伝承
「これでよし、と」
リビングに据えられた柔らかなソファーに座りながら、連絡先をメモ帳に書きとめ終わった道明は、勢い良くパタンと閉じて、変わりについ先ほど青葉に差し出された紅茶を手に取った。
「あの、お砂糖は」
ガラスにシルバーで装飾されたテーブルの向いには、青葉が静かに腰掛けている。
「あ、いえ。このままで」
道明は、紅茶の味や香などを少し苦手としていたが、この時初めて、紅茶も美味しいと思った。
「あの……」
僅かな衣擦れの音を立て、青葉は道明の方に向って身を乗り出した。押し殺したような声に、道明はいやおうなく緊張する。
「あの、先生方はやはり、その、何か見えたりするのでしょうか。栄都さんには悪いのですが、どうしても気になって」
「え、えと、まあ、それなりに」
「やはり……それで、その、や、哉来は何かに憑りつかれていたりするのでしょうか」
恥かしさは残っていたものの、それを上回る不安に付き動かされるようにして、青葉は道明に聞いた。
リビングと、つい先ほど少年が通ったであろう廊下を隔てた扉の付近を見ながら、どう答えるか思案していた道明だったが、思いきって答えた。
「ええ、といっても、憑くというより操られてる感じでしょうか」出来るだけ感情を込めずに道明は言ったが、その言葉を聞いた瞬間、絶望を隠そうともせず、青葉はソファーに沈みこんだ。
「青葉さん、もしかして、何か見えたのですか」
「いえ、見えたという訳ではありません。ただ、何か感じたと言うか……」
「そうですか。えーと、青葉さん、青葉さんはこの土地に伝わる言い伝え、古い伝承の事を知っていますか?」
「……はい、知っています」
そう、たしか椿姫ですよね……
――千三百年以上も前に、この辺りを支配していた豪族、畠山小連が正室、椿姫。とても嫉妬深く、妾達を激しく恨んでいた。毎日執拗に多量の鉛白粉を塗らせては、鉛白の毒性により病み、そして死んでいく妾たちを笑っていたという。一方、姫自身は夫でもある小連が好んでいた色、血のように燃える紅の、艶やかな着物ばかりを着用していた。そんな浅ましい椿姫に対し、小連の心は益々離れていった。どうしても首領の気を惹くことが出来なかった彼女は、やがて彼女自身の子、我が子の血を使って染めあげた、深紅の着物を創ろうと試みる。しかし、椿姫の思惑を知った妾の一人により、その企みを知らされた小連が、すんでのところで椿姫を殺害。最後は、自分の血飛沫を全身に纏い、死んでいったとという――
「え、ああ、良くご存知でしたね」
この街に道明たちがやってきたのは、血なまぐさい伝承が残っていたからだった。それは、少しでも妖怪退治という名目のバックボーンを作り上げようとする営業活動の一環、苦肉の策でもあった。もしかしたら何かに使えるかも、という境生の思いつき発言がこの街に来た一番の理由で、道明自身はそのことに関しては全く期待していなかった。だから、青葉のような女性が伝承の細部まで詳しく知っているのは、少し意外だった。
「この住宅街の建設プランが上がった時に調べたんです。そういった謂れを好まない人は多いですから」
「ああ、なるほど」
「でも、どうして。椿姫に照らすなら、あれは他人を白色にするのでしょう? でも哉来は自分を塗ってるんです。いえ、それ以前に哉来は男です」
そう、確かに変だ。「ま、まあ、こう言った話は時代や時に合わせ、容易に変容しますから」だからでしょう、とりあえず道明はそう答える事にした。
釈然としないながらも青葉は「でしたら! 幾らかかっても構いません、とにかく退治してください。あなた方は……退治屋さんなんでしょう」責めるような眼差しが道明を捉えていた。
弱ったな、どうしよう。妖怪退治屋としてはありがたい話ではあったが、伝承をここまで信じきっている青葉の真剣な眼差しを見て、その事が良い事なのか悪い事なのか、道明には判断出来なくなっていた。
ひとしきり逡巡した後、道明は「それがそう簡単にはいかないのです」と、少しずつ説明を始めた。
「その、こういった場合ですね、まずは結び付きを弱めないといけません」
「結び付き?」
「ええ、おそらくこの家には、椿姫を呼んでしまうような、何かがあるのでしょう。まずは、それを探し出す必要があります」
「すぐには分からないのですか」
「申し訳ありません」静かに瞼を落し、一呼吸した後に、再び開いた道明の瞳には覚悟を決めた、力強い意思が宿っていた。
「ですが、少しお時間を頂ければ、必ず見つけます」
「うむ! 良く言った」
「え、先生?」
振り返った道明の視線の先には、片手を上げながらリビングに入ってくる境生の姿があった。
「あまりに静かなドアだったので、お気づきにならなかったかな。青葉さん、すみませんが勝手に上がらせて頂きました」
「あ、ええ、構いません。今、お茶を用意しますので」
「どうぞお構いなく。それに、事務所に戻って調べたい事もありますので」そういうと境生はあごをしゃくり、道明を促した。
「あの、それじゃあ、御馳走様でした」立ち上がった道明は何かを言いたげに青葉に目をやったが、すぐに向き直り、境生とともに玄関へと向かった。青葉は二人の背中に向け「どうか、哉来の事、お願いします」と涙を浮かべて言った。振り返った境生は、きっと解決してみせます、と力強くうなずいた。
玄関を越えて見送りに来ようとする青葉を制し、二人は軽トラックに乗りこんだ。玄関前で深々と頭をたれる青葉の姿が、道明にはなんだかやけに小さく見えた。