その2
「お母さん、僕のネクタイを知らないか?」
「なに言ってるの、もう首に巻いてるじゃない。おかしな人」
ふふ、なんて化粧をした母が声を出して笑っている。
「ほら、かんなもぼけっとしてないでご飯をちゃっちゃっと食べて学校行きなさい」
「へ……?」
「まだ寝ぼけてるの?」
母が私のテーブルの前に白米を盛ったお茶碗を置く。
「いってくる」
父が慌しく身支度をして玄関の方へとジャケットに袖を通しながら向かう。
「待ってください。お弁当」
母は巾着で包まれたお弁当箱を持って父を見送りに玄関まで追いかけ、私の耳を疑うようなことを言った。
「あなた愛してるわ。いってらっしゃい」
私の目には見えないが、たぶんキスをした。
「ありがとう。いってくるよ」
きっと弁当を持って家を出て行った。
いったい、なにが起こっているというのだろうか。
目に見えて仲違いをしていたわけではないが、目に見えないところで確実にすれ違い、二人揃って家に寄り付かずに外に恋人を作っていた両親が、なぜか愛し合っている。
「あら、かんな。まだご飯食べてないの? 遅刻しちゃうわよ」
壁にかけられた時計を見上げれば八時を少し過ぎている。
「こんな時間じゃ遅刻!」
まだ朝食にはなにも手をつけてないけれど、七時三十分には家を出て電車に乗ってなきゃいけないのに、完全に遅刻だ。
「そんな大袈裟に慌てる時間じゃないでしょう。お弁当はもうすぐ終わるから」
「お弁当なんてそんな時間ないよ。それに満員電車でぐちゃぐちゃになっちゃうし」
それでも私は毎日節約のために自分で作って高校に持っていった。斜めになっても平気な作り方にはコツがあるのだ。
「電車? なに? どこかのお嬢様学校にでも行っている夢でも見てたの?」
やーね、と母は呆れながら弁当に蓋をしていた。
「かんなの中学校は徒歩通学でしょ」
「中学……?」
はっ、として視線を胸元に落とせば、ブレザーではなくグレーのセーラカラーのセーラー服――私が中学生の時に着ていた制服だ。
「なんで私こんなの着ちゃってるの?」
「なんでって本当に寝ぼけてる? あなたはこの春、中学生になったのよ。小学校は卒業したでしょ」
母はさっきからなにを言っているんだ。
父と昔のようにラブラブ夫婦をしていたり、弁当まで作ってくれたり、そもそもこの朝食だってそうだ。私は高校生になってから一度だって朝食は食べていない。身体測定の日はスポーツマンシップに則るかのように固い意志を貫き通す熱血選手のように水さえも口にしないが、高校生になってからの私は朝は時間がないから食べていない。
「中学生……」
ちょっと待てよ。
私は高校三年生だ。
三年間通った中学の思い出もあるし、高校受験の時に腹痛を起こした記憶だってあるし、高校での三年弱の思い出だって、あまりいいものとは言えないがちゃんと持っている。
「ほら、まだ余裕があるからってのんびりしていていいわけじゃないのよ」
とりあえず、ここは素直に従っておこう。
「はーい」
高校生の今はまったく朝食を食べていないが、よく思い返せば私が朝食を食べていたのは、中学一年生の春まで。
どうしてそれがなくなってしまったのか、いまいち思い出せない。
手早く朝食を摂って、久しぶりに持つ中学生の時の学校指定の、可愛い制服の学校に通う少女漫画の主人公が持っていそうなオシャレな鞄を手にする。こういうところだけはお嬢様学校っぽいんだけどね。
「いってきまーす」
お弁当を持って玄関で靴を履いて、外に出ようとノブに力をかけた瞬間、私の世界が足元を失ったかのように、ぐにゃりと曲がって歪んだ。
まるで悪い夢でも見ていたのか、催眠術でもかけられて操られていたのか、私は朝の家から外に出たはずなのに、気づけば空は真っ暗でネオンが煌き、車のクラクションの音がそこかしこから響いている。
それだけじゃない。人の話し声や歩く音などの、いわゆる喧騒というやつの中にいた。
ぐるり、と視線を巡らせれば、この景色は見覚えがある。中学生の時に初めて訪れた渋谷の街だ。
そう遠くはなかったのだが、渋谷という世界は圧倒的な存在感を放ち、近寄りたくとも相応の覚悟を持たなければ近づくことさえ出来ない、世界の中心であるかのような象徴的な場所だった。
「楽しかったね、ライブ」
「え?」
目が回りそうなぐらい、落ち着きのない世界の中から、私に向けられた一つの声。
「もう、かんなったら呆けてー」
私は制服で渋谷には訪れたことがないので、目の前にいる子と同じようにTシャツにジーンズ姿。背中も下着もたくさん汗を吸っていて、春先だというのに気持ち悪く、肌寒い。
「そんなによかった? 私のお兄ちゃんのライブ」
特別親しい友達というわけではないのだけれど、同じクラスの女の子の兄が渋谷にある小さなライブ会場でライブをやるというので、チケットをくれて、一緒に観に来たのだ。
「うん、すごかったね」
色鮮やかなライトが目に痛く、腹の底に響いたスピーカーから聞こえた音。
歌やバンドのなにがすごいのか疎い私にはわからなかったが、夜の渋谷という憧れの場所に友達と来れることと、今まで行こうだなんて思わなかったがテレビで見て小さな願望のようなものは抱いていたライブを観るという二つの夢を、電車賃だけで簡単に叶えられるという甘美な誘惑に負けてしまったのだ。
いや、確かそれだけが理由じゃなかった気がするが靄がかかったように思い出せない。
私が呆けていると、兄が出る――バンドのボーカルではなくドラムとして――そう言ってチケットをくれた子は他の子と興奮しながら話している。
私を含めて五人で来たのだが、私以外の四人はいつも教室で一つのグループを作っている、いわゆる芸能人は芸能人でも、バンド系の音楽とそれらの歌手を愛するグループ。
筆箱の中にギターのピックなんかを入れていて、部屋には行ったことはないが壁一面どころか天井まで男が化粧した顔がアップで写ったポスターでいっぱいらしい。
「さ、帰ろう。あんまり遅くなるといけないからね」
そうは言っても、もうじき夜の十一時。いくら週末とはいえ女子中学生が渋谷の街にいていい時間ではない。
すぐ近くの駅舎に入り、私たちは週末の夜ということでこんな時間にもかかわらず混みあった電車に揺られて帰宅した。
「ただいま……」
真っ暗な家を見て、恐る恐る玄関ドアを開いて中に踏み込めば、キッチンから明かりが漏れていた。
私はここまで来て、この後なにがあったのかを思い出した。
「かんな!」
父が激昂しながらやってきて、私は頬を引っ叩かれた。
「こんな遅くまでなにをしていたんだ!」
隣近所にも迷惑になるような声で怒鳴っていたけれど、頬に感じる熱の熱さがじんじんとして、父がなにを言っていたのか覚えていなかった。
母が遅れてやってきて父を宥めにかかる。
「かんな、お風呂入ってきなさい」
「はい……」
私は風呂に入り、上がってくればキッチンからはまだ明かりが漏れていて父と母がケンカしていた。
当時の私は今のように廊下で立ち聞きしていた。
「どうして叩いたりしたんですか」
声量は抑えているが、母の声には怒りが込められているのを感じる。
「まだ中学生だぞ? それなのに深夜まで遊び歩いて」
「事前に聞いていたじゃないの。友達のお兄さんのライブに渋谷まで行くって」
冷静に聞いていれば、母は私の味方だ。
「そうは言ってもだな、子供が遊び歩くにしては限度ってもんがあるだろ」
「あの子にだって友達付き合いがあるんです。それをわかってあげましょうよ。毎週毎週ってわけじゃありませんし、今日だけなんですから」
私は母のこの言葉の期待を裏切りたくなくて、これ以降夜遊びの一切をやめて、塾や学校の文化祭の準備などの予定がなければどんなに遅くても七時には帰るようにしていた。
「だけど、今日が……いや、もう昨日だが、昨日がなんの日だったか忘れたのか?」
「あの子が忘れるわけないじゃない」
ごめんなさい。今の今まで忘れていました。今日はただの初めての夜遊び記念日じゃない。
「かんなの十三歳の誕生日だぞ」
当時の私は父が私のことを思って、色々と用意していてくれたことを後に知って夜遊びを酷く後悔したが、この時、私は父にも母にも申し訳のない気持ちでいっぱいで見せる顔を持ち合わせずに逃げるように部屋に篭ってしまった。
今の私の精神ではもう十八歳だが、よくよく考えれば十三歳が夜の十一時過ぎに渋谷をうろついていてよく補導されなかったなと感心すらしてしまうし、父の心配も頷ける。
当時の私はこの翌日の朝、冷蔵庫を開けてすべてに気づいた。冷蔵庫の中に入っていたケーキと誕生日メニューのオードブルなどが手付かずで残されていたことに。
私がそれに気づいた後、謝ろうと父の部屋に行ったら朝一で車に乗ってゴルフの打ちっぱなしに行ってしまった、と洗濯カゴを抱えて二階に上がろうとした母に言われたのだ。
その母の目元には隈が見えたのを覚えている。
私が逃げ出した後、疲れて眠ってしまった後も、ずっとケンカをしていたのだろう。
それから家族というものがバラバラになってしまったのだ。
後悔したって意味がないことぐらい、私は知らない子供じゃないが、もしもここが過去の世界だというのなら、私がここで取る行動は一つしかない。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい!」
謝ることをしていなかった私は、キッチンに飛び込んで、濡れた髪を振り乱して頭を下げて謝った。
「どうしても友達と渋谷に行ってみたかったんです。本当にただそれだけです。遅くなってしまったのは途中で抜けられなくて……こんな遅くなるって知っていたら行ってませんでした」
当時、ずっと言いたくても言えずにいた本音だ。
これを機に父は殴った私やケンカをした母と距離を置くようになってしまったし、母も今までのような父とのラブラブ夫婦っぷりもなくなり、朝の弁当作りも私の分しかしてくれなくなった。
でも、ここで私が謝れば、もしかしてすべてが変わるのではないだろうか。
「かんな、頭を上げなさい」
言われた通り、頭を上げて父を見ればおどおどと伸ばした手の行く先を失って空気を掴み、その表情は悲しげだった。
「父さんも言いすぎたし、叩いてしまって悪かったね」
母はなにも言わずに私たちを見ている。
「私が悪かったんです。まだ子供なのに夜遊びしてしまって……今後は絶対にしません」
「いや、そこまで言ってるんじゃないんだよ。ただ、子供が遅くに歓楽街にいるのは親としては不安なんだよ。わかってくれるか?」
「はい。よくわかります。それに、今日私の誕生日でお父さん、色々用意していてくれたのに」
「なんで知ってるんだ?」
しまった。この時の私は父のサプライズパーティーのことは知らないのだ。
「えっと……匂い! エビチリの!」
きっと一度も蓋を開けられていないオードブル。それも冷蔵庫で冷やされているものの匂いなどわかるはずはないし、当時のことなど覚えていないが、オードブルの定番だと思ってエビチリと口にしたのだが。
父は目を丸くしている。
母は冷蔵庫から五千円の値札のついた大きな特注オードブルをテーブルに置いた。
春巻きやエビチリ、ミートボールにフライドポテトなどの定番メニューがたくさん入っているが、一番目を引くのは巨大なエビフライだろう。
「おいしそう」
「もう夜遅いけど、食べるか? ケーキもあるぞ」
「うん」
父がひいてくれた椅子に腰を下ろす。母は菜箸でいくつかおかずを小皿にとって電子レンジの中に入れて温め、みんなでそれを突付いて食べた。
父と母と三人揃って食事をしたのは五年半振りぐらいだろうか。たったこれだけのことなのに、本当に特別に感じられる。
「かんな、明日はどこかに行く予定はあるのか?」
「ううん、ないよ」
唇についたエビフライの油をティッシュで拭って丸めながら父に応えるが、ここにいる私は十八歳の私なのだから、十三歳の私の予定など把握していない。でも記憶が確かなら翌日はどこにも行かなかったはずだ。
「よし、じゃあ、明日は買い物に行くぞ。かんなの好きな物を買ってやる。ゲームか? 人形か?」
「もうそんな子供じゃないよ。服とか靴が欲しい」
「そういうもんか。わかった、車で行こう」
家族揃って出かけるなんて当時は恥ずかしくて嫌だと思ったけれど、今の私はそれがすごく楽しみで仕方ない。
「いいのか? いつもは嫌だって言うのに」
「いいよ。だって誕生日プレゼント買ってくれるんでしょ?」
本当に大切なものを失って気づくなんて愚か者のすることだろうけれど、私は未来で気づき、この過去という場所でそれを失わずに済む手段を講じた。
私が取り戻したかった一番大切な二人の笑顔がここにはある。どんな高価なバッグやお財布なんかを持っていても手に入らないし、どんなに大金を積んでも取り戻せない心の繋がり。
ベッドに入ると、一瞬で地の底まで引き摺りこまれるような深い眠りに落とされ、そして次に目覚めた時にはまた時間が進んでいて、私はキッチンのテーブルで向かい合って座っている両親に、外から――制服を着ていることから見るに学校帰りなのだろうが、さっきまでの中学生ではなく着慣れた高校生の制服を着ている――そんな格好で家に帰って来た瞬間に、母に呼ばれて自室に入る前にキッチンに足を運べば、二人の前に白い用紙があることに気づいた。
「なにこれ? それにお父さん、なんで今日いるの? 仕事は?」
「午後を半休にしてもらったんだ。ちゃんと、かんなに話しておかないといけないからな」
「うん、なに?」
二人が並んで座っているのならば正面に座るのだが、二人が向かい合って座っているので、どちらに座ろうか迷っていると、母が重たい口を開いた。
「ずっと考えていたんだけれど、私たち離婚することにしたから」
「え?」
なに? どういうこと?
「かんなは母さんについていってくれ。俺は会社の独身寮に移ることにしたから、この家と養育費は成人するまで出すし、大学に行きたければ金銭面で苦労をかけない」
今が何年の何月なのかわからないが、私は高校のブレザーを着ているし、肌で感じる湿度から見ても夏前ということはあるまい。
母はそれに対してなにも言わない。
もう私のいないところで話はすべて終わっていて、あとは私に報告するだけという算段を整えていたのだろう。
「なあに。俺と母さんが離婚しても、俺はかんなの父親だ」
「……私、どういう反応すればいいのかな」
はは、とあまりにも突然の出来事に私の顔は引き攣ってしまった。
こんなのばっかりだ。
「嫌だって言っても離婚はやめないんだよね?」
私だって元の世界で感じていた、いつか訪れるであろう夫婦の決定的な亀裂と家族の崩壊――私の記憶では十三歳の誕生日に、父に振るわれた初めての暴力と夫婦喧嘩によって家族はバラバラになったものだと思ったが、あれを乗り越えても未来は変わらなかった。
それどころか一度は解れかけた関係を私が修復したことで、現実では離婚とまでは至らなかった夫婦関係を決定的に壊してしまった。
全部、私の愚かな行動一つ――もしかしたら、私はあれがきっかけと思っていた誕生日以前から、この夫婦は私の知らないところで離婚を計画していたのかもしれない。
「そっか……私が必死にどう足掻いたって未来は変わらないんだね」
その時、足元から世界が揺らいだ。駅のホームで感じたように、体の力が抜けて抗えない。ああ、これで気絶するんだってなんとなくわかった。
床に倒れる前に、私は「次の世界は幸せだといいな」なんて悠長なことを考えている間に意識はプツリと切れた。