苛立ち
道明は普段から周囲に敏感だった。意識はしていない。偶々、そういった環境下で育ったというだけである。しかし結果として道明は己の危険察知、情報収集能力については少なからず信頼しており、常ならばそれは、体力と引換えに多少の安心感を道明に齎すはずであった。
しかし、この時ばかりは一向に気分が落ち着かずにいた。必要以上に尖った神経が、その矛先を道明自身へも向けていた。すべてはこの街のせいだった。
販売開始と同時に応募が殺到していた街。事実、道明が二ヶ月前に通りかかった時は、大層人が居たのを覚えている。
開放的過ぎるスタイルが日本に馴染むのかと懸念した人もいた様だったが、それは杞憂に終わった。
街造りを手がけた会社の社長は、新しい試みと豪快な性格から、ビジネス色の濃いニュース番組でも取り上げられ、成功は当然の事だと豪語した。反感をかいながらも、隙のない街造りが人気を不動のものとし、社長は自信に満ち溢れた顔を惜しみなくマスコミに晒した。評判が評判を生んだ。当選した人々の笑顔と興奮に満ちた顔が全国へ映し出された。
そして矛盾した現在――
全てが道明を苛立たせていた。
「確かに妖怪の出る条件は満たしている……」己の言の葉によって、更に膨らみあがった憂鬱さが、痩せぎすな道明の存在感を狭い空間から一層削り取っていた。
自分がこの空間から消え去る前に、道明は勇気を出し、境生へ提案をした。
「先生、もう、もう帰りましょうよ」
道明の声からはいつもの明るさが剥げ落ち、湿り気のある鈍った声が車内に充満した。
助手席で座席を倒し、長期戦を決めこんでいた境生は「何言ってんだ」と呆れながら道明を見た。境生にとって現在という時間は、昂揚と弛緩とが混在した、彼にとっては珍しく充足した時間だった。だから帰る気などはさらさら無く、ただ面倒そうに道明に言った。
「ここに来てまだちょっとしか経ってないだろが。良いから、ほれっ、教えた通りに言えって」
「でも……」
絶望に打ちひしがれている道明とは逆に、期待に満ちた表情で周囲を窺っていた狐蔵境生は、助手である道明からのシンパシィが得られていない事実に対し、改めて苛立ち、声を荒げた。
「いいから、早く、言え!」
「そ、そんな」
生来、予測と素早い察知によってリスクを徹底的に排除し、消去法によって残された道だけを進んできた道明だったが、必ずしも選択が苦手というわけではない。可能な限り選択の余地を減らす努力、つまりは正確な情報摂取と状況判断を忘れないよう心がけているだけだ。しかし、全ての物事に対して確実性を持った筋道が見えるわけでないし、回避が間に合わない事だってある。そのような事は今までに幾度も経験してきたし、今もそうだ。この場所に来て以来、生きた心地のしなかった道明もようやく覚悟を決めた。
自らに見い出した小さな勇気、あるいは蛮勇の灯火か。それらが、絶望と屈辱によって塗りつぶされぬよう必死に、道明は必死に声を搾り出した。
「よ、妖怪、妖怪退治は如何ですかー……。ご家庭内における各種トラブルの原因は全て妖怪の仕業です……。ええと……当方が退治致しますのでご遠慮なくお申し付けくださーい。な、なんと今なら半額キャンペーン実施中でー……す……」
白い軽トラックに搭載されている、スピーカーというフィルタを通した道明の声は、その憔悴をいささかも遮られる事なく、やがて街に吸い込まれていった。微かに残る余韻が道明に一層の恥辱を掻き立てる。
「うーむ、おかしい。五割引なのに誰も寄って来ないとは……五割引きだぞ、半額だぞ、ありえないだろこのお得っぷりはっ」
境生は右肘をさすりながら、何度も信じられないとつぶやいた。
「先生、もう勘弁してくださいよ! これ、絶対避けられてますって。普段はここ、結構人通りあるんですから」
「はあ?」
「てか、妖怪なんて言ったら普通の人は怪しんで近づきませんって!」
「ばっきゃろう、追い詰められた人はこう、なんか感じるものなんだよ!」もし、そんなふうに困った人が居たら、助けてえじゃねえか、力になりてえじゃねえか……、と言うのが境生の主張であったが道明にとってそれは単なる言い訳にしか聞こえない。だから道明は賭けた。帰ろうと、僕を救ってくれと――しかし、その望みは叶う事はなかった。