第4話:金曜日のデトックス、あるいは週末へのファンファーレ
金曜日、午前八時四十三分。
一週間の泥をすべて引きずり出したような、最悪の疲労感。
「花金」なんて言葉は、昭和の遺物か、あるいは定時で帰れる特権階級の幻覚だ。俺たち現代の足軽にとって、金曜日とは「土日に寝込むための体力を絞り出す日」でしかない。
「ガチャン」
三番個室。
もはや、鍵を閉める音だけで「あ、今日は少し建付けが悪いな」と分かるレベルまで来てしまった。俺の人生において、これほどまでに親密な空間が他にあるだろうか。
「……はぁ。やっと、一息つける」
「お疲れ、三番個室さん。……なんだ、今日の溜息は。いつもより『一割増し』で絶望が詰まっているな」
左隣、二番個室。師匠の観察眼(観察耳?)は、もはや恐怖すら覚える。
「……師匠、おはようございます。分かりますか。……ええ、今日を乗り切れば休みだってのに、体が重くて。まるで、全身に鉛のスーツを着せられたまま、フルマラソンを走らされてる気分です」
「わかるっすわー。僕も今、意識の半分はベッドの中っすもん。……アニキ、今日乗り切ったら何か自分にご褒美とかあるんすか?」
右隣、四番個室。若の「ご褒美」という言葉が、今の俺には酷く眩しい。
「……ご褒美ねぇ。コンビニの、ちょっと高いアイスを買うくらいかな。あとは、録り溜めた深夜アニメを無心で消化する。……そんなもんかな」
「……地味ね」
壁の向こう側、女子トイレから「女王」の鋭いツッコミが飛ぶ。
「いい? 男ならもっとパーッとしなさいよ! 美味しいワインを開けるとか、高級なエステに行くとか……。そんな『守り』の姿勢だから、仕事でもパッとしないのよ」
「女王、エステは男にはハードル高いっすよ。……でも、確かにアニキ、もっとこう……自分を甘やかしていいレベルっすよ。一週間、あんなに上司に詰められてたんだから」
「……えっ? なんで俺が会社で詰められてたの知って――」
思わず口走りそうになり、慌てて口を塞ぐ。
危ない。正体がバレるのはこの場所の「禁忌」だ。
「……いや、まぁ、想像ですけどね! アニキって、声からして『損するタイプ』の真面目さが出てるし」
若のフォローに冷や汗を拭う。……確かに、自分でもそう思う。
「……ふん。まぁ、いいわ。……実は私もね、今日は帰りに『激辛麻婆豆腐』の超有名店に行く予定なの。……全部、焼き尽くしてやるわ。この一週間の、理不尽な上司の小言も、使えない部下のミスも……全部、唐辛子と一緒にね!」
「女王……。それ、ご褒美じゃなくて『除霊』に近いですよ」
俺がそう言うと、師匠が静かに笑った。
「くくく……。皆、戦っているな。……いいか、諸君。金曜日という日は、一週間の『ゴミ捨て場』だ。嫌なことも、後悔も、ここですべて出し切る。そして、空っぽになった心に、ほんの少しの『ご褒美』を詰めて帰る。……それでいいんだ」
「……師匠」
「……三番個室さん。あんたの深夜アニメも、立派な救いだ。……さて、明日は誰にも邪魔されない朝が来る。……全力で、流しちまえ!」
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四つの洗浄音が、週末の解放感となって響き渡る。
今日という日を乗り切れば、二日間の「自由」が待っている。
そう思うだけで、便器を覗き込む俺の瞳に、わずかな光が宿った。
個室を出て、手を洗う。
隣の洗面台には、鏡を見ながらネクタイを整える社長の姿。
彼はふと、俺の肩をポンと叩いた。
「……佐藤君。今日は早めに切り上げなさい。……君には、見なきゃいけない『物語』があるんだろう?」
「……えっ!?」
心臓が止まるかと思った。
社長は悪戯っぽく微笑むと、そのまま悠然と去っていった。
……まさか、バレてる? いや、まさか。
その後ろを、スマホで「週末のイベント情報」を検索しながら、「あー、ワンチャン行けるわ」と呟く若(部下)。
そして、赤いリップを塗り直し、戦闘モードから少しだけ「大人の女性」の顔に戻った女王(課長)。
俺は、会社のエレベーターの中で、自分の手を見た。
そこには、さっきまで個室の壁を隔てて会話していた、あの「絆」の感触が残っているような気がした。
「……よし。帰りに、一番高いアイス、買って帰ろう」
佐藤誠、三十五歳。
戦場の扉が開く。
今週最後の、そして最強の『スマイル』で、俺は一歩踏み出した。
更新通知を受け取りたい方は、ぜひブックマークをお願いします!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、執筆の大きな励みになります!




