第3話:共通の趣味は、秘密の暗号
木曜日、午前八時四十四分。
一週間の疲れがピークに達し始める頃、俺の脳内は現実逃避の海に浸っていた。
「ガチャン」
三番個室。
俺は便座に座ると、溜息をつく代わりに、あるメロディを小さく口ずさんだ。
「テッ、テッ、テッテッテ……」
三十年前、日本中の子供たちが夢中になった、伝説的RPG『ピクセル・クエスト』のフィールド曲だ。
「……はぁ。レベル上げだけして生きていけたら、どんなに楽か」
「ほう。その鼻歌……『ピククエⅢ』の、始まりの村を出た直後の曲だな?」
左隣、二番個室。師匠の耳は、どうやら高性能の集音器でもついているらしい。
「えっ、わかりますか? 師匠」
「わかるさ。あの当時は、バッテリーバックアップの電池が切れてセーブデータが消える恐怖と戦いながら、我々は冒険をしていたんだ。今のゲームのように、どこでもオートセーブなんて甘っちょろいものはない」
師匠の声に、かつてない熱がこもる。
「そうなんですよ! あの『おきのどくですが、ぼうけんのしょは……』という呪いの言葉に、何度絶望したことか」
「アニキたち、朝からレトロすぎっすよ。それ、ドット絵のやつでしょ? 今の時代、グラフィックが実写レベルじゃないとやる気起きないっすわ」
右隣、四番個室の若が、呆れたように口を挟む。
「若、お前はわかってない。あのドットの隙間にこそ、想像力の翼を広げる余地があったんだ。勇者の顔が判別できないからこそ、俺たちは自分自身を投影できた」
「師匠……! 言うことがいちいち心に刺さる」
俺は個室の壁を拝みそうになった。
すると、壁の向こう側から、冷ややかな、しかしどこか焦ったような声が聞こえてきた。
「……ちょっと、あんたたち。朝っぱらからゲームの話なんて、いい大人が恥ずかしくないの? 勇者がどうとか、レベルがどうとか……。そんな暇があったら、目の前の現実のレベルを上げなさいよ」
女王だ。相変わらずの正論。だが、俺は見逃さなかった。
女王の声が、一瞬だけ「ピククエ」という単語に反応して裏返ったのを。
「……女王、もしかして、やったことあるんですか?」
「はっ!? な、ないわよ! 私はもっと……こう、高尚な趣味があるの。ヨガとか、フランス語とか!」
「あ、でも今、壁の向こうからスマホの起動音がしたっすよ。……それ、ピククエの最新スマホアプリ版のログイン音じゃないっすか?」
若の地獄耳が、残酷な真実を暴く。
「………………。ログインボーナス、もらい忘れただけよ」
女王の小さな、あまりにも小さな告白。
俺たちは、壁を隔てて一気に一つになった。
「いいじゃないか、女王。我々は皆、現実という名の『無理ゲー』に挑むパーティなんだ。職種は違えど、志は同じ。……さて、三番個室さん。あのゲームの教訓を覚えているか?」
「教訓……ですか?」
「そうだ。――『毒沼を歩く時は、ダメージを覚悟しろ。だが、歩き続けなければ出口には着かない』。今のプロジェクトも同じだ。多少のダメージは、最後に宿屋で休めばいい」
「師匠……。僕、今日のプレゼン、毒沼だと思って歩き抜いてみます」
俺は、勇者のような顔(実際はスッキリした顔)で、トイレットペーパーを巻き取った。
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四人の洗浄音が、まるで冒険の始まりを告げるファンファーレのように響き渡った。
個室を出て、洗面台へ。
隣に立った社長が、ふと俺に話しかけてきた。
「……君。昨日の企画書、悪くなかったぞ。ただ、少し守りに入りすぎているな。もっと『チャレンジ』してみろ。……時には、パルプンテを唱える勇気も必要だ」
「……えっ?」
俺が固まっている間に、社長は不敵な笑みを浮かべて去っていった。
その後ろを、スマホでゲームをしながら「あー、ガチャ外れたわ」と呟く若。
そして、歩きながらこっそりスマホをタップし、「……よし、はぐれメタル倒した」と小さくガッツポーズをする女王。
俺は、自分のデスクに戻り、パソコンのログインパスワードを打ち込んだ。
『Gaia_1991』。俺が初めて勇者になった年の、あのゲームのタイトルだ。
「よし。毒沼、行ってきます」
俺の目の前には、終わりのないエクセルという名のダンジョンが広がっていたが、不思議と今日の俺には、伝説の剣が握られているような気がした。
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