焦り
翌日、夕暮れと共に、哉来と雅の担任である東雲有紀が待ち合わせの喫茶店に到着した。
有紀は予め電話で聞いていた入り口近く窓際の席に二人の男が座っているのを確認すると、お一人ですかと聞いてきたカウンターの女性に軽く会釈をし、二人の待つ席へと近づいていった。有紀の地味すぎるグレーのスーツにとっては、黄昏の光りだけが唯一の装飾だった。
「あの、狩夜道明さんでしょうか」
「あ、東雲有紀先生ですね。すみません、お忙しいところをお呼びだてして」
道明は立ち上がると有紀に挨拶をし、二人の向い側の席をすすめた。
「いえ私は大丈夫です。それより哉来君の事で聞きたいことがあるとか」
そう言いながら有紀は、ビニール地に少し堅めのソファーに腰掛け、対面の二人を観察した。
一人は男にしては線の細い体つきで、見た感じ真面目そう。でも、どこか犬のような感じを受ける。有紀は初対面で人を動物に例える癖があった。これは記憶という作業を簡易化すると共に、人見知りしやすい有紀から緊張を取り除く効果も持っていた。もう一人は……と、そこで犬と判断された道明の発言によって有紀の思考は中断した。
「ええ。その、学校なんかでの様子を伺えたら、と思いまして。あ、こっちは僕の上司の狐蔵境生です」
「どうも。日本一妖怪退治事務所を経営しております、狐蔵境生です」
上司と紹介された男は、そう、狐だ。ただ狡猾さは感じない。でも、何かが……と、そこで有紀は改めて境生の発言を思い出す。ようかい?
「え、ようかいたい、何ですか」
「あ、いえ、探偵みたいなものですのでお気になさらず」
道明は有紀に名刺を渡そうとしていた境生の手から慌てて名刺を奪い取り、不満気に何か言おうとする境生を制し、有紀に笑顔を向けた。
良く分からないまま、疑惑を孕んだ表情の有紀だったが、道明が注文していた有紀用のコーヒーが届くと、ウェイトレスと道明達に小さくお礼を言い、話を続けた。
「あの、ご承知かもしれませんが、哉来君は現在、登校拒否というか」
「ああ、その辺りの事情は知ってます。青葉さん、あ、哉来君のお母さんですね、その方に依頼されたものですから」
道明は砂糖のビンを持ち上げ、有紀に要りますかとジェスチャーで尋ね、有紀は頭を下げてそれを断った。ティーカップを袂に引き寄せ、しかし、飲まずにその湯気の向うに写った自分を、焦点の合わないままに見つめていた有紀だったが、やがて手を離して言った。
「そうでしたか。やっぱり、お母様は学校、いえ、私を疑ってるのですね」
「は? いいえ、別にそんな事は仰っていませんでしたけど」意外な返答に慌てて道明は言う。「あの、どうしてそう思われたのですか」
「いえ、先ほども菱川探偵事務所の方が来られて、その、色々と聞かれたものですから」
また、あいつか――「ああ、栄都って奴でしょう。あいつは馬鹿ですから、あいつに何を言われようと気にすることはない」いえね、本当にあいつって馬鹿なんですよ。それに、人の仕事の邪魔しかしないんですから、とそのまま延々と栄都の悪口を言いそうな境生に歯止めをかけるべく、道明は有紀に「この人とその人の事はとりあえず置いといて、まあ、ともかく、そう言った誰が悪い、みたいな話は全くなかったですから」と説明した。
「はあ」
「僕らはただ最近特に哉来君の様子がおかしいので、何か解決のヒントになるようなものがないか調べているだけです。決して先生を疑っている訳ではありません」
見知らぬ男達の訪問、自分への疑惑に対する疑心暗鬼、それらを完全に消化する事は、今の有紀には無理だった。が、おぼろげな罪悪感と身勝手な希望が彼女を突き動かした。
「そう、でしたか。分かりました。私に分かる事であれば……何でも聞いて下さい」
「ありがとうございます。あ、でも変に構えず、気付いた事があれば教えて下さるだけで結構ですので」それじゃあ、と何を質問するか考えていた道明の隣で、境生が身を乗り出す。
「哉来君は入学当初から白い上履きを履いていた様ですね。何故だか知ってますか」
「はい。哉来君のお母様からどうしてもとお願いされたので。一応、規則では青と決まってはいるのですが、学校としても特に強制するほどの事でもないですし、白でもかまいませんと返事いたしました」
「どうしてお母さんは白の上履きを履かせる様頼んだのかは知ってますか」
「ちょっと理由までは」
「そうですか」
ふむ、青葉さんが……境生は背もたれに体重を預け、ぼんやりと虚空を見つめた。その姿を確認し、道明が発言した。
「あ、あのっ、それが原因で苛められてたって事はありませんでしたか」
「いえ、それはなかったと思います。教師の目には届かない部分もあるかもしれませんが、私なりに哉来君のお母様から相談をされて以降、ずっと注意して見ていたのです。それでも何もありませんでした、本当ですっ」
「あ、だから有紀先生のことを疑ってるわけでは……。あの、すみません」
打ちひしがれた助手に変わって、境生が尋ねる。
「哉来君のお母さんから受けた相談ってのは聞いても構いませんか」
「あ、お母様から聞いてなかったのですか」
「ええ」
「実はその哉来君の上履きですが、妙に汚れて帰って来た事があったらしく、苛めがあってるのではないかと連絡がありまして」
普段の有紀であれば、少しでも他者のプライベートが関わる事は安易に発言しなかった。しかも、更に自分の立場を危うくする可能性のある内容である。しかし、彼女にとってこの事を話すのは二回目で、しかも一回目はつい三十分程前に話したばかりである。相手は有名な菱川栄都だったしその知り合いであるならば、という思いがあり、境生の質問にも素直に答えた。
「ああ、それでしたら苛めではありませんよ」
「え、そうなんですか」
「栄都に聞きませんでしたか?」
「いえ、聞いていません」
栄都さんなら言わないだろうな、道明はそんな気がした。
「まあ、それはちょっとした事故みたいなもんです。その事については先生は何も心配無い」
「それは……」
「ええ、実はですね、これが哉来君の雅ちゃんとの甘い」
「先生」そう言って道明は境生の腕を掴んだ。
「良いんですか?」
「む。有紀先生、今のは忘れてください」
「あの……、雅ちゃんって私のクラスの……」
「あ、いや、その」
「関係ないかもしれませんが、うちのクラスには雅ちゃんといって、もう一人白い上履きの子がいるんですよ」
「それは……」
「一ヶ月ほど前に転校してきた子なんですけど、哉来君の近くに住んでる子なんです。哉来君が学校に来なくなって、ちょっと寂しそうに見えました。だからもしかしてと思ったのですが」
「え、彼女、今、白い上履きなんですか」
「あ、やっぱり雅ちゃんもご存知なのですね。そうです、彼女も最近白い上履きを履いてるんですよ」
道明にとって特に驚く事実ではない。だが、何かが引っ掛かる。そしてそれは境生も同様だった。
「先生は先ほど、強制するほどではないと仰いましたが、規則から外れるのは難しいのではないのですか」
「ええ、まあ。でも雅ちゃんの場合は正当な理由がありましたから」
「正当な理由、ですか」
「ええ、ほら、雅ちゃんって生まれつき目がちょっと弱くて、色をあまり認識出来ないでしょう。ですから、上履きも目立つ様にとの配慮があったそうです」
「ちょっと待ってください」
「はい?」
「その、雅ちゃんの目が弱いとは、どういう症状なのですか」
「ああ、なんでも薄い色は全て白っぽく見えて、区別がつけ難いとかって聞きましたけど。軽度の全色盲、だったからしら」
「そうか、それであの娘は、白っぽいって言ってたんだな……。うし、もう一度話しを聞いてみるか」
「でも先生、雅ちゃんは関係ないんじゃ? 時期的に」
「もしかしたら白く塗り出した時期より学校に来なくなった時期が大事なのかもしれん」
「え、ああ、そうか。確か雅ちゃんは一週間ほど経ってから哉来くんと会話している。と言う事は哉来君は部屋を白く塗り出してからも学校に行っていたのか」
「うむ。有紀先生」
「は、はい」
「哉来君が学校に来なくなったのは正確にはいつからですか?」
「二週間前です」
「ちなみにこの事を栄都には?」
「いえ、言ってません」
もしこの事が何か関係していれば、境生が有利かもしれない。ようやくチャンスが巡ってきたのだ。だが、学校に来なくなった時期がどう大事なのか、それが分からない。しかし、いずれにせよ僅かな可能性に縋るしか境生に勝ち目はないのかもしれない――そう思った道明の隣には「あいつ何を焦っているんだ」と俯き不満気に呟く境生がいた。
「先生?」
「ん、ああ」
我に返った境生は、立ち上がり有紀に向って言った。
「有紀先生、今日は色々と教えて頂きありがとうございました」
慌てて道明も立ち上がり、有紀にお辞儀をする。
「あ、いえ。それよりも哉来君のこと、私からもお願いします」
大の大人が順番に立ち上がり、深深と頭を垂れている姿は周囲の注目をさほど集める事なく終了し、残された伝票は道明の手に無事到着した。