第5話:雨の日の忘れ物と、差し伸べられた手
月曜日、午前八時四十分。
最悪の幕開けだった。
週明けの憂鬱を加速させるような、バケツをひっくり返したような土砂降り。
駅のホームから公衆トイレまでのわずかな距離で、俺の安物のリクルートスーツは無惨にも水を吸い、靴の中は不快な音を立てていた。
「……最悪だ。なんでこんな日に限って、傘が壊れるんだよ」
「ガチャン」
三番個室。
ずぶ濡れのスーツを脱ぐわけにもいかず、俺は冷たい便座の上で小さく丸まった。
湿った布が肌に張り付く感覚が、ただでさえ低いモチベーションを地の底まで沈めていく。
「……三番個室さん。今日は一段と『湿っぽい』な。個室の中まで雨の匂いが充満しているぞ」
左隣、二番個室。師匠の声は、雨音にかき消されることなく、真っ直ぐに届いた。
「師匠……。おはようございます。ええ、もうボロボロです。傘は折れるし、プレゼン資料の入ったカバンは濡れるし。……神様は、僕に会社に行くなと言ってるんでしょうか」
「神様じゃないっすよ、アニキ。それは単なる低気圧の悪戯っす。……あー、僕も靴下まで浸水してテンションガタ落ちっすわ」
右隣、四番個室。若の声も、いつもの軽快さが影を潜め、どこか湿っている。
「……あんたたち、男のくせにメソメソしないでよ」
壁の向こう側、女子トイレから「女王」の声。だが、その声も心なしかいつもよりトーンが低い。
「雨の日には、雨の日の戦い方があるの。……いい? 濡れたスーツは、あんたが今朝、必死に戦ってここまで辿り着いた『勲章』じゃない。……さっさと拭いて、前を向きなさい。幸い、ここは『水に流す』場所なんだから」
「……勲章、ねぇ。そう言ってもらえると、少しは救われるかな」
俺は自嘲気味に笑った。
すると、左側の個室の隙間から、何かがスッと差し込まれた。
それは、糊の効いた、真っ白で清潔な綿のハンカチだった。
「……師匠?」
「使いたまえ。……君のその『勲章』を少しでもマシにするための、援軍だ。……いいか、三番個室さん。雨は、地上を洗い流すために降る。今日の雨は、君の先週のミスを洗い流してくれるはずだ。……明日の朝には、きっと虹が見えるさ」
「……ありがとうございます、師匠」
俺はそのハンカチで、濡れた顔とカバンを丁寧に拭った。
誰のものかも分からない、けれど確かな温もりを感じる布地。
それは、どんな高級なタオルよりも俺の心を温めてくれた。
「……よし。俺も、これ以上湿ってられないな」
俺は、トイレットペーパーをいつもより多めに巻き取った。
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四つの洗浄音が、雨音を切り裂くように轟く。
すべてを流し、俺たちは立ち上がった。
個室を出て、洗面台に向かう。
ちょうど隣に立ったのは、あの社長(師匠)だった。
彼は俺にハンカチを返されるのを待つこともなく、鏡の中の自分を一度だけ睨みつけると、そのまま出口へと歩き出した。
ところが。
社長がトイレの出口を出た直後、一台の自転車が水溜まりを勢いよく跳ね上げ、彼の足元を直撃したのだ。
「あ……!」
俺は反射的に駆け寄っていた。
「……大丈夫ですか!?」
社長のズボンの裾は泥水で汚れ、彼は少し困ったように足を止めていた。
会社では「絶対君主」として君臨する男の、あまりにも無防備な姿。
俺は、さっき個室で借りたばかりの、まだ少し湿ったハンカチを差し出した。
「……これ、使ってください。……『勲章』にするには、少し汚れすぎてますから」
社長は、目を見開いて俺を見た。
その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、個室で会話している時の「師匠」の光が宿ったような気がした。
「……君は」
「……佐藤です。三課の、佐藤誠です」
俺は、初めて自分の名前を名乗った。
ここはもう個室の中ではない。けれど、あの場所で育まれた「何か」が、俺の背中を押したのだ。
社長は俺の手からハンカチを受け取ると、静かに微笑んだ。
「……ありがとう、佐藤君。……いい、差し出し方だった」
社長はそのまま、ハンカチをポケットに仕舞い、雨の中へと消えていった。
その後ろを、若(部下)が「うわっ、佐藤さん何やってんすか! 行きましょうよ!」と叫びながら通り過ぎ、女王(課長)が「……今の、社長じゃない。佐藤、あんた何したのよ!」と驚愕の表情で俺を見つめていた。
俺は、降り続く雨を見上げた。
空はまだ暗い。けれど、俺の心には、師匠が言った「虹」の予兆が、確かに芽生えていた。
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