ザビタン
――今日、十年間続けたアルバイトを辞めた。
湯船から見上げた天井は、近眼と乱視のせいでぼやけてた。
足が伸びきらない小さな湯船の中で目を閉じると、小学生の頃の自分の姿が浮かんだ。
俺はかつては教師や保護者からの信頼が厚い「真面目」な少年だった。
「真面目」。自分がそんな人間でないことは小学生ながらに自覚していた。
俺は他人の目を気にして振る舞っているだけだった。
自己保身や取り繕う事への自意識が他の同級生よりも早熟で、独りよがりの正義感と傲慢さを併せ持った小心者だった。
そんなだから大人からの評判が良かった反面、同級生からは好かれていなかったと思う。
いじめという程の事ではないが、同級生から嫌がらせを受けたことも厭なことを言われたこともある。
しかしそれ以上に、俺が同級生を下に見たり、無自覚に傷つけるような軽口を言った事が多かったのだろう。
一度大人からの評価を得ると、それを失うのが怖くて自分を守るようになっていった。
勉強も学校行事も頑張った。クラス委員に毎年推薦されて選ばれたのは人望ではなかった。それに気付かない素直さも併せ持っていた。
勉強ができなかったり、行動が粗暴な同級生に対して心の中で俺の方が上等だと思うのど同時に、そのように下に見ている同級生の方が俺より手先が器用だったり歌やモノマネが上手かったり、釣りや魚の知識が豊富だったりと、知恵と経験を持っていることに、俺は卑屈な気持ちになった。
俺を認めてくれる相手を下に見、俺と相容れないような、それこそ粗暴で短絡的な言動で俺に厭なことをしてくる相手にこそ、俺を認めて欲しいという屈折した思いを常に抱いたまま小学校、中学校を卒業した。
高校に入学した俺を待ち受けていたのは、自分がとてつもない凡人だという現実だった。
幼稚園から中学まで人の入れ替わりのない田舎の、狭く浅い小さな池で生きて来た自分は、少しだけ広い池に移ると、たちまち溺れた。
小学生の頃のように気が付いたらもう友達だったということにはならなかった。
孤立こそしなかったが、仲の良い特定の友人は出来なかった。
進学校で最下位争いをするようになり、教師からおちこぼれのレッテルを貼られるようになった。
それら現実に抵抗せず、素直に受け入れた振りをして自我とプライドを保った。
それが自分を守るために必要な事だった。
俺は幼いころから本を読むのが好きで、幼稚園に通う前には読み書きが出来た。
よく遊んでくれた従妹や近所の子供が俺よりいくつか年上だったため、彼らから受けた影響は大きかった。
従妹の家に置いてあった、俺が生まれる以前に放送していた戦隊もののロボットや漫画や雑誌は、俺を不思議な気分にしてくれた。
大昔に存在した宝を見つけたような高揚感があった。
親から「なつかしのアニメ・ヒーロー図鑑」を買ってもらった俺は、何度も何度もページをめくった。
正義感溢れるヒーローよりダークヒーロー、熱血主人公よりクールなナンバー2、レッドよりブルーかブラック、自分の好みの系統が分かってきた。
ビジュアル面で強く魅かれたのはデビルマンだった。
図鑑で見たデビルマンがアニメの再放送で動いているのを初めて観たときに、あまりのカッコよさに、とてつもなく痺れた。
それと特撮番組「アクマイザー3」の主人公「ザビタン」も、動いている姿は見たことなかったが黒くスマートな見た目と、同族を裏切り人間のために戦うという設定がデビルマンに似ていて好きだった。
デビルマンは孤独に、ザビタンは仲間と一緒に、同族を裏切って戦う孤高のヒーローだった。
俺はデビルマンやザビタンになりたかった。
500人中497人が進学するような高校を卒業して俺はフリーターになった。
受験に失敗したからなのだが、どうしても大学に行きたいとも思っていなかった。
フリーターが自分の選んだ道だと思えたのも最初の一、二年だけで、俺は高校の同級生に会う機会をできるだけ避けるようになった。
その二年の間にアルバイト先も数回変わった。
何度目かの転職の後、二十歳のときに始めたのがヒーローショーのアルバイトだった。
TVCMで流れるような大きな舞台ではなく、地方の小さな遊園地やデパートで行うショーに出演した。
戦闘員、怪人、ヒーロー、どれも経験した。
年齢がバラバラの職場で学ぶことは多く、少しは人間的に成長出来た気がした。
子供から受ける声援や喜ぶ姿を見ることにやりがいも充実感もあった。
本当の自分ではない姿で人前に出ることに解放感を感じた。
だが、俺の気持ちはどうしようもなかった。
同級生のように正社員として働くこともなく、結婚もせず、目標もない。
俺はデビルマンのように一人で戦うことも、ザビタンのように仲間と立ち向かうことも出来なかった。立ち向かう相手すらいないではないか。
俺は、何にもなれなかったのだ。
――湯船の湯を両手ですくって顔にかけた。何度も。
十年続けたアルバイト最終日の今日、俺は三人組のヒーローの中の一人だった。
いつも通り問題なく無事にショーが終わった。
俺は明日から何もない。
今までも何もないと言えば何もなかったのだが、少なくとも行く場所はあった。俺の存在を認識できる組織があった。
明日からはそれもない。俺は俺というだけで、どこの誰でもなくなる。
司会に促され、公演の後の写真撮影に並ぶ子供たちは皆、笑顔で輝いていた。
撮影時に興奮して落ち着かない子供、考えて来たポーズをキメる子供、緊張して大人しい子供。
ショーの間はみんな大きな声でヒーローを応援したのだろう。
応援されているのも、声援に応えて活躍したのも、ヒーローであって俺ではない。
俺を応援してくれる人はいない。
だから自分で頑張らないといけない。
分かっている。
順番を待っている列の中に見覚えのある顔があった。
小学校の同級生だった。
彼は、彼の小学生の頃そっくりの五歳くらいの男の子と手を繋いで、柔和な顔で列に並んでいた。
彼は小学生の頃、直情的で短期でわがままで力が強く、威張っていた。彼が俺に対して厭な言葉を掛けてきたことも、嫌なことをしてきたこともあった。
彼は勉強こそ出来ず、ごく近い大人以外からは良く思われていなかったが、彼には同級生からの人望があった。
彼はの行動は誰にも媚びず、他人の目を気にしなかった。
それは無神経さからのものではなく、彼なりの苦悩やナイーブさがあっただろう。
彼のような人が俺のように勉強が出来るだけの人間に興味を示さないことは知っている。取り繕う自分の心を見透かされている気がずっとしていた。
俺は彼になんでもいいから一言「すごいな」と言ってもらいたかった。
それで俺の何かが埋まるような気がしていた。
それが叶わないことも分かっていた。
彼の息子の撮影の順番が来た。
子供を中央に置き、彼は端に立っていた俺の横に並んだ。
マスク越しに彼の言葉が聞こえた。
「こんなカッコいいヒーローにボクもなりたいって、息子が嬉しそうに見てましたよ。いい思い出になりました。ありがとうございました」
――シャワーヘッドを湯船に向けて、蛇口を強く捻った。
水は夏の夕立のように降り注ぎ、俺の顔と湯船の水面を叩いた。飛沫が炭酸水のように弾けている。




