解放
「早く始めたまえ。いつまで僕を待たせるんだい」
「お前がわざわざオレを待っているって事は、他の見物客はどうやら外れだったようだな」
「答える義務は無いが、まあそういう事だ」
「いい気味だ。良し、じゃあ始めるか」
そういうと境生は少女の前で身を屈め、少女を見つめた。少女は目前に現れた境生を見ても、あまり動じた様子は無かった。どこか他人を拒絶している感じで、物怖じせず境生の顔を真っ直ぐに見つめ返していた。
「お兄さんは狐蔵境生といってね、妖怪退治を専門にしてるんだ」
一瞬の沈黙の後「え?」と僅かに表情を動かせ、境生を見返した少女の瞳には、拒絶の上から新たに疑惑の層が積み上げられ、それは皮肉にも人形のようだった彼女に、少しばかり人間らしさを与えていた。境生は気にせずに話を続ける。
「それで今、安友家にちょっと悪さをする妖怪が住みついていてね、それを退治しに来たってわけ」
「おい、その馬鹿な説明はやめろ」
スピーカーを通しノイズの混じった栄都の声が、楔のように鋭く会話にねじ込まれてる。
「おいおい、その変なスピーカーのせいで彼女が怯えてしまってるぞ、静かにしていてくれ」
「ふざけるな、お前のせいに決まってる」
「へーん、悔しかったらこっちにおいでーだ!」
「貴様!」
フフ――
境生と栄都のやりとりが幸を奏し、少女の瞳からは、疑念の間隙をぬって、二人に対する興味の色がゆるりと染み出していた。それは笑みではなく、あるいは呆れだったかもしれない。いずれにせよ、この娘が心から笑ったらさぞや可愛いだろうなと境生は思った。そして、いつか見てみたいとも。
「よし、じゃあ今度こそ本題にはいろっか。ええと、そうだな、まずは名前を聞いても良いかい」
「私は雅」
少女の声は決して大きくなく、また口数も少なかったが、発音は明瞭で、その声にはしっかりとした知性が宿っているのを境生は感じた。
「雅ちゃんは哉来くんの知り合いなのかい」
「そう。クラスメート」
「なるほど」
なるほど、とりあえず許されたのは舞台に立つ事だけか。少女も予測はしていたのだろうが、境生が改めて哉来の名前を出すと、やはりそこには壁を感じさせる何かがあった。何かが――
「哉来君の事、気になるかい」
「そうね」
「それは好きって事かな」
「嫌いではないわ」
「引っ張られるな!」
突如、栄都が言った。少女は驚いた表情で、しかし何も言わずに、首をほんの少し傾けながらスピーカーの方を見つめた。
「君が何によって引っ張られ、伸ばされて、いや、追いこまれたかは知らないが、子どもは子どもらしくしたまえ」
「何を言ってるの。私、そんな――」
「まあ、そんな事より」
そんな事とは何だ、というバックミュージックを余所に、初めて境生から顔を背けた少女に向って境生は話を続けた。
「哉来君は学校で何か変わった事があったかい?」
「……」
「哉来君がはやく学校に戻れるように協力してくれないか」
「彼は何も悪い事なんてしてないわ」
「おい栄都。この黒服男は、彼女に何て言ったんだ」
「フン、そこの男からは給料を二割ひいておく」
「そ、そんな、自分はただ哉来という少年について知っている事があれば教えてほしいと言っただけです」
「はい、ストップ。これ以上、この子に責任を負わせるんじゃねーよ」
「あ、いや、そんなつもりじゃ」
「おいおい、大の大人がこんな事で泣くなよなあ」
「失礼な、自分は別に泣いてなんかいません」
「じゃあ、この頬を伝う涙のようなものは何だよ」
「あ、え、何かついてますか」
男が慌てて自分の頬を手で確認すると、すかさず「やーい、騙された」と手を叩きながら境生が言った。
呆れ顔の男が何か言おうとするのを手で制しながら「しっかし、おたく……」と深刻な顔で境生は続ける。
「な、何ですか?」
「こうする時に」
境生はさきほどの男の涙を拭うような仕草を真似ながら、「こうする時に小指立てすぎだぜ。どんだけピンピンなんだよ。いや、別に良いんだが、なんとなく違和感がな。あんたのがたい的に」と、ばつが悪そうに言った。
「い、いいじゃないですか、べ、別に」
「フム、それは僕も気になっていた」
「そ、そんな、栄都様まで」
フフフ――
瞬間、男は少女に注目し、境生はただチラリと目を向け、栄都は珍しく黙っていた。
自分にスポットライトがあてられている事に気付いた少女は恥かしそうに「あの、ごめんなさい。私、誤解してたみたい」と照れながら言った。
「いや、雅ちゃんは悪くない。こんなターミネーターみたいな男が突然来たんじゃ、誤解するなという方が無理ってもんさだ。まさか見た目がこんななのに、実は乙女チックだなんて、百年後のドラえもんの声優を誰がやってるかって事くらい予想がつかない」
「そうでしょうか? 自分はなんとなく似た傾向の声優を探すだろうと予測してますけど」
「うるさい、てか、何で平然と答えているんだよ。こっちはお前の少女趣味を暴露しても良いものか、これでもかなり気を使ったんだぞ」
「あ、自分は別にそんな」
「こらこら、その手をもじもじさせるの、やめろ。ったく、冗談かと思いきや、本格的にその疑いがあるな」
「そうみたいね」
「いや、なんというか」
素早く両手を身体の後ろに戻した男の姿に、少女は笑いのギアを一段上げる。境生も笑った。男も一歩遅れて、少し控え目だったが笑った。どこか重苦しかった空気も晴れ、個性のない街並みも色付きつつあるように境生は感じた。こうして見ると男の服装も悪くない。
「おーい、栄都君」
「ああ、分かっている。給料は引かない」
栄都を除く三人はまるで古い仲間達のように顔を突き合わせ、小さなガッツポーズをした。
「あ、ありがとうございます」嬉しそうに言いながら男は、数回お辞儀を繰り返したあと、少女の手をとり「ありがとう」と言った。久々に心のこもったありがとうを聞いたな、と少女の次に差し出された男の手をとりながら境生は思ったが、今度こそはと男に期待して聞いた「栄都って実は嫌な奴だろう?」という質問の答えは、やはりもらえなかった。
「まあ、これはいいか」
「何の話だ」
「何でもねえよ」
「フン、さっさと始めたまえ」
「うるせえな、おい、それ切っとけ」
境生にスピーカーを指差された男は相変わらず、同情するような、あるいは憐れむような面持ちで、静かに首を振るだけだった。
「ちっ、さっきのはあれか、フェイク連帯感か、くそ。まあ、いい。で、雅ちゃん」
「はい」
少女は少し緊張した面持ちで、小さく顎を引く。
「哉来君なんだが、何か特徴的というか、気になる事でもあったかい。その、感情的ってのではなく、普通に、学校とかでって意味だけど」
「特徴的?」
「まあ、目立つというか、ちょっと他人と違うというか」
「それは、彼が学校に来なくなる辺りの事で?」
「いや、特に時期は気にしなくて良い」
「そうね、だったら。綺麗な顔をしているわ。私ね、一ヶ月前に横浜からこの街に転校してきたの。それで初めて見たときに、綺麗だなって思った」
「あ、そうなんだ。あ、いや、うん。他には」
「白っぽい上履きを履いてた」
「ん、それは最近の事?」
「うーん、私が転校して来た時には、もう履いてたけど……。それ以前は知らないわ」
「そっか。それで、その白い上履きってのは目立つ事なの」
「ええ、今度の学校では一年生は皆水色って決まってるから」
「へえ、彼はその時から白が好きだったんだ」
「皆そう思ったみたい。でも、多分違う」
「え?」
「私もそうかと思って聞いたの」
えっとね、私がこの街に来てから一週間経ったくらいだと思う……。少しうつろな表情で雅は話をはじめた。