第23話:最後の日曜日と、真夜中の清掃人
日曜日、午後十一時四十五分。
人影もまばらな駅の構内。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、響くのは自分の足音だけだ。
俺は吸い寄せられるように、あの白い仮囲いの前へとやってきた。
明日からは、いよいよ重機が入るという噂だ。
この隙間から入り込めるのも、今日が最後かもしれない。
「……最後のあいさつ、だな」
俺は防炎シートの隙間を潜り、真っ暗な聖域へと足を踏み入れた。
懐中電灯代わりのスマホの光が、埃の舞う空間を照らす。鏡は外され、剥き出しになった壁が痛々しい。
すると、奥の方で微かな「音」がした。
「キュッ、キュッ」と、何かを磨くような規則正しい音。
「……誰だ?」
俺は身構えた。警備員か、それとも泥棒か。
光を向けると、そこには意外すぎる人物がいた。
ブランドもののスーツではなく、どこにでもあるようなグレーのジャージに身を包んだ、小柄な老紳士。
……師匠(社長)だった。
彼は三番個室の前で、雑巾を手に、扉の汚れを丁寧に拭き取っていた。
「……師匠? なんで、こんな時間に」
俺の声に、師匠は驚く風もなく、ゆっくりと振り返った。
暗がりの中、スマホの光に照らされたその顔は、会社のトップとしての顔ではなく、一人の「男」としての穏やかな表情だった。
「……ああ、三番個室さんか。いや、佐藤君。……君も、同じ気持ちだったようだな」
「師匠……。何をしてるんですか、そんな格好で」
「何、ただの恩返しだよ。……私は長年、この場所に救われてきた。明日から壊されると聞いてな。せめて最後くらい、私がここを綺麗にして送り出してやりたいと思ったのだ」
社長が、公衆トイレを掃除している。
その光景に、俺は言葉を失った。
「……この場所は、ただの『箱』じゃない。私の……いや、我々の心を支えてくれた『器』だ。器が割れる時、せめて中身を空にして、感謝で満たしてやるのが、男の作法というものだよ」
師匠はそう言って、俺に予備の雑巾を差し出した。
俺は黙ってそれを受け取り、師匠の隣で、自分の三番個室の扉を磨き始めた。
二人で、無言のまま、暗闇の中で個室を磨く。
時折、遠くで電車が通過する振動が伝わってくる。
「……佐藤君。明日からのプロジェクト、君の思う通りにやりなさい。一ノ瀬君がいなくなり、不安もあるだろう。だが、君の後ろには、この個室でつながった仲間たちがいる。……そして、この場所で吐き出した君の『弱さ』こそが、誰かを救う『強さ』になるんだ」
「……はい」
掃除を終えた時、そこには月明かりを反射して鈍く光る、清らかな個室があった。
俺たちは、一度も顔を合わせないまま、並んで聖域を後にした。
「じゃあ、佐藤君。また明日、いつもの時間に」
「はい。……おやすみなさい、師匠」
仮囲いの外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
師匠の背中は、暗闇の中に静かに消えていった。
佐藤誠、三十五歳。
最後の日曜日の夜。彼は、自分の居場所を自分の手で清めたことで、本当の意味で前を向く決意を固めていた。
解体まで、あと二十日。
いよいよ、終わりの始まりがやってくる。
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