妊娠中の私を寝室から追い出し、30歳の息子と寝ると言い出した義母
「母さん、全部はお腹の子のためなんだ!」
妊娠がわかったばかりの私に、義母の澄江は寝室を明け渡せと言い出した。三十代の息子・亮介と同じベッドで寝るから、私は隣の部屋を使えというのだ。
亮介は母親に逆らおうともせず、黙って受け入れた。
その後、私は偶然耳にした二人の会話から、澄江が詐欺に遭い、一千万円もの借金を抱えていることを知った。二人があてにしていたのは、私が両親から相続した二千万円だった。
妊娠すれば、簡単には離婚を切り出せない。そう踏んだ二人は、私を家に縛りつけ、金を引き出そうとしていた。
私は荷物をまとめて家を出た。給与口座を守り、相続したお金で自分の家を買った。
数か月後、澄江は借金を返せなくなり、持ち家まで競売にかけられた。住む場所を失った母子は、とうとう私の家まで押しかけ、土下座して助けを求めてきた。
母親の言いなりだった亮介も、追い詰められると澄江を指さして怒鳴りつけた。
「このクソババア! 金も住む場所も失ったのは、全部お前のせいだ!」
1
妊娠検査の結果を見た澄江は、開口一番、私に寝室を空けるよう言った。
「千紘、寝室を片づけて、荷物は隣の部屋に移してちょうだい」
あまりのことに、私は聞き返した。
「お義母さん、それはどういう意味ですか?」
澄江は、何を驚くことがあるのかとでも言いたげに、声を張り上げた。
「妊娠中なんだから、夫と一緒に寝るのはやめたほうがいいでしょう。亮介は体格もいいし、あんたがその気になって、お腹の子に何かあったらどうするのよ」
耳を疑った。
「おかしいでしょう。亮介はもう三十代ですよ。どうしてお義母さんが毎晩、同じベッドで寝る必要があるんですか?」
「母さん、俺だってもういい大人なんだから……」
亮介が小声で口を挟んだ途端、澄江は妊娠検査の書類をつかみ、くしゃくしゃに丸めて床に投げつけた。
「亮介! 何をわけのわからないこと言ってるの! 母さんは孫のためにやってるのよ。誰のおかげでここまで大きくなれたと思ってるの? 嫁をもらった途端、実の母親が邪魔になったっていうの?」
澄江は寝室を指さした。
「それに、この家は私名義よ。誰をどの部屋に住ませるか、私が決めて何が悪いの!」
亮介は口をつぐみ、今度は私に向き直った。
「千紘、母さんの言い分にも一理あるだろ。俺たちのことを考えてくれてるんだ。わざと嫁を困らせるような母親なんていないよ」
私は二人を見つめた。
結婚してからずっと、澄江は私が亮介を奪おうとしていると決めつけてきた。亮介も、母親と揉めるくらいなら私に我慢させるほうを選んだ。
いつか気持ちをわかってもらえる。私が気を遣い続ければ、少しは変わってくれる。そんな期待を抱いていた自分が、ばかばかしくなった。
私は床に落ちた書類を拾い、しわを伸ばしてから二人に微笑んだ。
「わかりました。これからも、お二人仲良く暮らしてくださいね」
2
私は両親の形見だけを荷物にまとめ、その家を出た。
澄江も亮介も、自分たちの思いどおりになったと満足しているらしい。私が出ていくことにすら気づいていなかった。
玄関のドアを閉めようとしたとき、室内から二人の声が聞こえた。私は思わず足を止めた。
「母さん、借金のこと、そろそろ千紘に話したほうがいいんじゃない?」
「まだ早いわよ。妊娠したばかりなんだから、もう少し様子を見なさい。簡単に出ていけなくなってから話せばいいの」
背筋が冷たくなった。
少し前、亮介から電話がかかってきたとき、彼は通話を切り忘れていた。そのまま二人の会話が聞こえ、澄江が詐欺に遭って一千万円を失ったことを知ったのだ。
亮介が気にしていたのは、母親の借金そのものではなかった。彼の頭にあったのは、私が両親から相続した二千万円のことだった。
結婚するとき、私は自分の家族のことも財産のことも隠さず話した。夫婦なら互いを信頼できると思っていた。それなのに、亮介は私の信頼につけ込み、金を引き出す算段をしていた。
二人は、妊娠すれば私も離婚をためらうと考えていた。子供のためなら、多少のことは我慢するはず。金を渡すことになっても、簡単には逃げられない。そんな計算だったのだろう。
けれど、二人は私が話を聞いていたことを知らない。
結婚して一か月もしないうちに、澄江は家計を管理すると言って私のキャッシュカードを預かった。それからというもの、三人分の食事も掃除も洗濯も、すべて私の役目になった。
それだけではない。澄江は下着姿で亮介の前を平気で歩き回り、トイレのドアを開けたまま息子と話すことさえあった。
何度も亮介に相談したが、返ってくるのは決まって不機嫌な言葉だった。
「千紘、母さんは俺の実の母親だぞ。そんなことまで気にするのかよ」
二人にとって、私がどれほど居心地の悪い思いをしているかなど、どうでもいいのだ。
私はその場を離れ、不動産会社に電話した。すぐに入居できる家を探してほしいと頼み、両親の遺産で購入することにした。
もう、二人のために自分の人生を犠牲にするつもりはなかった。
3
「千紘、今どこにいるんだ? 帰りに母さんのためにイチゴを一パック買ってきてくれよ」
亮介からメッセージが届いた。
私は返信せず、近くの高級ホテルへ向かった。
これまでは家計を優先し、服を一着買うのにも迷っていた。もう家を出ると決めたのだ。少しくらい自分のためにお金を使ってもいい。
私はスイートルームを一週間予約した。宿泊費の八万円が亮介のカードに請求されると、すぐに電話がかかってきた。
「おい、ホテルに泊まってるって本当か?」
「そうよ。妊娠してから眠りが浅いし、隣の部屋は蒸し暑いし、変なにおいもするし、とても休めないの。寝室も使わせてもらえないんだから、仕方ないでしょう?」
「だからって、こんな高いホテルに泊まることないだろ! 俺の給料がいくらだと思ってるんだよ。そんな使い方をしてたら、すぐになくなるぞ!」
お金の心配ばかりする亮介の顔が目に浮かんだ。
「私だって、好きで高いホテルに泊まってるわけじゃないわ。そもそも、私の給与口座のカードはずっとお義母さんが持ってるでしょう? それに、安い宿で何かあったらどうするの? お腹の子に何かあったら困るじゃない。お義母さんだって、孫が無事に生まれることを望んでるんでしょう?」
私はわざと澄江の口調をまねた。
「お前、何を……」
「孫のためにも、今日はもう寝るわ。おやすみ」
亮介が言い返す前に、電話を切った。
浴槽に湯を張り、音楽を流してゆっくりと湯につかった。
誰かの機嫌をうかがわず、自分の好きなように過ごす。それだけのことが、こんなにも気楽だったなんて。
翌朝、私は身分証を持って銀行へ行き、給与振込口座のキャッシュカードを紛失したとして利用停止の手続きをした。
その日のうちに、澄江から電話がかかってきた。
「千紘、どういうことなの? 口座からお金が下ろせないんだけど!」
4
「お義母さん、カードはそちらにあったんですね。ずっと手元になかったので、なくしたと思って銀行に届け出たんです」
私は何も知らないふりをした。
「そんなことはどうでもいいのよ! すぐに使えるようにしなさい! 今、麻雀で負けて、店から帰してもらえないの。困ってるのに、あんたは助ける気もないの?」
電話の向こうから、男の怒鳴り声が聞こえた。
「金もないのに麻雀なんかするな! すぐに払わないと、ただじゃおかないぞ!」
「お金ならあるのよ。もう少しだけ待って……」
澄江は急に声を弱め、私に泣きついてきた。
「千紘、長年、嫁と姑として一緒に暮らしてきたじゃない。私を見捨てるつもり? とりあえず三万円だけ振り込んでちょうだい!」
「助けてあげたいのは山々ですけど、カードはもう使えません。そもそも、私の給与口座のカードを返してくれなかったのはお義母さんでしょう?」
私は電話を切った。
向こうではまだ騒ぎが続いているようだったが、もう関わる気はなかった。
その後、銀行で口座の取引明細を取り寄せた。確認すると、澄江はほぼ毎週のように私の口座からお金を引き出し、麻雀に使っていた。
家計を管理するというのは、私の給料を自分の小遣いにすることだったらしい。
私は明細を保管した。すぐに行動を起こすより、まずは久しぶりに友人たちと会って、ゆっくり話をすることにした。
結婚してからというもの、家のことに追われ、友人と会う時間もほとんどなくなっていた。その日は話が弾み、気づけば夜遅くなっていた。
濃いメイクにハイヒールという格好でホテルのロビーに戻ると、入口の近くに亮介と澄江が立っていた。
亮介は母親をかばうように前へ出て、険しい顔で近づいてきた。
5
近くで見ると、澄江の右目は青紫色に腫れていた。麻雀店で揉めた際に殴られたらしい。
亮介は私を見るなり、責め立てた。
「千紘、いくらなんでもやりすぎだろ! 母さんは、お前がカードを止めたせいで店の人間に殴られたって言ってるぞ。それに、結婚してるのに、どうしてそんな派手な格好をしてるんだよ!」
母親をかばうばかりの亮介を見て、思わず笑いがこぼれた。
「何を言ってるの? あれは私の給与口座のカードよ。お義母さんを殴った人がいるなら、その人に責任を問えばいいでしょう。どうして私が責められるの?」
私は亮介をまっすぐ見た。
「それから、何を着るかは私の自由よ。亮介、これから私が何をしようと、あなたには関係ない。離婚しましょう」
離婚という言葉を聞いた途端、亮介の顔色が変わった。
澄江の借金を返すには、私の遺産が必要だった。私が離婚してしまえば、二人の計画は崩れてしまう。
ところが、澄江は私の言葉を笑い飛ばした。
「離婚ですって? 親もいないうえに、子供までお腹にいる女が、離婚してどうやって暮らすつもり? 誰があんたなんか引き取ってくれるのよ!」
「それより、ご自分の息子さんの心配をしたらどうですか。三十代になっても母親の言いなりなんですから、そろそろ子離れしたらいかがです?」
「うちの亮介には家があるのよ! 離婚したって、若くてきれいな女の子と再婚できるわ!」
澄江が声を荒らげると、周囲の客が足を止め、こちらを見た。
亮介は相変わらず母親の後ろに隠れたまま、何も言わない。
やがて澄江は手を振り上げ、私を殴ろうとした。
ホテルの警備員がすぐに間へ入り、二人をロビーの外へ連れ出した。澄江はガラス扉の向こうから何度も戻ろうとしたが、そのたびに警備員に止められた。
それでも腹の虫が治まらなかったのか、澄江は近くにあった石を拾い、ホテルのガラス扉にたたきつけた。
大きな音が響き、ガラスが砕け散った。
ホテル側はすぐに警察へ通報した。駆けつけた警察官は現場の状況を確認し、二人から事情を聞いた。器物損壊についても捜査が進められ、ホテル側から修理費の弁償を求められた。
事情聴取などを終え、二人が帰れたのは翌日だった。
6
翌日、澄江と亮介はそろってマンションに戻ってきた。二人とも目の下に濃い隈ができ、すっかり疲れ切った顔をしていた。
「母さん、千紘は本当に離婚するつもりなのかな。あいつが金を出してくれなかったら、一千万円の借金をどうやって返すんだよ」
「心配しなくていいわ。あの子はうちの孫を妊娠してるのよ。そう簡単に逃げられるわけないでしょう。手持ちのお金がなくなれば、戻ってくるしかないわ」
澄江の言葉に、亮介は少し安心したようだった。
ところが、マンションの入口まで来ると、住民たちが集まって何やら騒いでいた。二人が姿を見せた途端、話し声がぴたりと止まり、視線が一斉に集まった。
人だかりの中心にいたのは私だった。左手には婚活のチラシ、右手には拡声器を持っている。
「皆さん、ちょっと聞いてください! 一号棟にお住まいの藤堂亮介さんが、ただいま結婚相手を募集中です!」
私の声に、住民たちが振り向いた。
「結婚祝いには、義母名義の築年数の古い六十平方メートルの住宅がついてきます! さらに、義母本人との同居も必須です! 条件は簡単。夫と姑が同じ寝室で寝ることを受け入れられる、若い未婚女性なら大歓迎です!」
あちこちから、ざわめきが起きた。
「そんな古い家を結婚祝いにするの? うちの娘なら、賃貸で暮らすほうを選ぶわよ」
「嫁さんに家事をさせて、自分は母親と寝るつもりか。嫁というより、無料の家政婦が欲しいんじゃないのか?」
「三十過ぎても母親と同じベッドで寝るなんて、いつまで親離れできないんだよ」
声は次第に大きくなり、亮介と澄江の顔はみるみる赤くなった。
澄江は人混みをかき分け、私から拡声器を奪い取ると、地面にたたきつけた。
「この恩知らず! いったい何のつもりなの!」
「どうですか? 亮介の婚活イベントです。お義母さんの大切な家までついてくるんですから、きっと応募者が殺到しますよ」
「あんた、頭がおかしいんじゃないの!」
「お二人の希望をそのまま条件にしただけなのに、何が不満なんですか?」
亮介がようやく前に出て、私の手をつかもうとした。
「千紘、いつまでこんなことを続けるんだよ! 俺たちは家族だろ。話し合えば済むことじゃないか。帰ろう!」
私はその手を振りほどいた。
「帰りません。用があるなら、弁護士を通して連絡してください」
私はハイヒールを鳴らし、その場を離れた。
住民たちの視線を浴び続けた二人は、やがて人混みをかき分け、逃げるように自宅へ戻っていった。
その日を境に、マンションの住民たちの間で二人の話が広まっていった。
7
私が本気で離婚するつもりだとわかると、亮介から次々とメッセージが届いた。
「千紘、何年一緒にいたと思ってるんだよ。そこまで冷たくする必要があるのか?」
「最近、家で飯を作る人がいないから、母さんが一人で台所に立ってるんだ。腰まで痛めてるんだぞ」
「隣の部屋が臭いって言ってただろ。母さんが掃除したから、もう大丈夫だ。今夜は帰ってこいよ」
「母さんは田舎育ちだから、言い方がきついときもある。でも、お前のためを思ってやってるんだ。気に障ったなら、俺が代わりに謝るから」
「母さんだって、俺たちのためにいろいろ我慢してきたんだぞ。それなのに、こんな仕打ちをするのか?」
「千紘、頼むから返事くらいしてくれよ。母さんだって傷ついてるんだ」
「そこまでされると、俺も母さんも、お前のことを見損なうよ」
「そんな態度を取るなら、こっちだって考えがあるからな」
私は画面に並ぶメッセージを眺め、ため息をついた。
どの話にも母親が出てくる。こんな状況になっても、亮介は自分たちこそ被害者だと思っているらしい。
私は彼をブロックした。
数分後、銀行から通知が届いた。私の口座で不審な送金手続きが試みられたものの、銀行側の確認で止められたという。
私は画面を見つめた。
二人が動き出したのだ。
離婚が成立する前に、私の遺産を手に入れて澄江の借金に充てようとしたのだろう。
けれど、相続したお金はすでに別の口座で管理していた。その一部を使い、自分の家も購入している。
ほどなくして澄江から電話がかかってきた。通話をつなぐと、いきなり怒鳴り声が飛び込んできた。
「千紘! あんたの両親が残した二千万円、いったいどこへやったのよ!」
8
澄江の怒鳴り声があまりに大きく、私はスマートフォンを耳から離した。
亮介が電話を代わり、落ち着かない声で尋ねてきた。
「千紘、お前、両親から二千万円を相続したんだろ? どうして口座からなくなってるんだよ」
「亮介、結婚するときに自分の財産について全部話したわよね。夫婦なら信頼し合えると思っていたのに、あなたとお義母さんは私の両親の遺産まで狙っていたのね」
「お前、最初から知ってたのか……?」
亮介の声が急に弱々しくなった。
「千紘、頼むよ。母さんは本当に困ってるんだ。とりあえず一千万円だけ振り込んでくれないか? 助けてくれたら、離婚だって受け入れるから」
「もう遅いわ」
「遅いって、どういうことだよ?」
私は答えず、電話を切った。そのまま二人の番号を着信拒否にした。
ホテルをチェックアウトして荷物をまとめると、不動産会社の担当者が建物の前で待っていた。以前から購入を進めていた家の引き渡しが、ようやく済んだところだった。
条件に合う家を探すため、私は会社に一週間の休暇を申請していた。価格や立地、階数、内装を何度も比較し、ようやく今の家を選んだのだ。
鍵を受け取り、玄関を開けた。
明るく整ったリビングを目にした途端、涙があふれてきた。
ここなら、誰にも遠慮せずに暮らせる。
私はソファに身を沈め、そのまま眠ってしまった。目を覚ますと、窓の外は朝の光に包まれていた。
その間に、ホテルのフロントから電話があった。亮介と澄江が再び押しかけ、私がチェックアウトしたと知っても、ロビーから動こうとしなかったらしい。私はホテル側に、規則に従って対応してほしいと伝えた。それ以上、二人のことに関わるつもりはなかった。
新しい生活が始まり、お腹の子も順調に育っていた。つわりもほとんどなく、ようやく落ち着いた日々を送れると思っていた。
ところが、静かな時間は長く続かなかった。玄関のチャイムが鳴ったのだ。
ドアを開けると、亮介と澄江が大きなスーツケースを一つずつ引いて立っていた。
どうやって住所を調べたのかはわからない。二人は、ここへ来るつもりで準備していたようだった。
澄江は私を見るなり、親しげに手を握ってきた。
「千紘、新しい家に引っ越したなら、どうして教えてくれなかったの? 家族なのに、そんなに水くさいことをしなくてもいいじゃない」
「あなたたちと話すことはありません。離婚が成立すれば、もう他人です」
「母さんがわざわざ遠くから会いに来たのに、まだ怒ってるのかよ。いい加減にしろよ」
亮介はそう言うと、私の返事も待たず、母親を連れて家の中へ入ってきた。二人は靴さえ脱ごうとしない。
私は呆れながらも、まずは何をするつもりなのか確かめることにした。
澄江はソファに腰を下ろすと、さっそく本音を口にした。
「千紘、この家は両親の遺産で買ったんでしょう? 家族三人で二軒も家を持つなんてもったいないじゃない。今日から私と亮介もここに住むわ。前の家を売れば、借金の返済にも使えるでしょう?」
玄関に並んだ二つのスーツケースを見て、二人の目的がわかった。
謝りに来たのではない。私の家に居座るつもりなのだ。
私は玄関のドアを開け、二人に出ていくよう告げた。
「母さんがここまで頼んでるのに、まだ気が済まないのかよ!」
亮介が声を荒らげた。
私は言い争うのをやめ、マンションの管理会社に連絡した。ほどなくして警備員が駆けつけ、二人は荷物とともに建物の外へ案内された。
窓から見ていると、澄江は足を滑らせて転んだ。立ち上がってからも亮介と口論を続け、二人はスーツケースを引きずりながら、ようやくその場を離れていった。
私は窓越しに、二人の背中へ中指を立てた。
9
月曜日、いつもどおり出社すると、同僚たちの視線が妙に気になった。
目が合うと慌ててそらす人もいれば、集まって小声で話している人たちもいる。
席に着くと、隣の同僚がそっと声をかけてきた。
「千紘、ネットに流れてる動画、あれ本当なの?」
「動画って何?」
同僚はスマートフォンを差し出した。
画面には、亮介と澄江が配信している動画が映っていた。
タイトルは『路頭に迷った親子を見捨てた冷酷な嫁』。
二人は橋の下に座り、カメラに向かって涙ながらに訴えていた。
「俺たちは千紘のために貯金を使い果たして、わざわざあいつの住む街に引っ越したんです。家まで用意したのに、母さんが借金を抱えてると知った途端、俺たちを捨てたんですよ。おかげで、住む場所さえなくなりました!」
亮介が目元をぬぐうと、澄江もすかさず口を開いた。
「千紘に何かしてもらおうなんて思っていません。ただ、年寄りが安心して眠れて、毎日ご飯を食べられる場所が欲しかっただけなんです。それすら許されないんでしょうか……」
配信のコメント欄には、私を責める言葉が並んでいた。
「ここまでしてくれた人たちを捨てるなんて、ひどい女だな」
「こんな人と結婚したら、一生苦労しそう」
「結婚相手はちゃんと見極めないと。最後にはお金も家庭も失うことになる」
しかも、配信画面には商品リンクまで表示されていた。二人は同情を誘いながら商品を売り、実際に注文する人まで出ていた。
私はスマートフォンを同僚に返した。こめかみがずきずきと痛んだ。
金のためなら、ここまでするのか。
退勤後、私は自宅で証拠を整理した。
二人が私の遺産を狙っていたことを示す録音、給与口座の取引明細、過去のメッセージ。使える資料はそろっていた。
私は弁護士に相談し、個人情報や口座情報を伏せたうえで、二人の説明と食い違うメッセージや録音の一部を公開した。投稿には、これまでの経緯も簡潔に記した。
ほどなくして、投稿は多くの人の目に触れるようになった。録音やメッセージの内容が広まるにつれ、二人の説明に疑問を持つ人が増えていった。
配信のコメント欄にも、少しずつ違う声が並び始めた。
「この親子、話が全然違うじゃないか」
「千紘さん、よくこんな人たちと何年も暮らしてたな……」
「母親にべったりの息子と、息子を手放せない母親。もう二人だけで暮らせばいい」
「同情させて商品を売るなんて、ひどすぎる」
亮介と澄江は、何が起きているのかすぐには理解できなかったらしい。やがて、自分たちの配信とネット上に出回った記録の食い違いに気づき、慌てて説明を始めた。
しかし、何を言っても以前の発言と矛盾してしまう。
結局、配信はプラットフォーム側の規約違反により停止された。
それでも、二人についての話題はしばらく消えなかった。拡散された投稿を見た人たちが、次々と意見を書き込んでいた。
10
翌日出社すると、私のデスクには果物やお菓子、ぬいぐるみ、ミルクティーまで並んでいた。
同僚たちが集まってきた。
「千紘、大丈夫? あんな家族に振り回されてたなんて、本当に大変だったね」
「ごめんね。前は事情を知らずに、配信の話を信じかけてた」
「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってね」
私はリンゴをかじりながら、みんなに礼を言った。
ようやく同僚たちが席に戻ったところで、スマートフォンを確認した。
ニュースサイトのランキング上位に、こんな記事が出ていた。
『同情商法が炎上、母親べったりの男が病院送りに』
添えられた写真では、亮介が顔を腫らして車椅子に座り、澄江が疲れ切った顔で後ろから押していた。両脚にもけがを負っているらしい。
記事によると、配信の嘘が明らかになった後も、亮介は販売した商品の代金を返そうとしなかった。何事もなかったように振る舞えば、そのまま金を手元に残せると考えていたようだ。
しかし、購入者たちが二人の身元を突き止め、返金を求めて押しかけた。そこで揉め事になり、亮介はけがをして病院へ運ばれたという。
騒ぎを収めるため、母子は商品の売上金を返金することになった。手元に残る金はほとんどなく、亮介の入院費を払うのにも困っているらしい。
私は澄江の泣き腫らした顔を見て、スマートフォンを閉じた。
もう、二人のことを追いかけるつもりはなかった。
11
離婚問題を依頼していた弁護士の助けもあり、亮介との離婚に向けた手続きが進んでいた。
その朝は雨が降っていた。私は傘を差して待ち合わせ場所へ向かい、入口の近くに一人で立っている亮介を見つけた。
以前なら、どこへ行くにも澄江がついてきた。今日は一人で来るしかなかったらしい。
数か月ぶりに会った亮介は、見違えるほど痩せていた。頬はこけ、目の下には濃い隈がある。十歳は老けて見えた。
一方の私は、二人の干渉から離れたおかげで顔色もよくなっていた。お腹が少し膨らんでいなければ、妊娠中だと気づかれないかもしれない。
「千紘、何年一緒にいたと思ってるんだよ。本当に、ここまでやる必要があるのか?」
「そういう話をするために来たんじゃないでしょう。必要な手続きを済ませましょう。私も予定があるの」
亮介はひどく傷ついたような顔をした。事情を知らない人が見れば、私のほうが冷酷な妻に見えるのかもしれない。
それでも、私の気持ちは変わらなかった。
必要な書類を確認し、弁護士から説明を受けた。離婚届の提出に向けた準備を済ませ、私は自分の控えをバッグにしまった。
もう、あの家に戻る必要はない。
「これからは別々の人生を歩みましょう。あなたも、自分の生活を大切にして」
私が数歩進んだところで、亮介が後ろから呼び止めた。
「千紘、最後に一度だけ、一緒に食事をしないか? 夫婦だったんだし、これで本当に終わりにしたいんだ」
亮介の目は赤くなっていた。
疲れ切った顔を見ていると、初めて出会った頃の彼を思い出した。あの頃は自信に満ちていて、何をするにも楽しそうだった。
少し迷った末、私はうなずいた。
「わかった。これで最後だからね」
レストランに入ると、亮介は私の好きだった料理を次々と注文した。初めて会った日のこと、交際を始めた頃、結婚式の思い出まで、懐かしそうに話し続けた。
私は何度か帰ろうとしたが、亮介はそのたびに新しい話題を持ち出した。
亮介が話題を変えるたび、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
私はバッグをつかみ、レストランを出た。タクシーを拾って家へ戻ると、玄関の鍵が壊されていた。
胸の奥がすっと冷えた。
私は怒りをこらえ、ドアを押し開けた。
澄江がソファに足を組んで座り、テレビを見ていた。テーブルに置いておいた果物は食べ尽くされている。私を見ると、澄江は挑発するような目つきで、床にサクランボの種を吐き出した。
私は寝室と洗面所を確かめ、最後に子供部屋のドアを開けた。
どの部屋にも、亮介と澄江の荷物が積み上げられていた。
二人は私がいない間に、家を占拠していた。
12
「千紘!」
亮介が息を切らして追いかけてきた。私の腕をつかもうとしたので、その手を振り払い、思いきり頬を平手打ちした。
乾いた音がリビングに響いた。亮介は赤くなった頬を押さえ、信じられないという顔で私を見た。
「あんた、よくもうちの息子を殴ったわね!」
澄江が叫びながら飛びかかってきた。私はその腕を押さえ、もう一度、頬を打った。
澄江は頬を押さえたまま固まった。いつも言いなりだった嫁が、やり返してくるとは思っていなかったのだろう。
「千紘、母さんは俺の実の母親だぞ! 年寄りに何をするんだよ!」
「半日で二人分の荷物を運び込んで、全部の部屋を占領できる年寄りがいる? あなたが私を食事に連れ出している間に、お義母さんが鍵を壊して入ったんでしょう。これが偶然だとでも言うの?」
澄江は言い返せなくなると、開き直ったようにソファへ座り直した。靴を履いたまま足をテーブルに載せ、鼻で笑う。
「この家は離婚前に買ったんでしょう? 夫婦の共有財産なんだから、亮介にも権利があるはずよ!」
亮介も母親の言葉に乗った。
「子供部屋が空いてるんだから、俺と母さんが使えばいいだろ。母さんだって、俺たちのためにいろいろ我慢してきたんだぞ。少しは気遣ってやれよ」
私は怒りを抑えて答えた。
「我慢してきた? 大学を卒業したとき、同じ街で暮らしたいって泣きついてきたのはあなたでしょう。それに、お義母さんの家だって、私の父が助けなければ買えなかったはずよ」
二人の表情が変わった。
「当時、父はあなたたちに、家の購入費用は三百万円だと伝えた。でも、実際には一千万円かかっていた。差額の七百万円は、父が立て替えたのよ」
父は亮介に恥をかかせたくなくて、差額のことを大っぴらにはしなかった。私たちが揉めずに暮らせるようにと、黙って助けてくれたのだ。
その善意が、こんな形で踏みにじられるとは思わなかった。
「父がどうしてそんなことをしたと思うの? 私たちが幸せに暮らせるようにと願っていたからよ。それなのに、あなたたちは父の気持ちを何だと思っているの?」
亮介と澄江は顔を見合わせた。
「そ、そんなはずない……」
私は当時の金銭消費貸借契約書と、父が残した書類を取り出して二人の前に置いた。
契約書には、父が購入費用の不足分七百万円を貸し付けたことが記されていた。借り手の欄には亮介と澄江の署名があり、返済が滞った場合の取り決めも、別途の合意書に残されていた。
父は、万一のことを考えて書面を用意していたのだ。
「どうして、こんな大事なことを黙っていたんだ!」
「あなたたちに話したところで、まともに受け止めたと思う?」
「この腹黒女! 俺たちを騙していたのか!」
私は冷ややかに告げた。
「七百万円。約束どおり、返してもらいます」
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亮介は慌てて母親を見た。澄江は咳払いをして、強がるように言い返した。
「そんな紙切れで何が証明できるのよ! お父さんをここに連れてきて、本人の口から説明させなさい!」
「そうだよ! お前が勝手に作った書類かもしれないだろ!」
亡くなった父まで侮辱され、私はとうとう我慢できなくなった。
テーブルを勢いよくひっくり返すと、グラスが床に落ちて砕け散った。私は大きな破片を拾い、澄江の首元に突きつけた。
「出ていって! 今すぐ、私の家から出ていきなさい!」
澄江は身をすくませた。破片が皮膚に触れ、首筋に細い血の筋が浮かんだ。
私は床に落ちていた果物ナイフも拾い、亮介に向けた。
「まだ居座るつもりなら、警察を呼ぶわ。これ以上、好き勝手はさせない」
「母さん、怖いよ!」
亮介は大声で泣き出した。三十代の男が母親の後ろに隠れ、震えながら助けを求めている。
澄江も自分の恐怖を忘れ、息子を抱きしめた。
「大丈夫よ、亮介。母さんがいるから……千紘、お願いだから落ち着いて。私たちはすぐに出ていくから!」
二人は荷物も置いたまま、転びそうになりながら玄関から逃げていった。
私は床に散らばった破片を見つめ、荒い息を整えた。
まだ終わりではない。
父が立て替えた七百万円も、二人に踏みにじられた私の尊厳も、曖昧なままにするつもりはなかった。
14
約束した一か月が過ぎても、亮介から七百万円の返済はなかった。
私は弁護士に相談し、契約書と合意書をもとに返済を求める手続きを進めた。話し合いでは解決しなかったため、債務の存在を法的に確定させたうえで、裁判所に強制執行を申し立てた。
その後、澄江が所有していた古い家が競売にかけられた。亮介と澄江は購入費用の不足分について連帯して返済する契約を結んでいたため、澄江名義の財産も返済に充てられることになった。
家は最終的に七百万円で落札された。そこから執行費用などが差し引かれ、残額が父の立て替えた購入費用の返済に充てられた。
住む場所を失った二人には、澄江が詐欺で抱えた一千万円の借金も残っていた。利息は膨らみ、返済の見通しは立たなくなっていた。
追い詰められた二人は、ある日、私の家の前に現れた。
亮介は顔を腫らし、額に包帯を巻いていた。返済を迫る相手と揉めたのかもしれない。澄江は私の手を握り、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら訴えた。
「千紘、ごめんなさい! 今までのこと、本当に悪かったと思ってるの!」
二人はその場にひざまずき、何度も額を床につけて頭を下げた。
私はドア枠にもたれ、黙って見下ろしていた。
二十回ほど頭を下げたあと、澄江はようやく本題を切り出した。
「千紘、あなたと亮介は夫婦だったんだし、この家だって結婚している間に買ったんでしょう? 亮介にも権利があるはずよ。あの子の取り分を渡してくれれば、私たちは何とかやっていけるの」
「話になりません。この家の購入資金は、両親から相続した私のお金です。必要なら、弁護士を通して話してください」
亮介はスマートフォンで情報を調べた。読み進めるうちに顔色が悪くなり、やがて力なくうなずいた。
澄江はまだ食い下がった。
「じゃあ、私の借金はどうなるのよ! 亮介が結婚していたときにできた借金なんだから、夫婦の借金として、あなたも返すべきでしょう!」
「その借入契約書に署名したのは、亮介ですか? それとも、お義母さんご自身ですか?」
澄江は口をつぐんだ。
借り入れをしたのは澄江本人で、契約書にも彼女の名前が記されていた。私が元嫁だからという理由だけで、その借金を負担する義務はない。
私を巻き込めないと悟ると、澄江はその場に座り込み、泣き叫んだ。
「森川千紘! あんた、最初から私たちを騙すつもりだったんでしょう! 田舎から出てきた人間だからって、馬鹿にしてるんだわ!」
亮介も声を荒らげた。
「お前がこんな冷たい人間だったなんて思わなかった! 母さんはずっとお前を実の娘みたいに扱ってきたのに、よくそんなことができるな!」
私は二人の言葉を聞き流した。
玄関付近には防犯カメラがあり、二人の行動は記録されていた。二人が来る前に、私は弁護士に相談し、警察にも連絡していた。
ほどなくして警察官が到着した。
私は用意していたUSBメモリを差し出した。
「義母の藤堂澄江について、住居侵入や器物損壊などの件で相談したいんです。関連する記録をまとめてあります。以前の金銭トラブルについても、確認していただきたいことがあります」
USBメモリには、壊された玄関の鍵や、無断で家に入った際の映像、給与口座からの不審な引き出しを示す取引明細などを保存していた。
二人がしてきたことは、記録として残っていた。
「私は何もしてない! この女が嘘をついてるのよ!」
「母さんは悪くない! 全部、俺たちのためにやったことなんだ!」
二人は必死に言い逃れをした。警察官は現場の状況を確認し、資料を受け取って必要な手続きを進めた。
もう逃げ切れないと思ったのか、亮介は母親を振り返り、怒鳴りつけた。
「このクソババア! 俺が金も居場所も失ったのは、全部お前のせいだ!」
警察官が二人の口論を制止し、それぞれから事情を聞くためにその場を離れた。
二人の姿が見えなくなると、私はようやく息を吐いた。
もう、二人の都合に振り回されるつもりはなかった。
その後、離婚届が正式に受理された。私は藤堂姓から旧姓の森川に戻り、亮介との婚姻関係にも終止符を打った。
住居侵入や器物損壊などの件については、その後も捜査が進み、裁判が行われた。
15
春の雨が上がった頃、私は女の子を出産した。
ひよりと名づけた娘は、柔らかな頬を私の手のひらにすり寄せ、丸い目でこちらを見つめながら笑った。
この子には、安心して眠れる家で育ってほしい。誰かの顔色をうかがったり、嫌なことを我慢してまで愛されようとしたりする必要のない暮らしをさせてあげたかった。
その後、澄江は関連する事件で懲役三年の判決を受けたと聞いた。しかし、服役中に病気になり、一年目に亡くなったという。
亮介については、その後、何の知らせもなかった。
ある日、海外の見知らぬ番号から電話がかかってきた。
通話をつなぐと、聞き覚えのある男の声がした。
「森川千紘様でしょうか? このたび、弊社のキャンペーンで一等に当選されました。賞金五万円をお受け取りいただけます……」
「亮介?」
私が名前を呼ぶと、電話の向こうが静かになった。
数秒後、低く震える声が返ってきた。
「……ああ」
「借金を返すために海外へ渡って、騙されて詐欺に加担させられてるの?」
「……そうだ」
亮介は重いため息をついた。
「日本に戻れそう? 現地の日本大使館に相談する必要があるなら、連絡先を調べることもできるけど」
「無理だ……もう帰れない」
その言葉を最後に、通話は一方的に切れた。
電話の向こうで何が起きているのか、私にはわからなかった。亮介がこれからどうなるのかも、知る由はない。
けれど、もう彼の人生に巻き込まれるつもりはなかった。
そのとき、隣で眠っていたひよりが目を覚ました。
「ママ……ママ……」
私はスマートフォンを置き、小さな手を握った。
窓の外では、汐折市の街並みに明かりがともり始めていた。柔らかな光が部屋に差し込み、娘を抱く私の姿を照らしている。
結婚生活を続けるためなら、我慢するのが当たり前だと思っていた。夫に理解してもらうため、義母に認めてもらうため、自分の気持ちを何度も押し殺してきた。
けれど、自分ばかりが犠牲になる関係に、一生を捧げる必要はない。
亮介と澄江は、金のために私を利用し、欲しいものを手に入れるために何度も一線を越えた。その結果、二人は自分たちの居場所まで失ってしまった。
私はもう、あの家に戻ることも、二人の顔色をうかがうこともない。
雨上がりの空は少しずつ晴れ、遠くの街灯が温かな光を並べていた。
私は娘を抱き上げ、額にそっと口づけた。
私たちの新しい暮らしは、これから始まる。




