街
梅雨の訪れを知らせる黒南風が、舗装された道路に残る僅かな粉塵を、容赦無く巻上げていた。
陽光を遮る陰雲の下には霧のような埃が層を成し、真新しいはずの街からじわじわと光を奪っていく。
先程からそんな霞みがかった街中を、一台のとても古い、二人乗りの小さな軽トラックが、あてもなく這いずり彷徨っていた。
使い古されたエンジンの音は暴風に混じり、小さな悲鳴となって遠くまで運ばれていた。大気を伝わる振動は、やがて細切れにされ、それでもたっぷりと余韻を残しながら、その震えを止める。そして車も動きを止めた。
運転していた狩夜道明はすぐさま周囲を窺い、深いため息をついた。車内に溢れた魂の抜け殻が、古い車体の隙間から街へと滲み出し、風に運ばれ緩やかに拡散していく。
人の街。人の居ぬ街。見えぬ街。
突如、大気は急速に動きを萎めた。先ほどまでとはうって変わり、今度は静けさが染みるように広がった。
風が止み、動きを止めた埃塵が大地へ引き寄せられ、静かに街へ堆積していく。惰性も慣性も消えさり、時間すら動きを止めたような静寂が訪れた。
道明はこの街の異質な変化に戸惑い、思わず足にしていたアクセルペダルを強く踏み込んだ。刹那、静寂が支配しかけた街に、耳を劈く甲高い車のエンジン音が鳴轟する。道明は少しだけ安心した。
「なんだよ、停まるのか動くのかどっちだ?」助手席でダッシュボードに足を投げ出し座っていた境生は、運転席の道明を短く睨んだ。
「すいません。ちょっと足が疲れただけです」道明は軽く頭を下げながら、目の端に映り込んだ境生の腕の動きに意識を奪われた。境生は薄っぺらの草臥れたベージュのトレンチコートの裾あたりに、先ほどからせわしなく手のひらを擦りつけている。コートについた無数の皺をのばしているのか、たんに緊張し、手にかいた汗を拭っているのか、道明には判断出来なかったが、いずれにせよその行為と清潔感の無い服装に、小さな嫌悪感を感じていた。
「こら、ちゃんと前を見ろ! ぼーっとしやがって。まったく、最近の若い奴は危機感が足りないんだよな」
「……」
道明は境生の年齢を知らなかったが、おそらくは自分よりも十歳くらいは歳上だろうと思っていた。詳しくは聞く機会も無かったし、今後も特に聞く気もないが、恐らく三十五歳くらいだろうか。人の年齢なんて知らなくても困ることなんて無いと思っていた。少なくとも今のところは。
道明は生来、他人にあまり興味を持てない性格だった。幼い頃から閉鎖的な村で父と二人暮しをしていたせいで、他人にどこまで関わって良いのか、どう関わるべきなのか、それを知らなかったという方が正しい。何れにせよ、結果として他人への興味よりも、相手との距離を置く事を優先していた。とはいえ、決して人付き合いが苦手という訳ではない。幾つものペルソナを着ける事に苦はなかったし、柔らかな人当たりは好感を持たれる事が多かった。ただ深入りだけはしないようにしていたし、させないように生きてきた。
道明は自分の話題を避けるように、街に意識を集中させようとした。普通車に比べ、はるかに重いアクセルペダルから、ゆっくりと足を外し、道の脇にのそりと停車させると、ギアシフトをパーキングにいれ、暗い視線を再び街並みへと移した。
道明の視線の先、振興住宅街、ニューカメリアガーデンエリアは、半年前にオープンした建売住宅の街である。規模は全百戸と決して巨大ではなかったが、それでも垣根のない開放感あふれるカントリースタイルと、それを支える最新型セキュリティシステムとが話題となり、各メディアで大々的に宣伝された。若々しい木々によってディスプレイされた充分に広い街路や、徹底したバリアフリー。ユーザビリティを強調した明るい街並みは、訪れる人々におおむね良い印象を与えていた。
道明も例外ではなく、この街に来た当初はごく自然に感心していた。
道路に沿って植樹された木々。決して運転手の邪魔はしないが、それでいて上手く自然を主張する配列。ハリウッド映画に出てくるような小奇麗でどこか西海岸を思わせる街並みは、日本においては多少の違和感を与えるはずだが、多くの場合、それは良い方向へとして受けいれられた。
だが満たされた環境と矛盾した現在の静けさが、街を忌むべき存在へと変えていた。人の居ない街……
いや、この街にも人は居るのだ。居ないはずがない。ただ道明には見えないだけで。
覚悟を決め辺りを見回した道明だったが、ため息を重ねただけだった。
常ならば人が居るという事実を知っているだけに、人が見えないという現実がより道明を憂鬱にしていた。
絶望、もしくは恐怖か――正常な判断が出来ず、答えを捜し求め、道明は空を見上げた。
その視界には静かに蠢く曇天が見えるだけだった。やたらに黒い暗雲は魔物の大きな口のようであり、体に纏わりついてくる湿った風は、その吐息でしかない。例え頭上の暗雲を越えたとしても、その先にいつもの太陽が控えているなどとは、今の道明には到底思えなかった。確かめる方法はないだろうかとフロントガラス越しに空を見上げていた道明もようやく諦め、視線を大地に戻した。道路の緩やかな起伏が、細かく、細かく蠕動していた。
このポンコツ車め。道明は動悸を押さえ、身も絶え絶えにアイドリングしている車のハンドルを小さく叩いた。振り下ろした右手にある小さな痣がやけに疼く。
「どうした、居たのか?」
「いえ……、何でもありません」
「なんだよ、気を抜くなよ」
「あ、はい、分かってます」
二人乗りの古い軽トラックが、恨みをぶちまけたように騒々しいエンジン音とはうらはらの、時速十五キロメートルというスピードで、この街を徘徊しだしてから既に一時間が経過していた。蓄積された疲労が、道明から徐々に冷静さを奪う。焦りが道明を蝕んでいた。