第6話:土曜日の洗濯機と、ほどけた仮面
土曜日、午前十時。
駅前の喧騒を離れた高級住宅街の一角。東西電機製作所の代表取締役社長、徳川源一郎は、バルコニーで一枚のハンカチを干していた。
それは、彼のクローゼットに並ぶ高級なブランド品ではない。どこにでもある綿100%の、少し使い込まれた安物のハンカチだ。
「……佐藤、誠、か」
徳川は、昨日の雨の中、自分にこのハンカチを差し出した男の顔を思い出していた。
三課の中堅社員。会議ではいつも隅の方で縮こまり、目立たない男。
だが、あの「三番個室」の主が彼だと知った時、徳川の胸に湧いたのは驚きよりも、奇妙な納得感だった。
「あの情けない溜息の主が、まさか私の部下だったとはな」
徳川は、公衆トイレに通うのをやめるつもりはなかった。
あそこは、誰もが「社長」や「社員」という重い鎧を脱ぎ捨て、ただの『排泄者』になれる場所だ。自分を敬うことも、恐れることもない。あの壁越しの無遠慮な言葉こそが、徳川を孤独から救っていた。
徳川はハンカチのしわを丁寧に伸ばしながら、ふっと口角を上げた。
月曜日、このハンカチをどう返すべきか。
「社長」として返すか、それとも「師匠」としての気配を残すべきか。
六十を過ぎた経営者の心は、まるで少年時代に秘密基地を共有した時のような高揚感に包まれていた。
同じ時刻。
都心のマンションの一室では、二階堂課長――通称「女王」が、悶絶していた。
「……辛っ! でも、これよ……。これが私を浄化してくれるのよ……」
テーブルの上には、昨日の帰り道に意地で手に入れた「激辛麻婆豆腐」のテイクアウト。
真っ赤な油が浮いたそれを口に運ぶたび、会社でのストレスが汗とともに流れ出していく。
彼女の脳裏には、金曜日のあの「三番個室」の男の声が響いていた。
『女王、それご褒美じゃなくて除霊に近いですよ』
……生意気な。
けれど、彼――佐藤が、雨の中で傘も刺さずに社長に駆け寄り、ハンカチを差し出したあの瞬間。
二階堂は、自分の胸の奥が少しだけ熱くなったのを認めたくなかった。
会社では冴えない、叱ってばかりの部下。
なのに、あのトイレの壁越しに聞く彼の言葉は、なぜかいつも自分の本質を突いてくる。
「……あんな情けない男のくせに」
彼女はスマホを手に取り、ピクセル・クエストのアプリを立ち上げた。
ログインボーナスを受け取り、キャラクターの装備を整える。
画面の中の勇者に「サトウ」と名付けていることは、死んでも誰にも言えない秘密だ。
「月曜日……。あいつ、また変な溜息ついてなきゃいいけど」
二階堂は、二倍の唐辛子を追加しながら、自分でも気づかないうちに、週明けの「三番個室」からの声を心待ちにしていた。
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