催促
「だが、稚拙だな……」
一同を精神的拘束から解放するかのように、栄都は呟きながら奥へと歩みを進めた。
栄都が何を言っているのか理解出来ないでいた道明だったが、続く栄都の仕草を見て、どうやら壁の塗り方について言っているらしい、と気付く。
栄都は壁に顔を近づけ、あるいは指先で触れながら慎重に奥へと進んで行った。
「開けても構いませんか」
結局、間仕切の奥には扉が二つと二階へと続く階段があるだけだった。この家に占める部屋の割合としては、さほど多くはない。
「ええ、そちらがトイレで、その奥がお風呂場になってます」
「フム、こちらも白ですね」
「え、ええ」
フム、栄都は一瞥しただけでそちらにはたいした関心を抱かなかったようで、再び壁に視線を戻した。
「百六十といったところか……ならば百三十……子供、息子さんか」
道明は栄都の目的を会得する事が出来ずにいた。なので「息子がいるのか。だったらそうかもな」と境生が栄都の言葉を受け、更には返答した事が、道明にはとても意外だった。
「おい、こっちを見ろ」
ガラス窓の前で境生が言った。
「ふむ、そちらはスプレーか」
「ああ、半径四十ってとこだろ。幾つだ?」
「十一か十二」
「小六か、有り得るな」
境生と栄都の会話は歯車の様にきっちりと噛み合っていた。しかしやはりそれは不自然だった。少なくとも道明にはそう思えた。意味の分からない会話など、獣の鳴き声と変わらない。そうはさせない、これは僕の物語なのだ――道明は、おいてけぼりを食らうのはごめんだと境生に詰め寄った。
「ちょっと、ちょっと、先生。さっきから二人で何について話しているんですか?」
「ん、ああ、ここをちょっと見てみろ。いいか、よーく、だぞ」
「そこ、ですか」
道明が白く塗られたガラス窓に顔を近づけ、目を凝らすと、そこには薄い筋がいくつか、ドームの屋根のように弧を描いて並んでいた。その丸みを帯びた筋の群は、床から百六十センチメートルくらいの高さに幾つも重なり合いながら並んでいる。
「あの、これが」
「壁の方はほとんど刷毛、のようだね。水性だったのかな」
今度は栄都が道明を顎で促す。
道明が栄都の傍の壁を見てみると、こちらも百六十センチメートル付近に細かい刻みのようなものが見て取れた。
「ここを境に上と下では塗りの粗さが違うだろう」
「粗さ、ですか。まあ、そう言われるとそんな気もしますが」
なるほど、さっきの会話は身長の事か。でも、そう思いついたなら二人で色々言うよりさっさと青葉に確認すれば良いのに、と道明は思う。しかし、栄都と境生の欠落した会話が、これまで幾度も話を切り出す機会があったにも関わらず、そうはしなかった青葉を促したのも事実であったようで、道明が尋ねようとした瞬間、それまで男たちの会話を黙って聞いていた青葉が諦めたように語り出した。
「哉来です」
「ふむ、それで何時からですか」
「ニヶ月前、になるかと思います」
はじめは小さな物だけだったのです。それに、元々白が好きな子で……。だから気にしなかったのです。身体を締め付け、絞るように言った青葉の左上腕に刺さった己の淡い右爪が痛々しくて、道明は青葉から目を逸らした。