桃色
境生が雅家のインターホンを押して乾いたベルの音が短く響いたあと、暫くしてからゆっくりとドアが開いた。
玄関という空間からするりと抜け出してきた彼女の姿は、ぼんやりとした夜の闇の中にあって強いコントラストを描いていた。境生が初対面した時と同じく、今回も白の衣服に全身を包んでいる。
「あら、おじさん、今日は遅いのね」
「おじ……、ちょっと、哉来君、というより君の事で、聞かせてほしい事が出来てね」
「何かしら」
「今日、有紀先生に会って哉来君の話を聞いてきたんだが、今は雅ちゃんも白い上履きだそうだね」
「ええ、そうよ。白って好きなの。嘘つかなくて済むもの」
「嘘?」
「ええ。私目が悪いの。知ってる?」
「すまん、聞いた」
「良いの。私、嘘嫌いだから」
「その、良かったら白と嘘にどんな関係があるのか聞かせてもらえるかな」
「ええ、いいわ、昔ね……」
正直に話すのを考えているのか、それとも記憶を手繰り寄せているのか、境生には判断できなかったが、少女にとってそれはあまり話したい内容ではないように思えた。
まだ、私が横浜に住んでいた頃ね――少女はそう言って、頬にかかった髪を指先で弄った。
「雅ちゃん、明日の卒業式はどんな服で行くの」
「あ、さとこちゃん。私はねぇ、白いフリルのついた服で行くよ。お母さんがね、明日のために買ってくれたの」
「うわー、良かったね。そっかあ、じゃあ私も白い服でいこっと」
「お揃いだね」
「うん、あ、だけど、嫌?」
「そんな事ないよ。嬉しい」
「本当、良かったあ。じゃあ、約束だね」
「うん、約束」
そこまで話すと雅は玄関を背にしてしゃがみこみ、目の前にある小さな石を手に取ると、手の平でコロコロと転がしだした。
境生は嘘を嫌っている雅が悲しかった。同情ではない。嘘がいけない事だと理解するだけなく、この年齢で己を強く戒めている雅。その存在が少し悲しく思えたのだった。
「無理に話さなくても良いよ」
「良いの、おじさんに話すと楽になる気がするから」
「そうか、それは光栄だ」
弱さと決別するように、雅は手にしていた石をそっと地面に戻し、話を続けた。
「それでね、嘘ついちゃった」
「嘘」
「そう、嘘」
「雅ちゃんの嘘吐きっ」
「え、何、どうして」
「何よっ、とぼけないでっ。昨日、一緒に白いお服で来ようねって約束したじゃないっ」
「だから、この服を……」
「何、言ってるの。どう見てもその服、ピンクじゃない。もう雅ちゃんなんて嫌いっ」
「あ、待って」
「さとこちゃんはね、お揃いが好きだったの。色んなものをお揃いにしたわ。それで私達、良く双子に間違われたんだぁ」雅は悲しそうに笑った。
「さとこちゃんは一人っ子だったのかい?」
「そ。私もさとこちゃんも一人っ子。だから姉妹ってのに憧れていたのかもね」
手についた泥を払いながら、雅は素早く立ち上がり境生に言った。
「おじさんは兄弟いるの?」
「うーん、どうだろう。おじさん、孤児だったらしくてね」
「え、じゃあ親も」
「ああ、物心ついた頃には栄都と一緒に育てられてた。まあ、あいつは親いるけど」
「へー、栄都さんと一緒に」
「ああ」
「だから仲が良いのね」
「まさか」
おどけたように肩を上げて答えた境生に、雅は小声でごめんなさいと謝った。
「気にする事ないさ。雅ちゃんはご両親が好きなんだね」
「うん、パパもママも大好き。でも、あの時だけはちょっと嫌いになったかな」
雅は笑いながら背後の扉をチラリと見たあと、唇に人差し指を当てて「内緒よ」と言った。
お母さんはさとこちゃんのお母さんとお話ししてたから、私達が傍で何を話していたか知らなかったのね。
「あら、雅、どうしたの?」
もう私はその時、何をどうして良いか分からなかったし、段々悲しくなって、気持ちが昂ぶって。今思うと、単純に怒ってたんだと思う。いえ、きっとそう。
「ねえ、ママ、今日のお洋服……これは白じゃないの?」
「ええ。今日だけはピンクをね」
「どうして……。ピンクなんて買っても、私には分からないのに」
「雅、そんなこと言わないで。あなたの目はもうすぐ治るわ。先生が仰ってたの。治療法が見つかりそうだってね。だからその時、いつか目が明瞭と見えるようになったとき、あなたに今日のお写真を見て欲しかったの。色とりどりに写ったあなたの姿を」
「……」
「きっとあなたも今日のピンクの服を気に入ってくれるわ。だって、とっても似合っているもの」
「……ありがとう。……でも、でもっ、目が治るまでは白だけでいさせてっ」
「そっか、それで……」
「おじさんが悲しい顔しないで。あ、やっぱりこれでさっきのとおあいこ」
「オッケー、了解」
境生は雅の前で大げさにオッケーサインを作った。
「あ、それからもう一つ。哉来君の家に行った事とかあるかな、そうだな、二週間くらい前に」
「ええ、行ったわ」
「そのとき何か言われた?」
「今の自分の姿はどうだ、気に入ってくれるかって聞かれた」
「ほう哉来君もなかなかの直球ボーイだな。それで、雅ちゃんはなんて答えたの」
「うーん、良く分からないって答えた。お部屋も白っぽかったし、その時は哉来君も白っぽい格好していたから」
「なるほどね。うん、うしっ、今日は遅くまでありがとな」
境生が立ち去ろうとする気配を察した雅は、境生の袖を掴み、俯いて聞きにくそうに言った。
「ねえ。哉来君が学校に来なくなったのは私のせい、かしら。私、もしかして彼の嫌がる事、何かしたのかしら」
「うーん、多分逆だよ」
「逆?」
「もうすぐ哉来君も学校に来るようになるから、そしたら直接聞いてみるといい。私の事どう思ってるのってさ」
「そんな事……聞けない……」
「はは。お母さんの言ってた通りだ」
顔を上げて不思議そうに見つめてくる雅の頬を、境生は指で優しく触れる。
「君はピンクが良く似合う」
「もしかして私、赤くなってるの?」
再び俯いた雅の横で境生は立ち上がり、雅の頭を二度撫でた。
「ああ、益々かわいくなった。目が治ったら鏡を見てみるといい」
雅は小さい頬を膨らませて、境生を睨んだ。
「ははは」
「ねえ、哉来君、学校に来てくれるかな?」
「お兄さんに任せとけって」
今なら『お兄さん』も受け入れてもらえると思った境生に、雅は優しく笑顔で答えた。
「ちぇ、残念」