初恋
「一緒の方角なのね」
学校が終わり、ようやく緊張から開放され、のんびりと周囲を見渡しながら帰宅していた雅は、照度を落しかけた太陽と肌寒い風の抜ける河川敷の綺麗に刈り込まれた芝生の上に、一人で座りこんでいる哉来の姿に気付き、声をかけた。
「え?」
「家」
「ああ、うん、そうみたいだね」
雅が哉来に話かけたのは、新しい学校で初めての授業があった日の事で、雅が落した消しゴムを哉来に拾ってもらった時に言った御礼の言葉以来の事だった。その時の哉来も、今同様無愛想だったが、雅は不思議を哉来に好感を持った。それは、彼独特の孤独感が、雅に何処か親近感を抱かせたからかもしれない。
二流河川とはいえ、新興住宅街に相応しく、両側に幅二十メートル程の遊歩道、ベンチ、また所々には子供用遊具までが整備された河川敷にしては、その時は人通りが少なく、だから、ちょっと大胆になった雅は哉来のすぐ横にちょこんと腰をおろし、哉来と同じく体操座りをして、無遠慮に哉来の顔を覗きこんだ。
「哉来君だよね、何してるの」
「……」
「あ、それ上履き。だけど、ちょっと汚れてるね」
雅の事などあまり気にしていない様子で俯きながら、手にしていた上履きを見ていた哉来は、顔を上げ、雅を見た。微かに密度を変えた大気の流れが、哉来の細く艶やかな髪を静かに揺らす。少しだけ目にかかった髪の隙間から、哉来は訝しそうな表情で「僕が汚しているんだ」と言い、再び視線を自分の足下に移した。
「え、どうして。お靴、嫌いなの?」
哉来の手にしていた上履きに手を伸ばし、汚れを指でなぞりながら、雅は聞いた。
急に視界に入りこんできた、自分と同じような、だけど、確実に違う他者、滑らかで何故か触れるのを躊躇わせるような、そんな腕に驚き、意識を誘われた哉来は、つい「好きじゃないよ。だからこうして汚してるんだ。じゃないと新しいの買ってもらえないから」と、無口で他人と話す事が苦手な彼にとっては珍しい、素直で率直な気持ちを口にした。
「今度こそ皆と同じのを買ってもらえるかもしれない」
「ふーん、そうなんだ。私は好きだけどな、そのお靴」
「え?」
制御下に戻りつつあった意識が、再び急速に昂揚し始めた哉来は、「これが?」と靴を指差し、自分を落ち着かせるための確認を少女に求めた。
「うん、私も真似しようかなって」
「ああ、うん、でも多分無理だよ」
「どうして」
「うちの学校は規則には結構厳しいんだ。だからよっぽどの理由が無い限り、規則通りに青い靴じゃないといけないと思う」
「あなたにはあるの、その、よっぽどの理由っていうのが」
少女から顔を背けながら、哉来は「うち、金持ちだから」と悲しそうに呟いた。
「そっか、残念」
「君は他人と違う事が怖くは無いの」
「私は、うーん、どうだろ。でも……」
雅は再び哉来の手にある上履きに手を伸ばし、その汚れを払った。哉来は、静かにその行為を見守っていた。
「でも、便利じゃない。探す時とか」
そう言って微笑んだ少女の顔は、哉来が忘れかけていた笑顔を、彼に思い出させるのに充分だった。
「君は優しいんだね」
それは、感情の溶け出したような、少女にとって見た事のないような、そんな笑顔だった。
「な、何言ってるの」
「ありがとう」
「私は本当の事を言っただけよ」
雅は、それ以上は何も言えず、哉来も何も必要としていなかった。しかし、ただ並んで座っているだけでも、その時の二人は満たされていたし、初めて感じる感情も心地よく受け入れていた。