探偵
道明が境生の日本一妖怪退治事務所で助手として働き出してから、今日で既に二週間が経過していた。今のところ、道明が仕事に、境生に慣れる気配は、無い。
日本一妖怪退治事務所がある周辺は細々としたビルが、まるで計画性を感じさせない配置でひしめくように建ち並んでいた。それらは、躾を忘れられた子供が積み木箱をひっくり返し、片付ける事をせずにただ部屋の片隅に押しやった状況にとてもよく似ていた。その中で、最も運の悪かった積み木が日本一妖怪退治事務所のある共栄ビルである。
共栄ビルは三階建てであったが、目の前の細い道路を除く周囲全てを、共栄ビルよりもずいぶんと高いビルに囲まれており、従ってプライバシーと日光は望むべくもなかった。隣接したビルとの隙間が、階が上がるつれ狭くなってゆくのは、三方向を囲むビルが共栄ビルに向けて傾いているのか、それとも共栄ビルが上階にいくに従い広がっているのか、それは境生にも分からなかった。しかし、「このビルには何か惹き付ける力がある!」と彼は思ったし、その事に非常に満足していた。勿論それはビルと言う建造物にとってはありがたくない話である。しかし真実がどうであれ、共栄ビルが悪い噂までも引きつけてしまっていたのも事実で、過去に建築物調査団体が三ヶ月に及ぶ調査を行なっていたところ、調査団全員が原因不明の眩暈に襲われたりだとか、ある時は共栄ビルだけが揺れていて、それを見た人は、まるでビルが蠢いているとしか思えなかっただとか、年に数回共栄ビルには誰も入ることの出来ない幻の四階が現れるなどといった類の噂までいれるとキリが無く、今では立派な『いわく』つき物件と化していた。
とはいえ、都心から程近く、立地としては決して悪くなかった。『いわく』はむしろ都合が良かったと、その事をネタに大家と直接家賃交渉した境生は、自分の着眼点の良さ、つまり家賃の安さを良く道明に自慢していた。確かに事務所として共栄ビル三階ワンフロア全てを貸しきるために、境生が大家に対し払っている対価は、道明にはにわかには信じられない程に安かった。しかも共栄ビルの一階と二階は現在借り手がおらず、必要であれば借り手が現れるまで自由に使って良いとまで言われてる。家賃月額十万円という事実は、悪い噂などの類が嫌いな道明が、事務所移転を境生に訴える事を諦めさせる程に安く、だからせめてそういう噂が立ち難く、また消え去りやすくするために道明は、ビル周辺を掃除して綺麗にしたりだとか、綺麗な花を植えたプランターを周辺に配置してみたりだとかを試みたのだが、効果は全く無さそうで、未だにビルに入っていく道明の姿を見る周囲の眼には深い拒絶が宿っていた。このビルには雨が良く似合う、いつしか道明自身もそう思うようになっていた。
そもそも道明が境生の元で働いているのは、彼自身の意思ではなく、彼の父親の意向が大きく関係していた。道明の希望を叶えうる勤め先を父親が見つけ出し、半ば強制的に道明を送り出したのである。職業についてさほどの関心を抱かず、また知識もないままに育った道明は、この事についてそれなりに納得はしていたものの、やはり完全に自分の意思で決めたとは良い難く、そして、その事が道明を余計に辛くさせた。道明は威厳もあり村の長でもある父親の事を尊敬し信頼もしていたが、それも今や危うい。
「先生は、父とどういう知り合いだったんですか」
街に来てからの重い雰囲気から逃れるようにに、道明は思いついた疑問をそのまま口に出した。
「ん、いや、全然知らなかったよ。おまえの事を頼みに来た日が初対面」
「父が? いきなり?」
「おう、いきなりうちの息子を鍛えてくれって頼みこまれてな。ま、俺様クラスになると、他人の助けなんてこれっぽっちも必要無いが、助手の一人もいないと格好がつかないってところもあるからな」
「ああ、確かに先生クラスなら助手なんて足手まといですよね」
どうせ仕事も無いし給料的に、と続けそうになり道明は慌てて口を噤む。しかし父が言ったとはいえ、境生に助手など本当に必要なのだろうか。道明は父の判断に疑問を感じていた。本当に助手なのか、それとも……
「それとも監視する必要が……」
「ん、何だ?」
「あ、いえ、何でもありません」
慌てる道明をよそに、境生は視線を空に向けた。
「ふん、お前は幸せ者なんだぜ」
「ですね。月に三百時間も先生と一緒に行動できる上に」
「そうそう」
「お給料まで貰えるなんて」
「うむ」
「月給五万円だからって文句なんて全く言えない」
「そうだ、その通り!」
「訴えるなんてもっての他ですね」
「……え」
「あ、いえ、何でもありません」
「だ、だよね」
「でもね先生、今時妖怪退治なんて絶対、絶対流行りませんってば。妖怪なんて居ないんですから。いや、現代では意識すらしてもらえない。その、折角の先生の、あ、溢れる才能が勿体無いですよ!」
道明は他者へ物事を伝える際に発生する責任を充分に理解していた。例えそれが常識であったとしても、自ら観察、あるいは確認した事象でない限り、出来るだけ断定する事は避けていた。だが、そんな彼も、相手が境生である場合に限り、断定する事が相応しくない事項に関しても躊躇無く断定する事が出来たし、思ってもいない事を言う事だって出来た。この時、道明の心が痛んだのは、境生に対し嘘をついたからではなく、嘘をつかざるを得ない環境下にある己が可哀相だと思ったからである。
「まあ、確かにな」
遠くを見つめる瞳の奥に、微かな悲しみをたたえながら、狭い車内で境生は呟いた。時代は変わったのか……
「うん、やはり今のトレンドは占い師だな。あんた死ぬわよっ、てか。道明、ちょっとやってみろ」
道明は深い失望に襲われはしたものの、境生の事務所に勤め出して過ごした二週間が、彼の中に多少の免疫を作っていたようで、何とか冷静に言葉を返す事に成功した。
「先生、もうそれ、ちょっと古いですよ。しかも占い師が軽トラで街中を宣伝してまわってるところなんて、僕は見た事がありませんし」
「そうか。そうなると後は、そうだな、教祖様的なやつかな」
「だから! トラブルを解決したいだけなら、普通に探偵で良いじゃないですか」
「――探偵だけはダメだ! 探偵だけは……」
境生が苦悶の表情を浮かべた丁度その時、二人の後方すぐ傍で一台の黒い大型車が、静かに動きを止めた。
ようやくその車に気付いた道明と境生が振り返ると、既に機敏な運転手によって後部座席のドアが開かれているところだった。
道明がこれほど近くの車の気配に気付かなかったのは、境生と言い争いをしていたからというだけではなく、あまりにも高級な、音にに関する技術の粋を集めたその車の性能によるところが大きい。境生の生涯収入を全部足しても買えるかどうか分からないであろうその高級車のドアには、惜しげも無く『菱川探偵事務所』と、これまた高級そうな、金箔で処理された文字列が並んでいた。
センスは悪いのかもしれない。そう思った道明だったが、颯爽とその車から降りてきた人物には確かに車の価格に見合うだけの風格が備わっているように感じた。