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殉葬させられそうな末端妃ですが、皇帝の棺の匂いで毒殺を嗅ぎ当ててしまいました。

作者: 大棗ナツメ
掲載日:2026/03/13

胡翠蓮こすいれん殉葬じゅんそうを言い渡す」


 重々しく告げられた言葉に翠蓮は声を失った。

 狐のような目をした宰相が、翠蓮を見下ろしている。

 その背後には、皇帝の棺が安置されていた。


「……わ、わたくしですか?」

 翠蓮は、震えながら問い返した。

 彼女は末端妃。少数民族の長の娘で、四年前に後宮へ入れられたものの、皇帝と顔を合わせたことすらない。

 それなのに――

(どうして、私が)

 大理石の床がぐらりと歪んだ。


「皇帝陛下の御供をする栄誉です。心して務めるように」

 皇后は微笑んで言った。

 その目は、足元の虫でも見るように、どうでもよさそうだった。


 その時、ふわりと甘い香りが翠蓮の鼻先をかすめた。薬草の匂いだけは人一倍よく分かる翠蓮の鼻が、ぴくりと動く。

(あら?)

 翠蓮はわずかに首を傾げた。


 だが、その違和感は宰相の声に遮られた。

「明後日、陵墓りょうぼへ送るゆえ、準備を」

 宰相の言葉が落ちると、皇后は興味を失ったように背を向け、その場を去った。


 皇后の姿が見えなくなると、役人たちが小声で囁き合う。

「どうなるんだ? 東宮もまだ決まっていないのに」

「しっ。現皇后様がお産みになった第二皇子が立つに決まってるだろ」

 ひそひそと交わされる声を、宰相がぎろりと睨みつけた。


(明後日だなんて……)

 翠蓮はその場に崩れ落ちた。そのあと、どうやって自室まで戻ったのか、ほとんど覚えていない。

「翠蓮さま……」

 隣では、故郷から付き従ってきた唯一の女官、春梅シュンメイが顔を覆って泣いていた。


(死ぬ……)

 まだ十六歳。何もしていないのに。

 十二歳で後宮に入れられたものの、皇帝の訪れは一度もなかった。それからは、後宮の隅でひっそりと暮らしてきた。

 与えられた小さな庭で薬草を育て、薬を作り、風邪を引いた女官に分けてやる。そんな慎ましい日々だった。


(ああ、あの薬草……)

 翠蓮はふと思い出す。

(まだ、干したばかりだったのに)

 それなのに、この仕打ちだ。

(私が死んだら、一体誰があの子たちに水をあげるんだろう)

 あの小さな薬草たちは、まだ芽が出たばかりなのに。

 明後日には、死ぬというのに翠蓮の頭の中は薬草のことでいっぱいだった。


 その晩、床についても、翠蓮はまったく眠れなかった。

「翠蓮さま……お水を」

 春梅が差し出した椀を受け取り、翠蓮は一口だけ口をつける。喉は乾いているのに、胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。

 頭の中に、昼間の光景が何度も浮かぶ。

 玉座に安置された皇帝の棺。そして、室に充満していたあの匂いーー


(あれは……)

 翠蓮はゆっくりと身を起こした。

「翠蓮さま?」

 春梅が驚いたように、涙で濡れた顔を上げる。

「……春梅。今日、陛下の棺から甘い匂いがしたでしょう?」

 翠蓮はぽつりと尋ねる。

「え……? いいえ。私は何も……」

 春梅はパチパチと瞬きをして、答えた。


(そんな筈、ありませんわ)

 翠蓮の指先がぎゅっと布団を握る。

 あれは香でも、花でもない。間違いなく薬の匂いだった。

 翠蓮は、幼い頃から薬草に囲まれて育った。父は薬を操る百薬族ひゃくやくぞくの長。翠蓮もまた、匂いで薬を判別してきたのだ。

 翠蓮はガバッと布団をはねのけ、寝台の脇に置いていた靴を履いた。


「えっ! 翠蓮さま、どちらに!?」

 春梅が目を見開き、尋ねる。

「私、ちょっと確認して来ますわ」

 まるで、少しかわやへ、とでも言うような軽さで翠蓮は答えた。


「ま、まさか、皇帝の所じゃないでしょうね?」

 春梅が翠蓮の前に立ちはだかった。

 翠蓮はきょとんと首を傾げて、答えた。

「ええ」

 春梅の顔が、みるみる真っ青になる。

「ええ、じゃありません!!」

 翠蓮は帯をぎゅっと締めながら、のんびりと言った。

「ちょっと匂いを確かめたいだけですわ」

「確かめる!?」

 春梅は声を押し殺して叫ぶ。

「相手は皇帝陛下ですよ!? しかも、亡くなられているんですよ!?近づいたら大問題です!!」


 翠蓮は少し考えてから言った。

「うーん、それもそうですね……でも、もう怒られませんわ」

 あっさりそう言う翠蓮に、春梅は声を荒げた。

「怒られます!!」

 翠蓮は首をゆっくり横に振り、微笑んで言う。

「だって、私、明後日には死ぬんですもの」

 そのさらりと言われた言葉に、春梅は言葉を失った。

 翠蓮は靴を履き終えると、戸口へ向かう。

「翠蓮さま!!」

 春梅がその袖を掴んで必死に止める。

「やめてください! もし見つかったら……!」

 翠蓮は振り返った。


 その目には、いつものおっとりした色はなかった。代わりに、真剣な光が宿っている。

「春梅。もし、陛下が他殺だったとしたら、どうします?」

 春梅の手が止まった。

「た、他殺……?」

 翠蓮はこくりと頷く。

「私、あの匂いに覚えがあるんです」

 春梅は震えながら首を振る。

「そんな……」


「確かめたいんです」

 翠蓮は少し困ったように笑った。

「薬のこと、気になったままだと眠れないので」

 春梅は頭を抱えた。

「翠蓮さまは本当に……!」

 そして小さく呟いた。

「……死ぬ前々日に、皇帝の死体を嗅ぎに行く妃なんて聞いたことありません……」

 翠蓮は振り返り、くすりと笑う。

「ふふ、そうですわね」

 そして、あっけらかんと言った。

「すぐ戻ります」


 夜の宮廷は、ひっそりと静まり返っていた。月明かりが石畳を青白く照らしている。

 翠蓮は柱の影を選びながら、足音を忍ばせて進んだ。

 その時、屋根の上から誰かの気配がした気がした。


(えーと、見張りは……)

 玉座の間の外には、兵が二人立っている。だが眠そうに突っ立っているだけで、中までは見ていない。

(今なら……)

 翠蓮は柱の陰から、するりと中へ滑り込んだ。

 広い玉座の間はしんと静まり、冷たい空気に満ちていた。


 翠蓮がきょろきょろと辺りを見回すと、奥に皇帝の棺が見えた。

 金の龍が彫られた棺は鈍く光り、昼間よりも不気味に見える。


 翠蓮の喉が、ごくりと鳴った。

(少しだけ、失礼しますね……陛下)

 小さく頭を下げ、棺へ近づく。そして、すうと息を吸った。

 次の瞬間。

「……!」

 翠蓮の目が大きく見開かれた。

 昼間に嗅いだ甘い香りと同じ。だが、その奥にあるのは――

(やっぱり。間違いない)

 心臓が、どくどくと鳴り始める。


 その時だった。

「――何をしている」

 低い声が、すぐ後ろから聞こえた。

 同時に、冷たく銀色に光る刃が首元へ突きつけられる。

 翠蓮の肩がびくりと跳ねた。

(ああ、見つかってしまいましたか)

 翠蓮は小さく息を吐いた。


 首筋に当たる刃は、ひやりと冷たい。少しでも動けば、皮膚が切れそうだった。

「……夜中に皇帝陛下の棺を嗅ぎ回るとは、大胆な女だな」

 低い声が、すぐ耳元で響いた。

 翠蓮はゆっくり瞬きをした。

「申し訳ございません」

 素直にそう言ってから、少しだけ付け加える。

「ですが、どうしても気になりまして」


 背後で、男の気配がわずかに動いた。

「気になる?」

「はい。匂いです」

 翠蓮が正直に答えると、男の刃がほんのわずかに動いた。

「……匂い?」

 翠蓮はこくりと頷いた。

「昼間、ここで甘い香りがしました」

 男は黙って、翠蓮の言葉に耳を傾けている。

 翠蓮は続けた。

「なので、確かめに来たのです」


「それで?」

 男は刃を突きつけたまま、先を促す。

 翠蓮は棺をちらりと見て答えた。

「これは、薬の匂いです」

 翠蓮は少しだけ声を落として、言葉を続けた。

「ただし、使い方を間違えれば、"毒"にもなる薬です」

 背後の刃が、すっと離れた。

(あら? 許してもらえたのかしら)

 翠蓮はゆっくり振り返った。


 月明かりの中に立っていたのは、黒衣の男だった。背が高く、鋭い目で翠蓮を見ている。淡い光に照らされた顔は、思わず息をのむほど整っていた。


 男が低く問い詰める。

「お前は、本当に匂いで毒が分かるのか?」

 その声音は、疑いというより確認に近かった。

「ええ、幼少の頃より鍛えられてきましたから」

 翠蓮はにっこり微笑んで答えた。


「ならば、あいつらは何を飲まされた?」

 そう言うと、男は玉座の間の外にいる見張り二人を指した。

「あら? あの方達……」

 翠蓮はゆっくり首を傾げる。

 先程までは眠そうに立っていたはずだが、今は床でぐっすり寝こけていた。

 目を丸くする翠蓮を見て、男が言う。

「お前がやったわけじゃ、なさそうだな」

「当たり前です」

 翠蓮は頬を膨らませた。


 そして、翠蓮は鼻をくん、と動かした。

「この匂いは……っ!」

 もう一度、空気を吸い込む。

 翠蓮は目を細め、重大な発見をしたかのように言った。

「お酒ですね」


 その答えに、男は苛立ったように額を押さえた。

「はあ……そんなのは俺でも分かる」

 翠蓮は首を傾げ、きょとんとした顔で続ける。

「お酒……の中に、酸棗仁さんそうにんが入っています」

 男の目が、鋭く細められた。

「酸棗仁?」

「ええ。眠りを誘う薬ですが……」

 翠蓮は見張りの方へ目を向け、少し困ったように言う。

「これでは、量が多すぎますわね」

 やがて、男がぽつりと呟いた。

「……面白い」

 翠蓮はきょとんと男を見上げた。


「胡翠蓮」

 男に名を呼ばれ、翠蓮は少し驚いた。

「まぁ、私の名前を?」

 男は短く答えた。

「後宮の妃の名前くらい覚えている」

 その口調は、ただの武官とは思えないほど落ち着いていた。

「え?」

 翠蓮はパチパチと目を瞬いた。一概に妃といっても、その数は三百は下らない筈だ。


 男はしばらく翠蓮を見ていたが、やがて言った。

「もし、お前の言うことが本当なら」

 翠蓮は首を傾げる。

「はい?」

 男は低く続けた。

「お前は死なないかもしれない」

 翠蓮の目が輝いた。

「まあ! それは、この先も薬草に水をあげられるということですか?」


 男は一瞬、言葉を失った。

(この女……)

 普通なら、命が助かることを喜ぶはずだ。

 なのに、気にしているのは庭の薬草だけ。

 男は小さく息を吐いた。

「……そうだ」


 翠蓮の顔がぱっと明るくなる。

「それは嬉しいですわ」

 男は眉間を押さえた。

「だが、条件がある」

 翠蓮は首を傾げる。

「条件?」

 男は翠蓮を真っ直ぐ見た。

「陛下の死を調べろ」

 翠蓮は少し考えた。

「匂うだけでよろしいですか?」

 男は首を振る。

「全部だ。毒を使った者を見つけろ」

 そして男は一言、付け加えた。

「――殉葬を取り消してやる」


 翠蓮はしばらく黙っていたが、こくりと頷いた。

「分かりました」

 男は意外そうな顔をする。

「ずいぶんあっさりだな」

「だって、毒の匂いを放っておくと、眠れないんですもの」

 翠蓮はにこりと笑い、楽しそうに言った。


 男は数秒沈黙し、やがてぽつりと呟いた。

「……変な女だ」

 翠蓮は首を傾げた。

「よく言われますわ」

 男は少しだけ口元を緩めた。

「俺は周瑛しゅうえいだ」

 翠蓮はぱちぱちと瞬く。

「武官さま、ですか?」

「まあ、そんなものだ」

 周瑛は短く答えると、背を向けた。翠蓮も慌ててその後に続く。


 後宮の入り口まで来ると、周瑛は振り返らずに言った。

「お前は、運がいい」

 翠蓮は首を傾げる。

「……そうでしょうか?」

 周瑛は静かに続けた。

「なぜ、ご丁寧に見張りが眠らされていたと思う?」

 翠蓮は思わず考え込む。

「そういえば……そうですわね」

 周瑛はさらに言葉を重ねる。

「もし今夜、俺がここにいなかったら、お前は明日、毒殺犯として処刑されていた」

 翠蓮は足を止め、声を震わせた。

「……え?」


 周瑛はゆっくり振り返った。その目は、さっきよりずっと冷たかった。

「皇帝の棺に近づいた妃。しかも、毒を知っている。都合のいい犯人だ」

 淡々と告げられ、翠蓮の背筋にぞくりと寒気が走った。

 周瑛は構わず続ける。

「つまり、俺が拾わなければ――」

 短く息を吐き、じっと翠蓮を見据えた。

「お前は今夜で終わりだった」


 その時だった。

 前方から、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。

 玉座の間へ、衛兵が次々と駆け込んでいく。

 その後ろには――

 宰相の姿が見えた。


 *******


 翌朝。

 翠蓮の姿は、薬草保管庫にあった。


「ああ、これ好きな匂いです」

 瓶を一つずつ開け、くんくんと匂いを嗅いでいく。

「うっ……この匂い嫌いです……!」

 附子ぶしの匂いに、翠蓮は鼻をつまんだ。

 その様子を後ろで見ていた周瑛が、ふっと笑う。

「犬か」

 翠蓮は瓶に蓋をしながら、むうっと周瑛を睨んだ。

「犬じゃありません。百薬族ひゃくやくぞくです」


 周瑛は目を細め、翠蓮を見る。

「百薬族……か」

 薬を操る一族として、かつては都でも名を馳せていた。

 だがその能力ゆえに恐れられ、今では山奥で細々と暮らしているという。

「なるほどな」

 周瑛は、匂いを嗅いでは顔を輝かせたり顰めたりしている翠蓮を見て、小さくため息をついた。


 その時。

「あら? おかしいですわね」

 翠蓮がある瓶を手に、首を傾げた。

「どうした?」

 周瑛がそちらを見やる。

「これ、茯苓ぶくりょうと書かれていますが、中身は麻黄まおうですわ」

 翠蓮が瓶の中身を見せながら、言う。

「間違いないのか?」

 周瑛の目がわずかに細くなる。

「ええ、匂いが全く違います」

 翠蓮は深く頷き、続ける。

「なぜ入れ違えられていることに、誰も気づかないのでしょう?」

 こてん、と翠蓮は首を傾げた。


 その時――

 ――ガタン。

 保管庫の扉が誰かに押し開かれた。

「……っ」

 周瑛は手で翠蓮の口を塞ぎ、棚の影に身を隠す。


「おい、ちゃんとあるだろうな?」

 入ってきたのは、医官の二人組だった。

 二人は警戒するように辺りを見渡し、先ほど翠蓮が立っていた薬棚の前に立つ。

 そして、麻黄に手を伸ばした。

(あら、まあ……)

 翠蓮は口を塞がれたまま、目を瞬いた。


「早く元に戻せ。誰かに見つかる前にな」

 年上の医官が苛立った声を上げる。若い方の医官は青ざめながら、瓶の蓋を開けた。

「で、ですが……本当にまだバレてないんでしょうか?」

 年上の医官は吐き捨てるように言った。

「はっ、誰が薬棚なんぞ調べる」


 棚の陰で、翠蓮が静かに手を上げる。

(もう、ここにいますわ……)

 だが声は出せない。周瑛の手がまだしっかりと口を塞いでいるのだ。


「あの方直々のご命令だ。失敗は許されないぞ」

 年上の医官は声を顰めて言った。

 そして、自らに言い聞かせるように呟く。

「もし東宮が決まれば、我々も報われる」

 その言葉に若い医官は頷くと、震えながら瓶を手に取った。

 二人の医官は麻黄と茯苓を元通りに入れ替えると、足早に保管庫を出て行った。

 パタン――静かに扉が閉まる。

 やがて、周瑛がそっと手を離した。


 翠蓮は大きく息を吸った。

「……聞きました?」

「ああ」

 答えた周瑛の声は低く、冷たかった。

 翠蓮は薬棚をちらりと見やり、言う。

「やはり、わざと入れ替えられていましたね」

 周瑛は黙ったまま頷く。

「麻黄で人は死ぬのか?」

 翠蓮は首をかしげる。

「いいえ、本来は咳や喘息を治す薬ですわ。ですが……」

 そこまで言うと、翠蓮は愛おしそうに麻黄を見つめた。

「この子を、しんの弱い方に大量に使えば、脈を乱して死なせてしまうこともあるんです」

 その言葉に、周瑛の視線が鋭く光った。

「陛下は以前から不整脈を患っていて、薬を服用されていた」


 翠蓮の目が丸くなる。

「まあ……」

 パチパチと瞬きをし、両手を合わせる。

「では、なおさら危険ですわね」

 翠蓮の笑みに、周瑛の視線が鋭くなる。

「……つまり、誰かが、陛下の病を知った上で、茯苓と麻黄を入れ替えて飲ませた、と」

 周瑛は確認するように低く呟いた。

 翠蓮は少し考え、こくりと頷く。

「そうなりますわね」

 静かな沈黙が落ちる。棚の奥で、薬瓶がかすかに触れ合う音だけが響いた。


 やがて周瑛が言う。

「東宮、か」

 周瑛は医官が言っていた言葉を繰り返した。

「東宮、ですか?」

 翠蓮は首を傾げた。

「お前、本当に後宮に住んでいるのか?」

 そんな翠蓮を見て、周瑛はため息をついた。

「亡くなった皇帝には、二人の皇子がいる」

 周瑛は二本指を立て、説明した。

「前皇后が産んだ第一皇子と、現皇后が産んだ第二皇子の二人だ」

 周瑛は淡々と言った。


「あら、皇子様は一人なのかと思っていましたわ」

 翠蓮は驚いたように口に手を添えた。

「……第一皇子は、忘れ去られた存在だからな」

 周瑛は、そう言うと目を伏せた。


「今回の件には、跡目争いが絡んでいる」

 周瑛は俯いたまま、呟いた。

 翠蓮は少し考え込み、ふと思い出したように口を開く。

「……あら、そういえば」

 周瑛が視線を向ける。

「どうした?」

 翠蓮はきょとんとした表情で答えた。

「殉葬を言い渡された時、皇后様からも陛下と同じ匂いがしましたわ」

 その言葉がさらりと告げられると、一瞬、空気が凍った。

 周瑛の目が、ゆっくりと細くなる。

「……何だと」


 翠蓮は首を傾げた。

「甘い匂いでした。でも、麻黄は甘い匂いはしません。もっと渋い香りなのです」

 顎に手を添え、翠蓮はふふっと微笑む。

「あれは、きっと――あの子ですわ」

 周瑛はしばらく黙って聞いていたが、低い声で問いかけた。

「その話、他に誰かにしたか?」

 翠蓮は素直に首を振る。

「いいえ? 今、初めて話しました」

 周瑛は深く息を吐く。

「……そうか」

 翠蓮は不思議そうに周瑛を見上げる。


 周瑛は低く呟く。

「なるほどな」

 そして、翠蓮を真っ直ぐに見据えた。

「皇后は、一つ間違いを犯した」

 翠蓮はぱちぱちと瞬きをする。

「間違い、ですか?」

 周瑛は静かに言った。

「お前を殉葬妃じゅんそうひに選んだことだ」

「え?」

「百薬族の娘。皇后は単に、一番末席のお前を選んだのだろうが……」

 周瑛はにやりと笑いながら続けた。

「それが裏目に出た」


 翠蓮は少し考えた。それから、のんびりと口を開く。

「まあ……では、皇后様は運悪く、鼻の良い人を選んでしまいましたのね」

 少し嬉しそうに笑みを浮かべる翠蓮。


 周瑛は一瞬、言葉を失った。

(この女……)

 普通ならば、この状況を恐れるはずだ。だが翠蓮は、どこか楽しげでさえあった。

 やがて周瑛は小さく笑う。

「そうだな」

 そして、鋭く光る目で静かに告げた。

「皇后は、お前を殺すのが少し遅かったようだ」


 ********


 夕刻。

 翠蓮は、皇后宮の前に立っていた。

「まあ、立派なお庭ですわねえ」

 のんびりと周囲を見回す。

 手入れの行き届いた広い庭に、豪奢な建物。


 (ああ、こんなに広いお庭があれば、薬草をたくさん育てられるのに……)

 翠蓮が羨望の眼差しで庭を見ていると、女官に声をかけられた。

「……何者だ?」

 皇后付きの年配の女官は、訝しげに翠蓮を見つめる。

「あら、お邪魔しております。私、胡翠蓮と申します」

 翠蓮はにっこり微笑み、頭を下げた。女官の眉がぴくりと動く。

「殉葬妃か……?」

 翠蓮は軽やかに笑った。

「はい、その者です」

 女官は少し迷ったが、やがて中へ通した。

「ついて参れ」


 翠蓮は案内され、広い部屋へ入る。

 そこには、扇を手にした皇后が、ゆったりと長椅子に座っていた。

「おや」

 扇を口元に当て、微笑む。

「殉葬妃が、わらわに何用だ?」

 翠蓮はぺこりと頭を下げた。

「皇后様にお聞きしたいことがありまして」

 皇后の目が細くなる。

「聞きたいこと?」

「はい」

 翠蓮は真面目な顔で言った。

「陛下にお渡しした薬のことです」


 皇后の扇が、ぴたりと止まった。

「……薬?」

 翠蓮は頷く。

「はい。しんの薬のことです」

 皇后の目が、ほんのわずかに動いた。

 翠蓮は続ける。

「あれは茯苓ではなく、麻黄でした」

 空気が凍った。

 女官たちが息を呑んで、顔を見合わせている。


 ――パチンッ。皇后が静かに扇を閉じた。

「証拠は?」

 翠蓮はきょとんとした表情を浮かべる。

「匂いです」

「……匂い、だと?」

 皇后は口元に笑みを浮かべ、翠蓮を見る。

「はい」

 翠蓮は素直に頷いた。

「陛下の棺から甘い香りと、麻黄の匂いがしました」

 皇后の指先が、ぴくりと動く。

「そして、その匂いは皇后様の袖からもするのです」

 翠蓮は首を傾げる。

「ほう、そなた」

 皇后がゆっくりと立ち上がる。

「どうやら、殉葬まで待てないらしいな」

 皇后はにやりと笑い――翠蓮の首に手を伸ばした。


 その頃。

 周瑛が翠蓮の部屋を訪れると、そこは妙に静かだった。

「胡翠蓮?」

 返事はない。

「……おい?」

 部屋の奥まで入ると、春梅が青ざめた顔で立っていた。

「こ、これは、武官さま……!?」

「翠蓮はどこだ」

 春梅は泣きそうな顔で言う。

「そ、それが、皇后宮に……」

 周瑛の表情が固まった。

「……何だと?」

 春梅は震えながら答える。

「確認したいことがある、と……」


 次の瞬間。

「馬鹿か! あいつは!!」

 周瑛の怒声が部屋に響いた。

 春梅がびくりと跳ねる。

 周瑛は頭を押さえた。

(あの女……!)

「どれくらい前だ!」

「は、半刻ほど前です……!」

 周瑛は舌打ちした。

「間に合え……!」

 踵を返し、廊下を駆け出す。

「おい!!」

 外にいた兵に声をかける。

「第一隊を集めろ!」

 兵が目を見開く。

「はっ!」

「皇后宮へ向かう!」

 周瑛は低く言い放った。

「急げ!!」

 兵たちが一斉に走り出した。


 皇后の指が、翠蓮の喉元に食い込んだ。

「ぐっ……!」

 細い指とは思えないほどの力だった。

 息が詰まり、視界の端がじわりと暗くなる。

 翠蓮の背中が、壁へと押しつけられる。

「馬鹿な女だ。黙っていれば、あと一日は生きていられたものを……」

 皇后は目を細め、ゆっくりと言った。

 その時、皇后の袖から甘い香りが漂った。

「やは……り、陛下と同じ、甘い匂いがします……っ」

 首を絞められながら、翠蓮が掠れた声で言った。


「はっ、それが何だ? 甘草かんぞうなど、茶にも使われるわ」

 ふんっと鼻を鳴らして、皇后はさらに手に力を込めた。

「あ……ら、私、甘い香り……と言っただけで、甘草とは言ってません、わ」

 翠蓮が首を傾げて、息も絶え絶えに言った。


「この……っ!」

 皇后は胸元から短刀を抜き放った。

「死ね!!」

 激昂した皇后の刃が振り上げられたその瞬間――


 バンッ!!

 扉が蹴り破られた。

「そこまでだ」

 低く、重い声が室内に反響した。皇后がバッと振り向くと、そこに立っていたのは周瑛だった。

 背後には武装した兵たちが整然と並んでいる。その威圧的な姿に、女官たちは思わず息を呑んだ。


 翠蓮が目を丸くし、のんびりと口を開く。

「あら、周瑛さま」

 周瑛は額に手をやり、深く息を吐いた。

「……お前は本当に、勝手に動くなと言っただろうが」

 翠蓮はきょとんと首を傾げる。

「言われましたっけ?」


 周瑛はしばらく沈黙し、視線を皇后に向ける。その目は冷たく、鋭かった。

「今の言葉、聞いたな?」

 周瑛が背後の兵たちに問いかけると、兵たちは一斉に頷いた。

 皇后の顔が青ざめる。

「第一王子……なぜお前がここに……」

 小さく、震える声で呟いた。


 翠蓮がぱちぱちと瞬く。

「まあ……」

 周瑛はゆっくりと前へ進む。

「皇后、いや義母上。お久しぶりです」

 周瑛は、にっこりと微笑み言った。

 部屋の空気が、一瞬で凍りついた。


「くっ、お前の顔など、見たくもないわ」

 皇后は噛みつくように吐き捨てる。

「お変わりないようで、安心致しました」

 周瑛は笑顔でそう言った後、瞬時に真顔に戻った。

 そして低く、静かに告げた。

「皇后。皇帝毒殺の罪で拘束する」

 その言葉に皇后は震え、一歩下がった。

「馬鹿な……」


 周瑛は静かに告げた。

「医官もすでに捕えている。そして、先程『甘草』という言葉も聞いた。それは、犯人しか知り得ない情報だ」

 皇后の足が崩れ、床に力なく膝をつく。

「くそ……ここまで来て、もう少しだったのに」

 悔しそうに床をドンと叩く。

 周瑛の氷のように冷たい視線が皇后を貫く。

「なぜ、父上を……殺した?」


「はっ、お前のせいだ!」

 皇后は周瑛を睨みつけ、叫んだ。

「皇帝がお前などを東宮に立てるというから! 長年尽くしてきた我が子ではなく、お前をだ!」

 室内が、一瞬にして凍りつくようなしんとした静寂に包まれた。


「……父上が?」

 周瑛は僅かに目を見開いた。

 前皇后である周瑛の母を亡くしてから、まるで皇帝は人が変わったかのようだった。

 後継の皇后の言いなりになり、ほとんど政務も臣下に任せきり。

 そして何より、まるで周瑛の存在など忘れ去ったかのような振る舞いをしていた。

「父上……」

 周瑛はぎゅっと剣の柄を握りしめた。


 その時、のんびりとした声が室内に響いた。

「皇后様は、運が悪かったのですわ」

 声の主は、翠蓮だった。

 皇后の目が鋭く細められる。

「……何だと?」

 翠蓮はにこりと微笑むと、自分の鼻を指した。

「百薬族の鼻を、ご存じなかったことです」


 ********


 その後の後宮は、慌ただしかった。

 皇后は、皇帝毒殺の罪で生涯幽閉が決まり、医官たちは拷問の末、すべてを白状した。


 そして今――


 廊下の柱の陰から、ひっそりと覗き込む男が一人いた。周瑛である。

 その視線の先には、桶を抱え、庭の薬草に水をやる翠蓮の姿があった。

 殉葬を言い渡された妃だとは思えないほど、のんびりとした表情をしている。


「……あいつ」

 周瑛は小さく呟いた。

 父を殺した陰謀を暴き、皇后を捕らえた女とは思えない。今も愛おしそうに薬草の葉を撫でている。

「大きくなりましたねえ。昨日はこんなに小さかったのに」

 誰もいない庭で、翠蓮は薬草に話しかけている。


 周瑛は額に手を当てる。

「……本当に変な女だ」

 その時、翠蓮がふいに振り返った。

「あら、周瑛さま? いつからそこに?」

 不思議そうに首を傾げる。

 周瑛は一瞬、言葉を失った。

「……今だ」

「そうですか」

 翠蓮はあっさり頷いた。


「胡翠蓮」

 名を呼ばれ、翠蓮は顔を上げた。

「殉葬は取り消しになった」

 翠蓮はぱちぱちと瞬きをした。

「まあ、良かったですわ」

 それだけ言うと、ほっと息をついた。

 周瑛は眉をひそめる。

「……それだけか」

「だって、これで、これからも薬草のお世話が出来ますもの」

 翠蓮は嬉しそうに笑った。


 周瑛は額を押さえた。

「お前は本当に、そればかりだな」

「大事なことですわ」

 翠蓮はきっぱりと言った。

 そして、周瑛は小さくため息をつき、ふと思い出したように口を開く。

「それと、お前に新たな役目ができた」

 翠蓮は首を傾げる。

「役目ですか?」

 周瑛はわずかに口元を緩めた。

「お前を宮廷の薬務官にする」

「うーん、それは庭付きですか?」

「……つけてやる」


 翠蓮は少し考え込み、それからにっこり笑った。

「はい。お任せください」

 ふと首を傾げ、真剣な顔で尋ねる。

「ところで……薬務官ということは、薬を嗅ぎ放題ということですか?」

 周瑛はしばらく沈黙し、低く呟く。

「……やっぱり変な女だ」

 翠蓮は嬉しそうに笑った。


 こうして、殉葬予定だった末端妃は、次は薬務官として、宮廷の事件を嗅ぎ回ることになった。


「周瑛さま」

「なんだ」

「新しいお庭では、薬草を少し増やしてもいいでしょうか?」

 周瑛はしばらく黙った。父を毒殺した陰謀、皇后の処罰、今後の東宮問題。やることは山ほどある。

 だが、この女は――

 翠蓮は真剣な顔で尋ねた。

 周瑛は大きくため息をつく。

「……好きにしろ」

 翠蓮の顔がぱっと明るくなる。

「まあ! では、次は毒草も育ててみますね」

 嬉しそうに言ったその姿に、周瑛のこめかみに青筋が浮く。

「やめろ」

 翠蓮は首を傾げる。

「どうしてです?」

 周瑛は少し考え、ぼそりと呟いた。

「……お前が育てると、本当に事件が増えそうだからだ」

 翠蓮はきょとんとし、ふわりと笑った。


 その日から宮廷では、こんな噂が広まった。

 第一王子のそばには、毒の匂いを嗅ぎ分ける変わり者の薬務官がいる、と。


 そして今日もまた――

 翠蓮は、新しい匂いを見つけてしまうのだった。

「……あら? 周瑛さま」

 翠蓮の鼻がぴくりと動く。

「今度はなんだ」

 翠蓮は楽しそうに言った。

「また毒の匂いがしますわ」

 周瑛は天を仰ぐ。

「……やっぱりか」


 宮廷の平穏は――どうやら、まだ遠いらしい。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

実はこの先も、翠蓮が宮廷の“匂い”を辿っていく話をいくつか考えています。

またどこかでお届けできたら嬉しいです。

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