その1
私は毎日、ある願掛けをしている。
誰にも内緒の、ちょっとした恋のおまじない。
朝の通学で利用する地下鉄のホームで、私は片思いの男の子と絶対に同じ車両に乗る。
でも、ここで注意しなければいけないのは決して同じ扉から乗ってはいけないこと。
そうこうしているうちに、色んな学校の制服に混じって意中の彼がやってきた。
詰襟の学ランに、丁寧に整えられ品性を漂わせる髪型に、しゅっと伸びた顎に、ぽんと突き出た喉仏。
船木雷太。趣味は読書。毎日満員電車の中でも駅ビルに入る書店のブックカバーのかかった文庫本を手にしている。
同じ学校、同じ学年だけれど私から声をかける勇気はない。だから私は毎日恋のおまじないをする。
同じ車両の隣の扉から入って、じっと彼を見つめる。――何度か不意に本から上がった彼の目と合うことがある。そうなると私にとっての最大のイベントが確定するのと同時にその日一日がラッキーデーとなる。
彼も私のことを知っている。だから私に気づいてくれれば彼は私に声をかけてきてくれるのだ。そうすればクラスが違うのに肩を並べて自然に一緒に登校することができる。自分から声をかける勇気がないから、毎日のおまじない。
アナウンスがまもなく電車がホームに入ってくることを伝えている。
滑り込んできた、すでに人がたくさん乗った電車に押し込まれるようにぎゅうぎゅう詰めにされる。スーパーの野菜売り場の詰め放題の情景とまったく同じだけれど、電車はビニール袋のようには伸びないし広がらない。
背の小さな私は父親よりも年配の加齢臭漂うスーツの背中に顔を埋めて、サラリーマンの大半が降りるオフィス街のある駅が来るのを待てば、幾分か淀んだ空気も清浄されて、開けた視界に花畑を見ることができる。
同じ車両の隣のドアの手すりの前で駅に着くまで本を読む。ずっとは集中が続かないのか、時折顔を上げては次の駅を確認したり車内を首を巡らせて確認する。その時に、彼の視界の中に私が映ると、彼は本を閉じて私の方にやってきてくれて、学校まで一緒できる。
彼とはクラスは違っても一年生の頃、図書委員をしていた細くていつ切れてもおかしくない縁が二年も続いていて、それを完全に途絶えさせないために三年生になった今も続けている。
私は忘れられたくないが、自分から声をかける勇気はない。だからいつだって彼を扉一つ分離れたところから何食わぬ顔をして眺め、気づいた彼が私の方にやってきてくれるのを待つのだ。
そして駅があと一つになった時、彼は正面の電光掲示板を見上げて現在位置をアナウンスが報せるよりも先に確かめる。
その時のアンニュイな横顔がなんとも言い知れぬ完璧な造形美できっと将来石像になっても他の物と遜色ないんじゃないかって思ってしまう。
電車が駅に止まり、目の前のドアが開き、数人の客が降りて、それよりも少ない客が乗ってくる。
「あ」
彼が私を見つけてくれた――その時の華やいだ表情は親と逸れた子供が心細さの中でようやっと親を見つけた時のような安心しきった顔。そのあどけない表情もまたいいのだ。
「こっちだよ」
手にしていた本を閉じて肩に襷掛けにした鞄の中にしまい、いつもなら来てくれるのだけれど、今日は車内で他の客の目があるにも関わらず、彼が呼んでくれた。
私は手すりから離れて、振り返った瞬間、目の前を黒髪の綺麗な背も胸も大きな、脚の長い、目の前にいるだけでその美しさに圧倒されてしまうような日本美人が私の前を通り過ぎて、彼の元へと寄っていった。
「ごめんね、一つずれちゃった」
私は彼女を知っている。三年生の秋になって委員会活動が免除されているにも関わらず図書委員を今も続けている読書好きな子。一年生の時に何度か会話をしたことがある。……私の背では届かない場所に手が届くという理由で何度か助けられ、好きな小説の話題で一時期は親しくしていた。
「船木くん、今日の宿題やってきた?」
「もちろん」
私がいくら手を伸ばそうとも、視線を投げかけようとも、私の姿は彼女の体に隠れてしまって彼の目は映らない。
なにが悪かったのだろう……?
私の初恋が終わってしまった。
学校の最寄り駅に電車が到着しても、彼は昨日まで当たり前のように私を彼女に置き換えて、私となんて一度だって目を合わさずに降りて行った。
呆けていると、どん、と背中に、隣の女子高の白い綺麗な制服を着た女の子の集団の大きな鞄にお尻を押されてよろめいて、へたり込んでしまう。
彼女たちは謝るどころか振り向きすらせずに、お嬢様学校であることも忘れて、下品な笑い声をあげながら降りていった。
私はもう立つ力も失っていて、椅子に座った海坊主みたいなサラリーマンと目が一瞬あったが、彼は気まずそうに目を逸らして、興味のない女性週刊誌の中吊り広告を見上げた。
その見出しはこうだ。
『星空うたた、芸能活動休止か!?』
果たしてこのサラリーマンは若い子に人気のアイドル歌手の存在を知っているのか。
私はもう動けない気すらしたが、気づけば次の駅で折り返して、学校に向かって歩いているのだから本能とは不思議なものだ。
「受験前の大事な時期に遅刻なんて生活態度がなってないんじゃありませんか?」
ホームルームに遅れて教室に入ると、担任教師のヒステリーが飛び込んできた。
「すみません。明日から気をつけます」
私は言って、自分の席に座った。
教室中からひそひそ声が聞こえる。
「宮代のやつなにやってんだか」
「ほら、あれでしょ? 今騒がれてるやつ」
「やっぱあれ本当なの? 噂でしょ、噂」
「やる気ありませーんってか」
「でも、宮代って頭いいんだよ」
煩わしい。
これならゴミ捨て場で生ゴミを漁るカラスの威嚇を聞く方がどれだけ心地いいか。
私には友達と呼べる人が同じクラスにはいない。今まではそれでもどうにか我慢できたのは、毎朝船木くんのことを見て、船木くんに気づいてもらえるかもしれないという思いで胸を焦がし、気づいてもらえたらどんな憂鬱な世界だって照らし出してくれるって信じていたから。どんな地獄にだって私を照らしてくれる光はあったから。
それなのに昼休み、隣のクラスの女の子が教室に来て、私の名前を呼んだ。面識のない子だったが、彼女は言伝を頼まれたと言い、私は言われた通り屋上に出た。
「宮代かんなさん、久しぶりね」
秋が終わりの気配を見せ、冬になろうとしている冷たい風が何者にも遮られることなくダイレクトに顔面にぶつかってくる。
その向こう側に、彼女はいる。
「船木くんにもう近づかないでくれる?」
「私は別に……」
「あと言い難いんだけど、毎日電車の中でストーカーみたいに彼を見ないでくれるかな」
なんで一駅分しか電車を乗らない彼女がそれを知っているんだ。――よくよく考えれば、彼女は面倒見のいい、生徒の鑑だ。さっき私がここに来るように呼び出す言伝をしたのも私と面識はなかったが、顔の広い彼女とは親しい間柄なのかもしれない。
そう考えると、電車でのことも、彼女が乗る前からずっと私が彼を見ていることも気づいて知っている人がいてもおかしくない。
毎日必ず同じ車両の隣の扉から乗り、サラリーマンの八割近くが下車して開けた視界の先に彼がいることが私の喜びで、少し読書をしてから彼は顔を上げて私に気づけば、本をしまって私のところに笑顔で挨拶しに来てくれて、一緒に登校する。
ストーカーと言われても仕方ないかもしれない。
「あなたに……なにかを言う権利があるんですか?」
私は脚だけでなく声まで震えていた。
傍目に見ても私が悪いと思うのに、どうしても素直に従うわけにはいかない。
でも、彼女に口で勝てるような気はしない。私の今までの行動も、立場も、なにも勝てる要素が見つからなかったし、ある言葉が彼女の口から出ることを恐れているにも関わらず、自ら地雷原に踏み込んでしまった。
「あります。私、船木くんとお付き合いしていますから」
読書好きで受験勉強もあるのに図書委員を続ける彼女と、テスト前でさえ電車の中では読書をしている読書好きな彼。
そこに立ち向かえる一縷の可能性を完全に潰す、公的な関係――恋人。
「……そう、ですか」
「そういうことですから、彼に色目を使ったりしないでください。あと同じ電車にも乗らないでください」
彼女は風を切って私の横を颯爽と通り抜けて校舎に戻って行った。
キーンコーンカーコーン
昼休み終了のチャイムが耳と空腹の腹に響く。
「同じ電車に乗るなってそんな無茶な」
はああ、といつもより倍深いため息を吐いて屋上を後にしようとした時、ブレザーの内ポケットに入れた携帯がバイブで震えた。
「もしもし」
「ああ、かんな? 今日はお母さん帰るの遅くなるから適当に弁当でも買って食べてね。それじゃね」
ぶちっ、と電話が切れたのか私の頭の中のなにかが切れたのかわからない音がした。
私は失恋するだけに留まらず、好きな人の彼女に虫のような扱いを受けてしまった。
教室でも私は浮いているのに、信頼の厚い彼女の息のかかった人たちに学校の内外で船木くんに近寄るなと監視されてしまうのだから、もう楽しいことなんてなにもない。
私の両親――母は不倫。父は浮気。
イメージ的に男女でそう使い分けたくなる。
私の周りの人間だけがどんどん私を置いて幸せになっている。
放課後の授業を終えて、部活動にも参加せず、親しい友達もおらず、放課後の時間を持て余している私は受験生ということを思い出してまっすぐ帰路に着くため、朝と違ってガラガラのホームで電車を待つ。
地下鉄は電車の音も響くし、目の前の線路を電車が通りすぎる時、外よりもその勢いが強い気がする。
朝のお嬢様学校の白いワンピースタイプの制服の女の子が一人、正面の反対車線のホームで本を手にして待っている。その彼女も私と同じように吹き付けてきた強風に顔を顰めて、スカートと髪を押さえる。
「ねえ、今日どこに行こうか」
今、この世で一番聞きたくない声が階段を降りて来た。
首を向ければ、船木くんと彼女が仲良さそうに並んで歩いている。手を繋いだり、腕を組んだりまではまだ至らないようだ。
「宮代さん、こんにちは」
彼はいつもと変わらぬ様子で笑顔で話しかけてくれるが、隣にいる彼女は悪鬼のようですらある。
「こんにちは……」
私はもう彼の目が見れなかった。
「船木くん、電車来るよ」
私や船木くんが乗るべき電車はあと五分は来ないのに、彼女は私に見せ付けるように彼の腕に自分の腕を絡めて、あからさまに胸を押し当てるように抱いた。うわ、大胆とか思えるわけもなく、ただの嫌悪の塊にしか見えない。
「じゃあね、宮代さん」
船木くんは困ったように――でも嬉しそうな態度を隠すことなく、たどたどしく歩きにくそうに彼女と同じホームの、一つの扉ではなく、一つの車両分離れて行った。
家に帰っても辛い、恋の楽しみもない、学校でも居場所はない、親友だってもう帰って来ない。
どうしてこうなったんだろう――。
「まもなくホームに電車がまいります。危ないですから黄色い線の内側に――」
私は眩暈がして、その場で倒れた。
▼ △ ▽ ▲
「宮代かんな……D高の三年生ですね」
「あはは、生徒手帳の写真ぶっさいく!」
女の子と頭の悪そうな男の声が耳元で聞こえる。
「女性の写真を見て笑うんじゃありません」
「これ昭和の女学生じゃん。なんだ三つ編みに黒縁メガネってってぎゃっはっはっ!」
それにしても、さっきから男の声はただの悪口じゃないだろうか。
「あまりに品がないと蹴り落としますよ」
「いや、それはもうマジで勘弁してください。俺死にたくないっすから」
確かに入学してすぐに撮影した生徒手帳の写真は三つ編みだったし、今みたいにコンタクトじゃないんで黒縁メガネだった。大好きなおじいちゃんが選んでくれたものだから、今みたいにオシャレなフレームじゃなくて無骨なもの。
「でも、これ……ぷぷぷ。ここに来たのもわかるような気がする」
耳元で煩いだけじゃなくて、失礼なことを言い続ける男の顔を見て文句でも言ってやろうと思って寝た振りはもう終わり。どうせなら飛び起きて驚かしてやる!
「ちょっと、さっきから失礼……あれ?」
腹筋する要領で勢いよく飛び起きたのだが、最低でも二人いたはずの声の主は誰もいない。だが、その痕跡は引っ掻き回され、開けっ放しにされて放置された私の鞄を見ても明らかだ。
「え、ここって」
生徒手等が盗まれていないか、一番高価な定期券は無事か、明日も使う弁当箱はちゃんとあるか、なんて確認するよりも私は今の状況に驚き、辺りを窺った。
地下鉄の電車の中だ。
そして私が寝かされていたのはごわごわした手触りの座席。
窓の向こうは暗闇でなにも見えず、乱れた髪の私が寝起きのような顔で映っている。
手櫛で髪を直し、口元からよだれが出てないかを手の甲で確認してから荷物をまとめて立ち上がった。
中吊り広告は今朝見たのと同じだし、路線図も乗るべき電車で間違いない。
でも、アナウンスがなければ他の客の姿は一人もない。
電車は変わらずに動いているし、車内の電気が点いているのだから車庫行きということはない。
急に不安になり、前の車両へと向かったが、そこにも誰もいない。ならば運転席だと思い、何度も何度も同じ景色の続く車内の扉を何枚も横にスライドさせて潜った。
「なんでたどり着けないの?」
毎日乗っている電車が何両編成なのかは数えたことはないが、十両以上は地下鉄ではそうないはずだ。しかし数えただけで十五車両分ぐらいは潜ったはずなのだが、電光掲示板は真っ暗だし、車内の広告はどの車両も同じだし……まるで『ヘンゼルとグレーテル』の兄弟のように迷っている気分だ。
道は一本なのだから、そんなことはないと思うのだけれど、試しに駅前でもらった美容院の新規オープンのポケットティッシュを座席の上に置いて、前の車両へと移動して、面食らった。
ある……私が置いたポケットティッシュが、そこにある。
はっ、として開け放った扉の後ろを振り返れば、向こう側の座席の上にもポケットティッシュと思われる白いなにかが見える。
「なにこれ」
行っても行っても同じ車両。こういうのなんて言うんだっけ?
「無限ループとか、言うんだっけ」
走り続ける電車は止まる気配はなく、どこを走っているのかもわからない。
もういっそ、地下鉄ではほとんどご法度な行為(誰かしらに嫌な顔をされる)窓を開けてやろうと座席に膝をついてのり、両端の鍵のような止め具を力いっぱい握って、心の中で「せーの」と息を整えて持ち上げてやろうとした瞬間。
「おい、あぶねーぞ」
がしっ、とごつい手に手首が掴まれた。
「きゃぁぁぁぁ! ちかーん!」
「誰が痴漢だ!」
あまりの出来事に驚いて、触れてきた男が痴漢だと思ったけれど、今の状況を考えれば痴漢でもいてくれれば心細さは軽減され……それでもやっぱり痴漢は嫌だ。
「離して!」
腕を乱暴に振って男の手を振り払い、転がるように座席の上を這って距離を置いてから身構える。
「ああ、なんだ……驚かせて悪かったな」
モデルのような長身痩躯の黒髪の男が冬になろうという季節にタンクトップに迷彩柄のハーフパンツにサンダルという夏の海にでもいそうな格好で立っていた。
これが本物の芸能人やモデルと言われたら、そうなんだと思えるぐらいには端整な顔立ちをしている。いわゆる、イケメン。
「この地下鉄で窓を開けちゃいけない」
「どうしてですか?」
警戒心を解かぬまま、私は鞄を胸に抱いて男から目を逸らさない。
「なぜ……?」
男は手を顎に当てて真剣な顔で考えている。
もしかして一般人には秘密にしなければいけないとんでもない秘密が隠されているとか。
「あの、もしも言えないようならいいです」
私はそういうのには慣れている。
あなたには教えられない――あなたには話すことではない――子供は知らなくていい――そんなことより自分のことをしろ。
そんなことを言われ慣れてきた。
「いや、そういうことじゃないんだが……」
男は尖った顎を撫でながら歩み寄ってきて、私の顎を上向きにさせて真正面から向き合わされた。
鳥肌が立ったが、男の目があまりにも綺麗だったのでつい見入ってしまう。
「俺がイケメンだから」
私は頭を後ろに倒して、そのまま勢いをつけて男の高い鼻にヘッドバットを食らわせた。
やっぱこいつは痴漢だ。間違いない。車掌さんを呼びに行かないと。
「お客様になにをしているんですか?」
カエルのようにひっくり返った男の向こうから、先ほどの女の子の声が近づいてきた。
「子供」
どこかの私立小学校の制服を着た十歳ぐらいの少女がビニール傘を持って、それで倒れた男を突付いていた。
「こんにちは、宮代かんなさん」
痴漢男と知り合いなのだろうか――いや、声の記憶は定かではないが、立場的に見て、この二人がさっき私の荷物を漁っていた二人で間違いない。
「私は、このドリームトレインのガイドのタマキです」
コンビニで買ったような安物のビニール傘を、まるでイギリス映画に出てくるジェントルマンのように両手で杖のようにして持った少女――タマキは外見に見合わぬ落ち着いた声と立ち振る舞いで私に挨拶をしてきた。
とても年下には見えないぐらいに立派。
「ど、ドリームトレイン?」
あまりの出来事に圧倒された私の口からやっと出た言葉はそれだった。
「はい。信じられないかと思いますが、ここは限られた人間のみが乗車することの許される、夢の電車です」
「夢? これが夢?」
試しに右手で左手の甲を抓ってみるが、ちゃんと痛い。
「途中下車したければ、窓を開けて飛び降りてください。私は止めませんし、電車も止まりません」
「そんなことできるわけない!」
電車から飛び降りて無事なのは洋画の中の超人だけだ。
「いってー。死ぬかと思った。なあなあ、タマキちゃん俺のイケメン指数減ってない?」
「安心してください、減るほどありません」
ひっくり返っていた男は、体操選手のように身軽に体を捻って文字通り飛び起きた。
ちなみに私のおでこも相当痛かったのだからお相子と言いたいが、セクハラ痴漢男に対して私は正当防衛を働いただけだ。
「かんな、わりぃ」
立って並ぶとタマキと名乗った少女は男の胸下までしか身長がない。小さいのではなく、男が大きいのだ。
「馴れ馴れしく呼び捨てにしないでくれる」
「おう、わかった。かんな。俺の名前はソール。よろしくな」
「外人? それとも芸名?」
「ソールは昔の記憶がないんです。だから、こんなちゃらんぽらんなんです」
タマキが表情一つ変えず、振り向くこともなく、傘の持ち手で的確にソールの顎を下から小突く。
「いぇーい!」
ソールは今時珍しく、ダブルピースに白い歯を覗かせて子供っぽく笑った。
「ソール、私の仕事の邪魔をするというのなら、蹴り落としますよ」
「タマキちゃん、俺はいつだって真面目に女の子を口説くんだ」
「その舌、切り落とします」
「冗談です。ほんと、マジで勘弁してください。ちゃんとタマキちゃんも俺の愛妻候補に入ってるから」
ソールがタマキの肩に腕を回して、頬に唇を近づけ、それが触れようかとする瞬間、ソールの口に傘の柄が突っ込まれた。
「電車内での忘れ物で一番多いのは傘ですが、良い子は決してこのような真似をしないでください。このような迷惑な乗客がいてもです。わかりましたね」
誰に言ってるんだって思ったら、どうやらタマキは私に言っているのではなくソールに言い聞かせていた。
「こほん。とんだ邪魔が入りましたので、改めて説明させていただきますが、このドリームトレインは選ばれた人間のみが乗車することを許される特別な夢の電車です」
確かに今ここにいることは夢みたいだ。
なにかの創作作品で読んだことがあるが日本の地下鉄の中には普通の客が入ることのできない線路がある。封鎖されたりした、本線から脇に逸れた線路はもしもの時の避難経路となっていたり、かつて地下鉄を掘っていた時に出来たスペースだったりする。
もしかしてこの電車が走っているのも、そんな特別な場所であるのなら、外に明かりがないのも、駅がないのも頷ける。
「選ばれた人間?」
「はい。電車の中に特別な強い思い入れがある人――心当たり、ありません?」
「タマキちゃんの言い方だと今の世の中それじゃあ通じないんだよ」
いつの間にか復活したソールがモノクロ映画のチャップリンのように傘を杖に見立てて肩に当てて持っている。
「今は鉄道マニアってのがたくさんいるから、電車の中に~とか言っちゃうと、乗り鉄になっちゃうんだよ」
「電車は最初から乗るものです」
「そういう頑ななところも嫌いじゃないけど、今時の女子高生には通じないから、俺流に説明するよ」
こほん、と咳払いをして、ソールが今まで見せたことのない真面目な顔をした。さっきまで優しい顔をして「痛くないからねー」と笑顔を見せていたのに、死ぬほど痛かった歯医者さんを思い出した。右手をあげたって「あとちょっとだから」だし、その時のマスクと額につけた鏡の間の細い目は得物を前にした猛禽類の目だった。
「ぶっちゃけ船木って風が吹いたら飛んでいっちまいそうなもやしみたいな男に恋をしてただろ?」
「な、なんでそれを」
顔が、ぼっと熱くなって、すぐにへなへなと恥ずかしさもなにもかもが萎んでいった。
私は彼女に負けて船木くんを取られてしまったのだ。私がもっと積極的にアプローチをしていたら、違う未来があったかもしれないのにって思うと情けなくなってくる。
「俺はなんでも知っているが、知らないことが一つだけあるので教えてくれ。かんなの下着の色を俺のこの目に焼き付けさせてくれ」
「そんなことさせるか、馬鹿!」
鞄を振りかぶって、思いっきり顔面を殴ってやった。
「ははは、冗談だよ、冗談。おー、いってー。でも、ほら表情が柔らかくなっただろ?」
「……他にやり方ってもんがなかったの?」
「これには俺の褒美もあわよくばってのがあるんだよ。な?」
片目を閉じてウインクをする。本当にアイドルみたいなことが似合う男だが……正直、こういうちゃらちゃらした男は大嫌いだ。
私が好きなのは、クラスの男子のようにちょっとしたことで大騒ぎしたり、馬鹿笑いもしない、船木くんのようなしっかりとしていて、落ち着いた雰囲気の男。
「とまあ、選ばれるのは電車内で恋をした人間ってことだ。あとは、まあ他にも細かな条件があるんだけれども、それは後々」
「そう……それなら、確かに私は電車内で読書をしている彼の横顔に一目惚れした」
それは間違いない。
一年生の春のことだ。
入学したてで友達が出来るか不安に思いながら、変に浮いたりしないように注意を払って毎日学校に通い、読書が好きだったが高校受験の際に一切本を読まなくなってしまい、高校入学と同時に反動的に今までの分の本を大量に購入して何日徹夜しても読みきれないまでに積んでしまった。
でも、入学したばかりの学校で休み時間に読むのは暗い人間で、クラスの中から浮いてしまうのは明白だったので必死に我慢をして、毎日欠伸を堪えていたが、本好きな私の欲望を満たすために春の委員会決めで女子の図書委員に名乗り出た。そして最初の委員会の集まりで私は船木くんに会ったのだ。
夕方遅くなった時など、同じ方面に帰ることと、本好きな私たちは互いに、クラスでは出来ない好きな小説の話をして、彼は毎朝通学途中、サラリーマンがたくさん降りる駅から学校の最寄り駅までの短い間でも電車の中で読書をしていることを教えてくれた。
「電車の中心で愛を叫んだわけだな」
「叫んではいません」
「迷惑になるような行為はしてくれるな」
「……女二人で総攻撃ってピュアなハートの持ち主の俺は傷つくぞ」
胸を押さえて大袈裟なリアクションを取って転がったソール。本当に自由人だ。
「で、私はこれからどうなるの? 早く帰らないと……」
言って、その必要がないことを思い出して言葉は尻すぼみになって消えていった。
「どうしました?」
心配してくれてるわけじゃないのだろう。タマキの声はソールを相手にする時と違って、どこか他人行儀で、感情が一切のっていない。
「早く帰っても、私を待ってくれてる人はこの世には誰もいないんだ」
はは、とはにかんで見るも、口から出る笑い声も、意識して作った笑顔も、どちらも引き攣って震えていた。
そう思うと、朝の電車の中でよろめいてしまったように、誰かにぶつからなくても足元がぐらつき床に座り込んでしまう。
「強がる必要なんてないんだぞ」
「強がってなんて……」
強がる必要なんてないんだ。
私は誰からも心配なんてされないし、相手にもされない。誰に対してでも張る見得を持つことも、必要もない。
「それが後悔ですね。かんなさん、あなたの望んだ家庭はどんなですか?」
「望んだ家庭……?」
「よく思い浮かべてください」
顔を上げて涙でぼやけた目でタマキを見れば、やっぱり表情一つ変えない年齢に見合わぬ女の子が私を冷たい目で私を見下ろしていて、まるで洗脳でもされてるかのようにタマキの言葉に脳が抗えない。
「毎日家でご飯を作って待っていてくれるお母さんとちゃんと毎日帰って来るお父さん……私はそんな家族が好きだった」
「ささやかですけど、幸せですね」
そんな当たり前の日常が私は好きだった。
「行って来いよ。取り戻して来いよ」
ソールが私の前にしゃがみこんで手を差し伸べてきた。
「未来から来たお助けロボットのタイムマシンでもあるっての?」
「似て非なるものならちょうど持ち合わせています。ソール、案内してあげてください」
「了解っす!」
ソールに手を掴まれて、男の強い力で立ち上がらされる。
「いいか、かんな」
「かんなって呼ぶな」
「次までには直しておいてやるから、まずは俺の話を聞け。かんなが一番幸せだったと思える時間を頭に思い浮かべて、あの扉を潜ってみろ」
「でも無限ループじゃない」
「いいから、やって見ろよ。かんなは無駄だと思ったことはしないのか? 時間が経てば伸びて元に戻る髪の毛は切らないか?」
「そんなわけないじゃない」
「そういうことだ。もしかしたら次に切ったら細胞が老化して伸びにくくなるかもしれないだろ?」
すごく嫌な例えだ。女子高生にする例えでは絶対にない。それなら髪じゃなくて雑草でもいいじゃないか。
「試せばいいんでしょ?」
「タマキちゃんは仕事だけれど、俺はそうじゃない」
そもそも仕事ってなんなのかわからない。
こんな無人の電車で私しかいない客をからかうのが仕事なのだろうか。
「俺は可愛い女の子の味方だ」
顔を近づけてきたので、鷲掴みにするように手の平で押し退ける。
「はいはい。もうわかったから近づかないで。本当に警察呼ぶわよ」
「警察など怖くない!」
「じゃあ、あの子を呼ぶわよ」
「タマキちゃんはダメだ。怖い」
本当にソールとタマキの関係ってなんなのだろうか、本当によくわからない。
「よくわからないけど行ってくる」
さっきまで浮かない気分だったのに、ソールと話していると悲しいことも、辛いことも、正直どうでもよくなってくる。
「自分に負けるなよ」
今さっきまで泣いていたことすら忘れて、私は目を擦って扉を開く。