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『毎朝、駅の公衆トイレで愚痴を吐いてたら、隣の個室に社長がいた件〜顔も知らない四人のデトックス・ダイアログ〜』  作者: beens


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第2話:白い生命線と、三人の連帯

水曜日、午前八時四十七分。

一週間の折り返し地点。サラリーマンにとって、水曜日とは「まだ半分か」という絶望と「あと半分だ」という微かな希望が、胃酸とともに逆流してくる魔の日だ。

「ガチャン」

定位置である三番個室。

俺は流れるような動作で腰を下ろし、一息ついた。昨夜、接待で食べた激辛麻婆豆腐が、今になって俺の消化器系に宣戦布告を仕掛けてきている。

「……う、うう。キツい……」

「おやおや、三番個室さん。今日は一段と景気のいい音を奏でているな」

左隣、二番個室から「師匠」の落ち着いた声が聞こえる。この人は、隣で何が起きていようと動じない。もはや仙人の域だ。

「……師匠、おはようございます。すみません、昨日の接待で……。もう、内臓がスマイル&チャレンジを拒否してまして」

「ははは! 昨日の今日で使いこなしているじゃないか。だが、出し切るのは良いことだ。体内から余計なものを捨てなければ、新しい知恵は入ってこんからな」

「アニキ、おはようざいまーす。相変わらず朝からディープっすね」

右隣、四番個室から「若」が参戦する。カサカサと音がするのは、おそらくコンビニの袋だろうか。あいつ、個室で朝飯を食っているのか……?

「……あ、おはよう。若。……ん? 待てよ」

俺は、ふと、ある「違和感」に気づいた。

目の前のホルダー。そこにあるはずの、唯一の希望。

俺は震える手で、ホルダーのふたを上げた。

そこにあったのは、茶色の、空虚な、段ボール製の芯だけだった。

「…………嘘だろ」

血の気が引くのがわかった。

予備の棚を見上げる。……ない。清掃員のオバちゃんの補充が間に合わなかったのか、あるいは前の奴が使い切ったのか。

今、俺の手元には、指先ほどの大きさもない、ペーパーの「最後の切れ端」が寂しく揺れているだけだった。

「ど、どうした? 急に静かになって。まさか、そのまま事切れたわけじゃあるまいな」

師匠が怪訝そうに尋ねる。俺は、消え入りそうな声で答えた。

「……師匠。……紙が、ありません」

一瞬の沈黙。

その沈黙は、このボロい公衆トイレにおいて、死を意味する。

「プッ……ギャハハハ! マジっすかアニキ! それ、現代社会で一番の詰みゲーじゃないっすか!」

若が容赦なく笑い転げる。壁を叩く音が響く。

「笑い事じゃないわよ、四番個室!」

壁の向こう側、女子トイレから「女王」の怒声が飛んできた。

「三番個室、あんた、なんて失態を……! 準備不足にもほどがあるわ。そんなんじゃ、大事な商談の途中で資料を忘れるようなものよ!」

「……すみません、女王。でも、背に腹は変えられなかったんです……。ああっ、どうしよう……。このままじゃ、会社に行けない。十年のキャリアが、駅のトイレで終わる……」

俺は絶望し、便座の上で頭を抱えた。

その時だった。

「……三番個室さん。下を見ろ」

師匠の、低く重厚な声。

俺が視線を落とすと、左側の壁の隙間――床とのわずかな空間から、白い、ふんわりとした「塊」がスッと差し込まれてきた。

それは、丁寧に三つ折りにされた、上質なトイレットペーパーだった。

「……し、師匠!」

「案ずるな。俺の個室にはまだ二ロールある。……いいか、三番個室さん。ピンチの時に手を差し伸べ合えるのが、本当の組織というものだ。たとえ、それが壁一枚隔てた他人であってもな」

俺は震える手で、その白い生命線を受け取った。

なんという慈悲。なんという温かさ。

「うわ、師匠かっけぇ……。あ、アニキ。僕の方からも『支援物資』送るっすわ。はい、これ」

右側の隙間からも、紙が差し込まれる。……が、それはトイレットペーパーではなく、カサカサした質感の、鼻をかむためのポケットティッシュだった。

「……若、これ、保湿成分入りの高いやつじゃねぇか」

「アニキのデリケートな部分への投資っすよ。後で利子つけて返してくださいね」

「……ありがとう。お前ら、最高の仲間だよ……」

俺は、二つの個室から届けられた「連帯」を手に、静かに涙を拭った(正確には尻だが)。

「……ふん。男同士で何やってんのよ、気持ち悪い」

女王が吐き捨てるように言う。だが、その直後。

「……おい、三番個室。……これ、使いなさいよ」

女子トイレ側から、壁をコンコンと叩く音。

そして、壁の上の方から、何かがふわっと投げ込まれた。

それは、個包装された高級なウェットティッシュだった。

「女の個室には紙が常備されてるの。……あんたがあまりに情けないから、特別に分けてあげるだけなんだからね。勘違いしないでよ!」

「……女王……」

これが、ツンデレというやつだろうか。

いや、違う。これは、この「聖域」に集う者たちだけの、究極の相互扶助だ。

俺は、師匠の紙で拭い、若のティッシュで仕上げをし、女王のウェットティッシュで完璧な清涼感を得た。

かつてないほどに、俺の心と体は清められていた。

「……整いました」

俺が呟くと、三つの個室から同時に安堵の溜息が漏れた。

「「「「せーの……」」」」

ゴォォォォォォォォッ!!

今日の洗浄音は、感謝のファンファーレだった。

個室を出て、手を洗う。

鏡には、危機を脱した男の、晴れやかな顔が映っていた。

隣で手を洗う初老の紳士――社長が、ふと俺のネクタイを指差した。

「……君。いい色だね。清潔感があって、信頼できる」

「あ……ありがとうございます」

社長はそれだけ言うと、颯爽と去っていった。

その後ろを、ポケットティッシュを弄びながら「お腹空いたなぁ」と歩く新入社員。

そして、ポーチからウェットティッシュを取り出し、鋭い目つきで歩き出す女性課長。

俺は、自分のデスクに戻ると、昨日の接待の件で怒鳴られるのを覚悟して課長の席へ向かった。

「課長、昨日の件ですが――」

「……。次からは、ちゃんと準備しておきなさい。……でも、まぁ。今回は『流して』あげるわ」

課長はそう言って、一度だけふいっと目を逸らした。

その手元には、さっき俺が受け取ったのと同じデザインのウェットティッシュが置かれていた。

俺は、心の中でそっとガッツポーズをした。

水曜日の戦場は、まだまだこれからだ。

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