して移動した甲斐もあり、銀朱たちは無事に町に入ることができた。宿には四方を建物で囲まれた中庭があり、このあたりではよく見かける構造だ。たいてい一階は厩や調理場になっていて、泊まるのは二階の部屋だった。

 庭に面した回廊からは、四角く切り取られた星空が臨める。夜明けの気配はまだ遠く、皆すでに眠りについたのか、あたりはしんと静まりかえっていた。

 太陽が天頂を過ぎると、次第に気温は下がってきて、夜は凍えるほど寒い。外套が今度は防寒の意味で必要だ。

 桐の都を発ってから、すでに四か月が経過している。芳しい梅の香りも遠い日々の記憶であり、そろそろ新緑のまばゆい季節となっているだろう。暦の上では季節は移ろっていても、この白い草原では実感に乏しい。まるで時間が止まっているようだった。

「……本当に、止まってくれればいいのに」

 ぽつりと呟いた言葉は、夜風に溶けていった。こぼれんばかりの満天の星々が、無言で銀朱を見下ろしている。

「以緒」

 はい、とかたわらから返事があった。回廊には、ふたり以外の姿は見あたらない。

「あとどれくらいなのかしら」

「順調に進めば、あとふた月ほどで到着するそうです」

 静かな声に、そう、と返事する。

「以緒」

「はい」

 銀朱は、視線を隣に侍る守人へと移した。中継地として設けられた場所からヘリオスの都アストルクスまで、およそ一か月と聞いている。そこで新たにヘリオス側の使者と合流し、王都に入るのだ。

 もう一度守人の名を呼び、銀朱はその青い瞳を視界に収めた。夏空のように深く澄んだ双眸は、ただ銀朱を見つめている。そこに浮かぶ色はいつもやさしい。だからこそ銀朱は、ためらいもなく異国へと足を運ぶ。

「ついてきなさい」

 守人は静かに腰を折った。

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