殉葬させられそうな末端妃ですが、皇帝の棺の匂いで毒殺を嗅ぎ当ててしまいました。
「胡翠蓮、殉葬を言い渡す」
重々しく告げられた言葉に翠蓮は声を失った。
狐のような目をした宰相が、翠蓮を見下ろしている。
その背後には、皇帝の棺が安置されていた。
「……わ、私ですか?」
翠蓮は、震えながら問い返した。
彼女は末端妃。少数民族の長の娘で、四年前に後宮へ入れられたものの、皇帝と顔を合わせたことすらない。
それなのに――
(どうして、私が)
大理石の床がぐらりと歪んだ。
「皇帝陛下の御供をする栄誉です。心して務めるように」
皇后は微笑んで言った。
その目は、足元の虫でも見るように、どうでもよさそうだった。
その時、ふわりと甘い香りが翠蓮の鼻先をかすめた。薬草の匂いだけは人一倍よく分かる翠蓮の鼻が、ぴくりと動く。
(あら?)
翠蓮はわずかに首を傾げた。
だが、その違和感は宰相の声に遮られた。
「明後日、陵墓へ送るゆえ、準備を」
宰相の言葉が落ちると、皇后は興味を失ったように背を向け、その場を去った。
皇后の姿が見えなくなると、役人たちが小声で囁き合う。
「どうなるんだ? 東宮もまだ決まっていないのに」
「しっ。現皇后様がお産みになった第二皇子が立つに決まってるだろ」
ひそひそと交わされる声を、宰相がぎろりと睨みつけた。
(明後日だなんて……)
翠蓮はその場に崩れ落ちた。そのあと、どうやって自室まで戻ったのか、ほとんど覚えていない。
「翠蓮さま……」
隣では、故郷から付き従ってきた唯一の女官、春梅が顔を覆って泣いていた。
(死ぬ……)
まだ十六歳。何もしていないのに。
十二歳で後宮に入れられたものの、皇帝の訪れは一度もなかった。それからは、後宮の隅でひっそりと暮らしてきた。
与えられた小さな庭で薬草を育て、薬を作り、風邪を引いた女官に分けてやる。そんな慎ましい日々だった。
(ああ、あの薬草……)
翠蓮はふと思い出す。
(まだ、干したばかりだったのに)
それなのに、この仕打ちだ。
(私が死んだら、一体誰があの子たちに水をあげるんだろう)
あの小さな薬草たちは、まだ芽が出たばかりなのに。
明後日には、死ぬというのに翠蓮の頭の中は薬草のことでいっぱいだった。
その晩、床についても、翠蓮はまったく眠れなかった。
「翠蓮さま……お水を」
春梅が差し出した椀を受け取り、翠蓮は一口だけ口をつける。喉は乾いているのに、胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。
頭の中に、昼間の光景が何度も浮かぶ。
玉座に安置された皇帝の棺。そして、室に充満していたあの匂いーー
(あれは……)
翠蓮はゆっくりと身を起こした。
「翠蓮さま?」
春梅が驚いたように、涙で濡れた顔を上げる。
「……春梅。今日、陛下の棺から甘い匂いがしたでしょう?」
翠蓮はぽつりと尋ねる。
「え……? いいえ。私は何も……」
春梅はパチパチと瞬きをして、答えた。
(そんな筈、ありませんわ)
翠蓮の指先がぎゅっと布団を握る。
あれは香でも、花でもない。間違いなく薬の匂いだった。
翠蓮は、幼い頃から薬草に囲まれて育った。父は薬を操る百薬族の長。翠蓮もまた、匂いで薬を判別してきたのだ。
翠蓮はガバッと布団をはねのけ、寝台の脇に置いていた靴を履いた。
「えっ! 翠蓮さま、どちらに!?」
春梅が目を見開き、尋ねる。
「私、ちょっと確認して来ますわ」
まるで、少し厠へ、とでも言うような軽さで翠蓮は答えた。
「ま、まさか、皇帝の所じゃないでしょうね?」
春梅が翠蓮の前に立ちはだかった。
翠蓮はきょとんと首を傾げて、答えた。
「ええ」
春梅の顔が、みるみる真っ青になる。
「ええ、じゃありません!!」
翠蓮は帯をぎゅっと締めながら、のんびりと言った。
「ちょっと匂いを確かめたいだけですわ」
「確かめる!?」
春梅は声を押し殺して叫ぶ。
「相手は皇帝陛下ですよ!? しかも、亡くなられているんですよ!?近づいたら大問題です!!」
翠蓮は少し考えてから言った。
「うーん、それもそうですね……でも、もう怒られませんわ」
あっさりそう言う翠蓮に、春梅は声を荒げた。
「怒られます!!」
翠蓮は首をゆっくり横に振り、微笑んで言う。
「だって、私、明後日には死ぬんですもの」
そのさらりと言われた言葉に、春梅は言葉を失った。
翠蓮は靴を履き終えると、戸口へ向かう。
「翠蓮さま!!」
春梅がその袖を掴んで必死に止める。
「やめてください! もし見つかったら……!」
翠蓮は振り返った。
その目には、いつものおっとりした色はなかった。代わりに、真剣な光が宿っている。
「春梅。もし、陛下が他殺だったとしたら、どうします?」
春梅の手が止まった。
「た、他殺……?」
翠蓮はこくりと頷く。
「私、あの匂いに覚えがあるんです」
春梅は震えながら首を振る。
「そんな……」
「確かめたいんです」
翠蓮は少し困ったように笑った。
「薬のこと、気になったままだと眠れないので」
春梅は頭を抱えた。
「翠蓮さまは本当に……!」
そして小さく呟いた。
「……死ぬ前々日に、皇帝の死体を嗅ぎに行く妃なんて聞いたことありません……」
翠蓮は振り返り、くすりと笑う。
「ふふ、そうですわね」
そして、あっけらかんと言った。
「すぐ戻ります」
夜の宮廷は、ひっそりと静まり返っていた。月明かりが石畳を青白く照らしている。
翠蓮は柱の影を選びながら、足音を忍ばせて進んだ。
その時、屋根の上から誰かの気配がした気がした。
(えーと、見張りは……)
玉座の間の外には、兵が二人立っている。だが眠そうに突っ立っているだけで、中までは見ていない。
(今なら……)
翠蓮は柱の陰から、するりと中へ滑り込んだ。
広い玉座の間はしんと静まり、冷たい空気に満ちていた。
翠蓮がきょろきょろと辺りを見回すと、奥に皇帝の棺が見えた。
金の龍が彫られた棺は鈍く光り、昼間よりも不気味に見える。
翠蓮の喉が、ごくりと鳴った。
(少しだけ、失礼しますね……陛下)
小さく頭を下げ、棺へ近づく。そして、すうと息を吸った。
次の瞬間。
「……!」
翠蓮の目が大きく見開かれた。
昼間に嗅いだ甘い香りと同じ。だが、その奥にあるのは――
(やっぱり。間違いない)
心臓が、どくどくと鳴り始める。
その時だった。
「――何をしている」
低い声が、すぐ後ろから聞こえた。
同時に、冷たく銀色に光る刃が首元へ突きつけられる。
翠蓮の肩がびくりと跳ねた。
(ああ、見つかってしまいましたか)
翠蓮は小さく息を吐いた。
首筋に当たる刃は、ひやりと冷たい。少しでも動けば、皮膚が切れそうだった。
「……夜中に皇帝陛下の棺を嗅ぎ回るとは、大胆な女だな」
低い声が、すぐ耳元で響いた。
翠蓮はゆっくり瞬きをした。
「申し訳ございません」
素直にそう言ってから、少しだけ付け加える。
「ですが、どうしても気になりまして」
背後で、男の気配がわずかに動いた。
「気になる?」
「はい。匂いです」
翠蓮が正直に答えると、男の刃がほんのわずかに動いた。
「……匂い?」
翠蓮はこくりと頷いた。
「昼間、ここで甘い香りがしました」
男は黙って、翠蓮の言葉に耳を傾けている。
翠蓮は続けた。
「なので、確かめに来たのです」
「それで?」
男は刃を突きつけたまま、先を促す。
翠蓮は棺をちらりと見て答えた。
「これは、薬の匂いです」
翠蓮は少しだけ声を落として、言葉を続けた。
「ただし、使い方を間違えれば、"毒"にもなる薬です」
背後の刃が、すっと離れた。
(あら? 許してもらえたのかしら)
翠蓮はゆっくり振り返った。
月明かりの中に立っていたのは、黒衣の男だった。背が高く、鋭い目で翠蓮を見ている。淡い光に照らされた顔は、思わず息をのむほど整っていた。
男が低く問い詰める。
「お前は、本当に匂いで毒が分かるのか?」
その声音は、疑いというより確認に近かった。
「ええ、幼少の頃より鍛えられてきましたから」
翠蓮はにっこり微笑んで答えた。
「ならば、あいつらは何を飲まされた?」
そう言うと、男は玉座の間の外にいる見張り二人を指した。
「あら? あの方達……」
翠蓮はゆっくり首を傾げる。
先程までは眠そうに立っていたはずだが、今は床でぐっすり寝こけていた。
目を丸くする翠蓮を見て、男が言う。
「お前がやったわけじゃ、なさそうだな」
「当たり前です」
翠蓮は頬を膨らませた。
そして、翠蓮は鼻をくん、と動かした。
「この匂いは……っ!」
もう一度、空気を吸い込む。
翠蓮は目を細め、重大な発見をしたかのように言った。
「お酒ですね」
その答えに、男は苛立ったように額を押さえた。
「はあ……そんなのは俺でも分かる」
翠蓮は首を傾げ、きょとんとした顔で続ける。
「お酒……の中に、酸棗仁が入っています」
男の目が、鋭く細められた。
「酸棗仁?」
「ええ。眠りを誘う薬ですが……」
翠蓮は見張りの方へ目を向け、少し困ったように言う。
「これでは、量が多すぎますわね」
やがて、男がぽつりと呟いた。
「……面白い」
翠蓮はきょとんと男を見上げた。
「胡翠蓮」
男に名を呼ばれ、翠蓮は少し驚いた。
「まぁ、私の名前を?」
男は短く答えた。
「後宮の妃の名前くらい覚えている」
その口調は、ただの武官とは思えないほど落ち着いていた。
「え?」
翠蓮はパチパチと目を瞬いた。一概に妃といっても、その数は三百は下らない筈だ。
男はしばらく翠蓮を見ていたが、やがて言った。
「もし、お前の言うことが本当なら」
翠蓮は首を傾げる。
「はい?」
男は低く続けた。
「お前は死なないかもしれない」
翠蓮の目が輝いた。
「まあ! それは、この先も薬草に水をあげられるということですか?」
男は一瞬、言葉を失った。
(この女……)
普通なら、命が助かることを喜ぶはずだ。
なのに、気にしているのは庭の薬草だけ。
男は小さく息を吐いた。
「……そうだ」
翠蓮の顔がぱっと明るくなる。
「それは嬉しいですわ」
男は眉間を押さえた。
「だが、条件がある」
翠蓮は首を傾げる。
「条件?」
男は翠蓮を真っ直ぐ見た。
「陛下の死を調べろ」
翠蓮は少し考えた。
「匂うだけでよろしいですか?」
男は首を振る。
「全部だ。毒を使った者を見つけろ」
そして男は一言、付け加えた。
「――殉葬を取り消してやる」
翠蓮はしばらく黙っていたが、こくりと頷いた。
「分かりました」
男は意外そうな顔をする。
「ずいぶんあっさりだな」
「だって、毒の匂いを放っておくと、眠れないんですもの」
翠蓮はにこりと笑い、楽しそうに言った。
男は数秒沈黙し、やがてぽつりと呟いた。
「……変な女だ」
翠蓮は首を傾げた。
「よく言われますわ」
男は少しだけ口元を緩めた。
「俺は周瑛だ」
翠蓮はぱちぱちと瞬く。
「武官さま、ですか?」
「まあ、そんなものだ」
周瑛は短く答えると、背を向けた。翠蓮も慌ててその後に続く。
後宮の入り口まで来ると、周瑛は振り返らずに言った。
「お前は、運がいい」
翠蓮は首を傾げる。
「……そうでしょうか?」
周瑛は静かに続けた。
「なぜ、ご丁寧に見張りが眠らされていたと思う?」
翠蓮は思わず考え込む。
「そういえば……そうですわね」
周瑛はさらに言葉を重ねる。
「もし今夜、俺がここにいなかったら、お前は明日、毒殺犯として処刑されていた」
翠蓮は足を止め、声を震わせた。
「……え?」
周瑛はゆっくり振り返った。その目は、さっきよりずっと冷たかった。
「皇帝の棺に近づいた妃。しかも、毒を知っている。都合のいい犯人だ」
淡々と告げられ、翠蓮の背筋にぞくりと寒気が走った。
周瑛は構わず続ける。
「つまり、俺が拾わなければ――」
短く息を吐き、じっと翠蓮を見据えた。
「お前は今夜で終わりだった」
その時だった。
前方から、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
玉座の間へ、衛兵が次々と駆け込んでいく。
その後ろには――
宰相の姿が見えた。
*******
翌朝。
翠蓮の姿は、薬草保管庫にあった。
「ああ、これ好きな匂いです」
瓶を一つずつ開け、くんくんと匂いを嗅いでいく。
「うっ……この匂い嫌いです……!」
附子の匂いに、翠蓮は鼻をつまんだ。
その様子を後ろで見ていた周瑛が、ふっと笑う。
「犬か」
翠蓮は瓶に蓋をしながら、むうっと周瑛を睨んだ。
「犬じゃありません。百薬族です」
周瑛は目を細め、翠蓮を見る。
「百薬族……か」
薬を操る一族として、かつては都でも名を馳せていた。
だがその能力ゆえに恐れられ、今では山奥で細々と暮らしているという。
「なるほどな」
周瑛は、匂いを嗅いでは顔を輝かせたり顰めたりしている翠蓮を見て、小さくため息をついた。
その時。
「あら? おかしいですわね」
翠蓮がある瓶を手に、首を傾げた。
「どうした?」
周瑛がそちらを見やる。
「これ、茯苓と書かれていますが、中身は麻黄ですわ」
翠蓮が瓶の中身を見せながら、言う。
「間違いないのか?」
周瑛の目がわずかに細くなる。
「ええ、匂いが全く違います」
翠蓮は深く頷き、続ける。
「なぜ入れ違えられていることに、誰も気づかないのでしょう?」
こてん、と翠蓮は首を傾げた。
その時――
――ガタン。
保管庫の扉が誰かに押し開かれた。
「……っ」
周瑛は手で翠蓮の口を塞ぎ、棚の影に身を隠す。
「おい、ちゃんとあるだろうな?」
入ってきたのは、医官の二人組だった。
二人は警戒するように辺りを見渡し、先ほど翠蓮が立っていた薬棚の前に立つ。
そして、麻黄に手を伸ばした。
(あら、まあ……)
翠蓮は口を塞がれたまま、目を瞬いた。
「早く元に戻せ。誰かに見つかる前にな」
年上の医官が苛立った声を上げる。若い方の医官は青ざめながら、瓶の蓋を開けた。
「で、ですが……本当にまだバレてないんでしょうか?」
年上の医官は吐き捨てるように言った。
「はっ、誰が薬棚なんぞ調べる」
棚の陰で、翠蓮が静かに手を上げる。
(もう、ここにいますわ……)
だが声は出せない。周瑛の手がまだしっかりと口を塞いでいるのだ。
「あの方直々のご命令だ。失敗は許されないぞ」
年上の医官は声を顰めて言った。
そして、自らに言い聞かせるように呟く。
「もし東宮が決まれば、我々も報われる」
その言葉に若い医官は頷くと、震えながら瓶を手に取った。
二人の医官は麻黄と茯苓を元通りに入れ替えると、足早に保管庫を出て行った。
パタン――静かに扉が閉まる。
やがて、周瑛がそっと手を離した。
翠蓮は大きく息を吸った。
「……聞きました?」
「ああ」
答えた周瑛の声は低く、冷たかった。
翠蓮は薬棚をちらりと見やり、言う。
「やはり、わざと入れ替えられていましたね」
周瑛は黙ったまま頷く。
「麻黄で人は死ぬのか?」
翠蓮は首をかしげる。
「いいえ、本来は咳や喘息を治す薬ですわ。ですが……」
そこまで言うと、翠蓮は愛おしそうに麻黄を見つめた。
「この子を、心の弱い方に大量に使えば、脈を乱して死なせてしまうこともあるんです」
その言葉に、周瑛の視線が鋭く光った。
「陛下は以前から不整脈を患っていて、薬を服用されていた」
翠蓮の目が丸くなる。
「まあ……」
パチパチと瞬きをし、両手を合わせる。
「では、なおさら危険ですわね」
翠蓮の笑みに、周瑛の視線が鋭くなる。
「……つまり、誰かが、陛下の病を知った上で、茯苓と麻黄を入れ替えて飲ませた、と」
周瑛は確認するように低く呟いた。
翠蓮は少し考え、こくりと頷く。
「そうなりますわね」
静かな沈黙が落ちる。棚の奥で、薬瓶がかすかに触れ合う音だけが響いた。
やがて周瑛が言う。
「東宮、か」
周瑛は医官が言っていた言葉を繰り返した。
「東宮、ですか?」
翠蓮は首を傾げた。
「お前、本当に後宮に住んでいるのか?」
そんな翠蓮を見て、周瑛はため息をついた。
「亡くなった皇帝には、二人の皇子がいる」
周瑛は二本指を立て、説明した。
「前皇后が産んだ第一皇子と、現皇后が産んだ第二皇子の二人だ」
周瑛は淡々と言った。
「あら、皇子様は一人なのかと思っていましたわ」
翠蓮は驚いたように口に手を添えた。
「……第一皇子は、忘れ去られた存在だからな」
周瑛は、そう言うと目を伏せた。
「今回の件には、跡目争いが絡んでいる」
周瑛は俯いたまま、呟いた。
翠蓮は少し考え込み、ふと思い出したように口を開く。
「……あら、そういえば」
周瑛が視線を向ける。
「どうした?」
翠蓮はきょとんとした表情で答えた。
「殉葬を言い渡された時、皇后様からも陛下と同じ匂いがしましたわ」
その言葉がさらりと告げられると、一瞬、空気が凍った。
周瑛の目が、ゆっくりと細くなる。
「……何だと」
翠蓮は首を傾げた。
「甘い匂いでした。でも、麻黄は甘い匂いはしません。もっと渋い香りなのです」
顎に手を添え、翠蓮はふふっと微笑む。
「あれは、きっと――あの子ですわ」
周瑛はしばらく黙って聞いていたが、低い声で問いかけた。
「その話、他に誰かにしたか?」
翠蓮は素直に首を振る。
「いいえ? 今、初めて話しました」
周瑛は深く息を吐く。
「……そうか」
翠蓮は不思議そうに周瑛を見上げる。
周瑛は低く呟く。
「なるほどな」
そして、翠蓮を真っ直ぐに見据えた。
「皇后は、一つ間違いを犯した」
翠蓮はぱちぱちと瞬きをする。
「間違い、ですか?」
周瑛は静かに言った。
「お前を殉葬妃に選んだことだ」
「え?」
「百薬族の娘。皇后は単に、一番末席のお前を選んだのだろうが……」
周瑛はにやりと笑いながら続けた。
「それが裏目に出た」
翠蓮は少し考えた。それから、のんびりと口を開く。
「まあ……では、皇后様は運悪く、鼻の良い人を選んでしまいましたのね」
少し嬉しそうに笑みを浮かべる翠蓮。
周瑛は一瞬、言葉を失った。
(この女……)
普通ならば、この状況を恐れるはずだ。だが翠蓮は、どこか楽しげでさえあった。
やがて周瑛は小さく笑う。
「そうだな」
そして、鋭く光る目で静かに告げた。
「皇后は、お前を殺すのが少し遅かったようだ」
********
夕刻。
翠蓮は、皇后宮の前に立っていた。
「まあ、立派なお庭ですわねえ」
のんびりと周囲を見回す。
手入れの行き届いた広い庭に、豪奢な建物。
(ああ、こんなに広いお庭があれば、薬草をたくさん育てられるのに……)
翠蓮が羨望の眼差しで庭を見ていると、女官に声をかけられた。
「……何者だ?」
皇后付きの年配の女官は、訝しげに翠蓮を見つめる。
「あら、お邪魔しております。私、胡翠蓮と申します」
翠蓮はにっこり微笑み、頭を下げた。女官の眉がぴくりと動く。
「殉葬妃か……?」
翠蓮は軽やかに笑った。
「はい、その者です」
女官は少し迷ったが、やがて中へ通した。
「ついて参れ」
翠蓮は案内され、広い部屋へ入る。
そこには、扇を手にした皇后が、ゆったりと長椅子に座っていた。
「おや」
扇を口元に当て、微笑む。
「殉葬妃が、妾に何用だ?」
翠蓮はぺこりと頭を下げた。
「皇后様にお聞きしたいことがありまして」
皇后の目が細くなる。
「聞きたいこと?」
「はい」
翠蓮は真面目な顔で言った。
「陛下にお渡しした薬のことです」
皇后の扇が、ぴたりと止まった。
「……薬?」
翠蓮は頷く。
「はい。心の薬のことです」
皇后の目が、ほんのわずかに動いた。
翠蓮は続ける。
「あれは茯苓ではなく、麻黄でした」
空気が凍った。
女官たちが息を呑んで、顔を見合わせている。
――パチンッ。皇后が静かに扇を閉じた。
「証拠は?」
翠蓮はきょとんとした表情を浮かべる。
「匂いです」
「……匂い、だと?」
皇后は口元に笑みを浮かべ、翠蓮を見る。
「はい」
翠蓮は素直に頷いた。
「陛下の棺から甘い香りと、麻黄の匂いがしました」
皇后の指先が、ぴくりと動く。
「そして、その匂いは皇后様の袖からもするのです」
翠蓮は首を傾げる。
「ほう、そなた」
皇后がゆっくりと立ち上がる。
「どうやら、殉葬まで待てないらしいな」
皇后はにやりと笑い――翠蓮の首に手を伸ばした。
その頃。
周瑛が翠蓮の部屋を訪れると、そこは妙に静かだった。
「胡翠蓮?」
返事はない。
「……おい?」
部屋の奥まで入ると、春梅が青ざめた顔で立っていた。
「こ、これは、武官さま……!?」
「翠蓮はどこだ」
春梅は泣きそうな顔で言う。
「そ、それが、皇后宮に……」
周瑛の表情が固まった。
「……何だと?」
春梅は震えながら答える。
「確認したいことがある、と……」
次の瞬間。
「馬鹿か! あいつは!!」
周瑛の怒声が部屋に響いた。
春梅がびくりと跳ねる。
周瑛は頭を押さえた。
(あの女……!)
「どれくらい前だ!」
「は、半刻ほど前です……!」
周瑛は舌打ちした。
「間に合え……!」
踵を返し、廊下を駆け出す。
「おい!!」
外にいた兵に声をかける。
「第一隊を集めろ!」
兵が目を見開く。
「はっ!」
「皇后宮へ向かう!」
周瑛は低く言い放った。
「急げ!!」
兵たちが一斉に走り出した。
皇后の指が、翠蓮の喉元に食い込んだ。
「ぐっ……!」
細い指とは思えないほどの力だった。
息が詰まり、視界の端がじわりと暗くなる。
翠蓮の背中が、壁へと押しつけられる。
「馬鹿な女だ。黙っていれば、あと一日は生きていられたものを……」
皇后は目を細め、ゆっくりと言った。
その時、皇后の袖から甘い香りが漂った。
「やは……り、陛下と同じ、甘い匂いがします……っ」
首を絞められながら、翠蓮が掠れた声で言った。
「はっ、それが何だ? 甘草など、茶にも使われるわ」
ふんっと鼻を鳴らして、皇后はさらに手に力を込めた。
「あ……ら、私、甘い香り……と言っただけで、甘草とは言ってません、わ」
翠蓮が首を傾げて、息も絶え絶えに言った。
「この……っ!」
皇后は胸元から短刀を抜き放った。
「死ね!!」
激昂した皇后の刃が振り上げられたその瞬間――
バンッ!!
扉が蹴り破られた。
「そこまでだ」
低く、重い声が室内に反響した。皇后がバッと振り向くと、そこに立っていたのは周瑛だった。
背後には武装した兵たちが整然と並んでいる。その威圧的な姿に、女官たちは思わず息を呑んだ。
翠蓮が目を丸くし、のんびりと口を開く。
「あら、周瑛さま」
周瑛は額に手をやり、深く息を吐いた。
「……お前は本当に、勝手に動くなと言っただろうが」
翠蓮はきょとんと首を傾げる。
「言われましたっけ?」
周瑛はしばらく沈黙し、視線を皇后に向ける。その目は冷たく、鋭かった。
「今の言葉、聞いたな?」
周瑛が背後の兵たちに問いかけると、兵たちは一斉に頷いた。
皇后の顔が青ざめる。
「第一王子……なぜお前がここに……」
小さく、震える声で呟いた。
翠蓮がぱちぱちと瞬く。
「まあ……」
周瑛はゆっくりと前へ進む。
「皇后、いや義母上。お久しぶりです」
周瑛は、にっこりと微笑み言った。
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
「くっ、お前の顔など、見たくもないわ」
皇后は噛みつくように吐き捨てる。
「お変わりないようで、安心致しました」
周瑛は笑顔でそう言った後、瞬時に真顔に戻った。
そして低く、静かに告げた。
「皇后。皇帝毒殺の罪で拘束する」
その言葉に皇后は震え、一歩下がった。
「馬鹿な……」
周瑛は静かに告げた。
「医官もすでに捕えている。そして、先程『甘草』という言葉も聞いた。それは、犯人しか知り得ない情報だ」
皇后の足が崩れ、床に力なく膝をつく。
「くそ……ここまで来て、もう少しだったのに」
悔しそうに床をドンと叩く。
周瑛の氷のように冷たい視線が皇后を貫く。
「なぜ、父上を……殺した?」
「はっ、お前のせいだ!」
皇后は周瑛を睨みつけ、叫んだ。
「皇帝がお前などを東宮に立てるというから! 長年尽くしてきた我が子ではなく、お前をだ!」
室内が、一瞬にして凍りつくようなしんとした静寂に包まれた。
「……父上が?」
周瑛は僅かに目を見開いた。
前皇后である周瑛の母を亡くしてから、まるで皇帝は人が変わったかのようだった。
後継の皇后の言いなりになり、ほとんど政務も臣下に任せきり。
そして何より、まるで周瑛の存在など忘れ去ったかのような振る舞いをしていた。
「父上……」
周瑛はぎゅっと剣の柄を握りしめた。
その時、のんびりとした声が室内に響いた。
「皇后様は、運が悪かったのですわ」
声の主は、翠蓮だった。
皇后の目が鋭く細められる。
「……何だと?」
翠蓮はにこりと微笑むと、自分の鼻を指した。
「百薬族の鼻を、ご存じなかったことです」
********
その後の後宮は、慌ただしかった。
皇后は、皇帝毒殺の罪で生涯幽閉が決まり、医官たちは拷問の末、すべてを白状した。
そして今――
廊下の柱の陰から、ひっそりと覗き込む男が一人いた。周瑛である。
その視線の先には、桶を抱え、庭の薬草に水をやる翠蓮の姿があった。
殉葬を言い渡された妃だとは思えないほど、のんびりとした表情をしている。
「……あいつ」
周瑛は小さく呟いた。
父を殺した陰謀を暴き、皇后を捕らえた女とは思えない。今も愛おしそうに薬草の葉を撫でている。
「大きくなりましたねえ。昨日はこんなに小さかったのに」
誰もいない庭で、翠蓮は薬草に話しかけている。
周瑛は額に手を当てる。
「……本当に変な女だ」
その時、翠蓮がふいに振り返った。
「あら、周瑛さま? いつからそこに?」
不思議そうに首を傾げる。
周瑛は一瞬、言葉を失った。
「……今だ」
「そうですか」
翠蓮はあっさり頷いた。
「胡翠蓮」
名を呼ばれ、翠蓮は顔を上げた。
「殉葬は取り消しになった」
翠蓮はぱちぱちと瞬きをした。
「まあ、良かったですわ」
それだけ言うと、ほっと息をついた。
周瑛は眉をひそめる。
「……それだけか」
「だって、これで、これからも薬草のお世話が出来ますもの」
翠蓮は嬉しそうに笑った。
周瑛は額を押さえた。
「お前は本当に、そればかりだな」
「大事なことですわ」
翠蓮はきっぱりと言った。
そして、周瑛は小さくため息をつき、ふと思い出したように口を開く。
「それと、お前に新たな役目ができた」
翠蓮は首を傾げる。
「役目ですか?」
周瑛はわずかに口元を緩めた。
「お前を宮廷の薬務官にする」
「うーん、それは庭付きですか?」
「……つけてやる」
翠蓮は少し考え込み、それからにっこり笑った。
「はい。お任せください」
ふと首を傾げ、真剣な顔で尋ねる。
「ところで……薬務官ということは、薬を嗅ぎ放題ということですか?」
周瑛はしばらく沈黙し、低く呟く。
「……やっぱり変な女だ」
翠蓮は嬉しそうに笑った。
こうして、殉葬予定だった末端妃は、次は薬務官として、宮廷の事件を嗅ぎ回ることになった。
「周瑛さま」
「なんだ」
「新しいお庭では、薬草を少し増やしてもいいでしょうか?」
周瑛はしばらく黙った。父を毒殺した陰謀、皇后の処罰、今後の東宮問題。やることは山ほどある。
だが、この女は――
翠蓮は真剣な顔で尋ねた。
周瑛は大きくため息をつく。
「……好きにしろ」
翠蓮の顔がぱっと明るくなる。
「まあ! では、次は毒草も育ててみますね」
嬉しそうに言ったその姿に、周瑛のこめかみに青筋が浮く。
「やめろ」
翠蓮は首を傾げる。
「どうしてです?」
周瑛は少し考え、ぼそりと呟いた。
「……お前が育てると、本当に事件が増えそうだからだ」
翠蓮はきょとんとし、ふわりと笑った。
その日から宮廷では、こんな噂が広まった。
第一王子のそばには、毒の匂いを嗅ぎ分ける変わり者の薬務官がいる、と。
そして今日もまた――
翠蓮は、新しい匂いを見つけてしまうのだった。
「……あら? 周瑛さま」
翠蓮の鼻がぴくりと動く。
「今度はなんだ」
翠蓮は楽しそうに言った。
「また毒の匂いがしますわ」
周瑛は天を仰ぐ。
「……やっぱりか」
宮廷の平穏は――どうやら、まだ遠いらしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
実はこの先も、翠蓮が宮廷の“匂い”を辿っていく話をいくつか考えています。
またどこかでお届けできたら嬉しいです。




